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火曜日の田山くん⑥

僕は毎日田山君に出会う。別に約束している訳ではないけれど、必ず毎日田山君に出会う。でも今日は、僕は田山を探していた。詳しくは「月曜日の田山くん」を読んで欲しいのだけれど、僕は激怒していた。

僕は田山の自宅を知らない。なんでも聞いた話によると二十年以上同じアパートに住み続けているらしい。東京都杉並区阿佐ヶ谷によく出現するとのことだが、こんなことならちゃんと住所を確認しとくべきだった。

昇る太陽よりも速く走る。己の影ですらおいて行かんとする両の足が踏みしめるその衝撃が大地を揺らす。空を切る体から風が生まれ、地響きはいつしか雷の轟へと変わり、流れ出る汗が横殴りの暴雨に成る。自身の怒りが天候をも左右すると知ってなお、私の体は動かざるを得ない。

どれほど探しただろうか。散歩していた犬を蹴飛ばし、風圧でアパートの窓ガラスが割れ、疲弊した自身の肺が潰れ吐血したころ、私はむつみ荘というおんぼろアパートから一人の男が出てくるのを目撃した。黒い上着に帽子にフードを被り、マスクをしている眼鏡を掛けた筋肉質な男。その男は私を見るとふと言った。

「鈴木君、どうしたの?そんな血眼になって」

その声は、田山。なぜ話しかけられるまで分からなかったのか。ほどなく私はこの男が昨日とは見た目が大層異なっていることに気付いた。なんといっても昨日は大便であった田山が、今日はまるでボディビルをやりながらフィンスイムで日本代表になりつつ東大受験をするもセンターで足切りを食らった苦手科目が大喜利なお笑い芸人のような恰好をしていたのである。唯一昨日と同じ点があるとすれば肌の色のみである。

「田山」

私の鬼気迫る形相に何かを察したのか、田山は胸をはり大胸筋を肥大させ威嚇してきた。なかなかの威圧感に思わず委縮してしまいそうになる。負けるわけにはいかない、男として。いざ、行かん。

先手必勝。私は二十数年間この言葉を座右の銘として生きてきた。この渾身の右ストレートはまさに私の生き様が全て反映されていると言っても過言ではない。だがしかし、この僅か刹那の時、一瞬ののち、私は生き様を否定された。

「トゥース」

田山は右手人差し指の一本で私の全てを受け止めた。これにはさすがの私もひるんだ。同じような人生を歩んできた。同じ学校に、同じアメフト部に入部した。他人から見ればくだらないような毎日を過ごし、だがそれは自身たちには青春といって差し支えない程輝いた日々であった。誰と比較することさえない、自分だけの人生を生きた日々。流れる汗は疲労の結果ではなく活力の過程であった。筋肉痛は過去への償いではなく未来への投資であった。

しかし、振り返ってみれば、同じようなレールを走っていたはずが、過去の集積が導いた未来がこの有様である。自信に満ち溢れた田山と、卑屈な私。日々変容する時代と田山に対して、私だけが取り残されるような気がしていた。今流れ出る汗は疲労でも活力でもない、焦燥。いつからか自分の人生を自分で評価出来なくなっていた。全ては相対化という絶望的な価値基準の波に飲まれ、平均という水面から顔を出す為に必死に泳いだ。他人がお気楽に水面に浮く姿は魚そのものであったが、自分は陸上生物のまま荒波に揉まれていた。力が入れば入るほど沈んでいく恐怖。これならばいっそ死んでしまった方が浮くにはいいのではないだろうか。そんなことは本末転倒だと今なら分かる。しかし当時の私は本末とは何かが分からなくなるほど追い込まれていた。他人とは違う。ただそれだけを求め、個性を演出するために死をも厭わない覚悟であった。無理矢理に吸った煙草は果てしなく続くと思われた未来の死を少しでも手の届く距離に近づけることで、今この瞬間の生を取り戻したいという願いだったのかもしれない。そして、その一瞬の生の煌めきをまともに直視することさえ出来ない自分を誤魔化す為に浴びるほど飲んだ酒は私をさらに弱くさせた。他人の憐憫の眼差しさえ快楽に変える酒の代償は翌日の生気であった。しかし遠い遠い未来が振り返れば一瞬であったこと、登っていたはずの山をいつの間にか下っていたこと、自身の人生のピークがもはや終わりを告げていたことを私はこのごろようやく悟った。

だからこそ、そんな自分を正当化するために私は対極に位置するこいつを倒さなければならぬ。右ストレートが止められて寸分の間もなく繰り出したハイキック。顔面目掛けて放たれた筋肉の塊は恐ろしい唸りを上げて両の目をえぐろうとしていた。先手必勝とはどこまでが先手なのか。それはこいつが床に屈するまでである。

「鬼瓦」

またしても私の先手は後手に正面から受け止められてしまった。

人生は一本の筋を通すべきである。自分なりの軸を持つべきである。そんな尤もらしい話を愚直に信じていた時期が私にもあった。しかし、人生を一本の直線と考えた時、産み落とされた段階で放たれた直線が時代という直線と並行であればどうだろうか。そう、私は一度も交わることの無い人生を送った。幼い頃、私の乗る列車から見る車窓の景色に心躍らせていた。流れゆく田畑の速度に自身の成長を重ね合わせ、どこまでも走ってゆけるような気がしていた。しかしいつからだろうか。私の走る列車の隣にもう一本のレールが掛けられていることに気付いたのは。私の乗る列車の後方から颯爽と追い抜く特急を間近で見て初めて自身の鈍行さを知った。私がこれから進む先には必ず先ゆく誰かがいる。その事実は私を辟易させた。だからといって特急に乗り換える術さえ知らなかった。私は誰も訪れたことの無い土地へ行きたいと思った。しかし私が設計した列車がレールの無い荒野を走れば即座に横倒しになって動かなくなってしまうなど容易に想像出来た。この先には新しいものは何もない。そう思いながらも、私は列車を降りることが出来なかった。頬から離れた涙は一筋の線になり流れて消えた。

私は田山の胸をやけくそになって殴っていた。戦略も何もない。ただ殴っていた。そんな私の八つ当たりを田山は全て受け止めた。

「田山、お前は何なんだ」

「うぃ」

「なんの為に生きているんだ」

「うぃ」

田山は人語を喋れなくなっていた。

「お前が空しくなったり、人生に絶望することなんてないか。」

その時、田山は言った。

「あるよ。」

田山はポツリポツリと喋りだした。


割愛すると、田山は浮気をしていた。

そういうことではなかった。求めていたのは、そういうことではなかった。

お詫びに百万を持っていって謝罪しにいくらしい。

そういうことでもない。

はあ、なんだかこいつと話していると人生がどうでも良くなってくる。

「憎いね、田山君」

「お前それ本気で言ってんのか」

「本気で言ってたら毎日こんなバカみたいに会わないでしょ」

『へへへへへ』

田山君は笑いながらも、額には脂汗が浮かんでいた。



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