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『小説家の映画』「窓の向こうの偶然」へ視線がいく運

 子供の視線がこっちに向いているのに気づいてしまうのです。
 気づくのは映画を観ている「わたし」であり、「あなた」でもあり、主人公俳優キム・ミニでもあり、小説家役となったイ・へヨンでもあり、映画そのものを撮っているホン・サンス監督のレンズを通したカメラの目が気づいたのかも、と思わせてくれる「もったいない」視線の交錯する場面そのものがつくる「なにかしらの美しい場面」の瞬間です。
 そこに「わたし」が立ち合い、「あなた」も立ち合い、「きみ」も「ぼく」も立ち会えるような映画。よく、人と人が偶然のように「立ち会って」しまう映画です。「運の話」に満ちています。



 映画のなかの話は進んでいて、小説家が映画を撮ろうする話になっています。監督の分身のような映像が「個性」となって、各所に散りばめられています。


 映画館で買ったパンフレットにはホンサンス監督のインタビューが掲載されていました。
 引用しますね。

 監督
 《イ・へヨンに会って、小説家が映画を作る、というアイデアを着想しました。》

 《人と会い、その人の印象的を受け取り、それに刺激され想像力とアイデアを働かせて映画を作っていくのです。》

 監督はインタビューに答えていきます。映画愛に満ちた質問が続いていて、質問者1や質問者2の顔をついつい爺は想像してみます。2022年2月16日、第72回ベルリン映画祭の記者会見の記録がパンフレットに掲載されていました。

読んでいて、なかなかいいなー、と呟いてしまう自分が現れます。あ、パンフレット買って、よかったよかった、と。
 なにか、この爺にも「運」が作用してきます。
 たぶん、人生のちいさな場面で、こういうことがふだんに起こっているはずですよね。



 質問者が窓の外から女の子が中を覗いているシーンについて質問しています。

 質問者
 《あれは撮影している時に偶然そうなったのですか?それとも最初から予定されていたのでしょうか?あなたはしばしば、何か起こった時にはそのまま自然に任せて物語を進展させていますね。》

 監督
 《あの場面は偶然ではなく、前日に台本を書いた時、女の子が中にいるキム・ミニを見ているというアイデアを着想しました。》

 そしてここからがすごい。まさしく「運」の場面ですね。引用続けます。

 《あの場所に初めてキム・ミニと行った時、同じようなことが起こったのです。女の子が窓の外からキム・ミニを見ていました。それが私の記憶に残り、映画に使えると思って台本に書き込みました。》

 「映画に使える」と思った「運」を台本に入れるのです。
 がしかし、映像そのものが「偶然」ではありません。

 爺があのシーンを劇場で観た瞬間に閃いた映画は「トリュフォー」だと思ったのでした。「偶然」に撮影中に窓の外を這う虫をそのまま撮った「突然炎のごとく」の名シーン。モノクロフィルムの画像。

 それは爺のなかに生まれた映像であって、ホンサンスがこの作品でそれを「意図した」のではないことがこのインタビューでわかりました。

 しかし、ホンサンス監督のなかでは、すでにその少女と出逢っていた偶然を「偶然のごとく」意識化して作品に入れ込むという「偶然」は起こったのでした。

この映画が持つ「運」ですね。
映画のposterにもこの場面が使われています。

 映画を観る「わたし」や「あなた」や「ぼく」や「きみ」のなかに「運」や「偶然」というキーワードの「読み取り」を「ミスプリント」することができる「映画」という魔法を、ホンサンスは「いとおしく」思っているのだな、と爺は思ったのでした。

 間違いや予期せぬことも日乗。
 この作品の中では、詩人と小説家が映画作りの会話劇のなかで「もったいない」という言葉で論争気味になるところがあります。

 こっちにこういう答えがあるのに「そっち」なの?
 あれ?それは「もったいない」という言葉の指針性が出ているところなのですが、そこは、「そっち」も「こっち」も映画のなかでどうその流れが花開くかということに関わってきます。

予定調和でなく、進行そのものに、運のヒントが見える時だってあっていい。
 プライベートなドキュメンタリーが作品に生まれ変わる時が向こうからやってくるのです。

ホンサンスが以前に撮った短編がこの映画のなかで主人公の小説家が作った「映画」として映画館で上映されるシーンがあります。

それを主演の女優キムミニが映画のなかの映画館で観るのです。

モノクロよりカラーがいいわ、という会話が中にあって、自然にかつ当たり前のようにカラーになる時の素晴らしさ。

愛のかたちさえ見えます。
涙が出てきそうに美しいシーンです。



あ、そうなのか。

あ、窓の向こうでこっちを観ていた少女とも、爺虫は、むかし、どこかのあの日あの時にきっとであっていた女の子では。

 監督
《その目的や、それを観客がどう受け止めるのかは分かりませんが、ただ、そのアイデアが気に入りました。見ている女の子と中で起こっていたことに何か意味のある関係を読み取る人がいるかも知れませんが、私は特に何かを意図したのでも、観客の反応を期待したのでもありません。》


今日は数年ぶりにnoteに文を書きました。
ひさしぶりに、「書く」楽しみが甦りました。

    草々 爺虫(jiimonsieur)拝

https://www.instagram.com/shigetakaishikawa/

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