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《司会、入ります!》 第3話


 司会、入ります! 《第3話》

「ただいまぁ〜」
 ……と言いながらドアを開ければ、あたかも同居家族がいるかのように、見える。
 松乃美咲《まつの みさき》は、いつものように室内へ身を滑りこませ、素早く玄関のドアを閉め、鍵をした。
 そして部屋の電気をつけたあと、電車のホームで安全確認をする駅員のごとく、「よし!」と施錠を指さし確認。都会でひとり暮らしをする女性の鉄則だ。
 都会といっても、ここは二十三区外のK市。大学在学中から暮らしている女性専用賃貸ワンルームマンションだから両隣もお馴染みさんで、危険な目に遭ったことはない。でも油断は禁物。
「無言で家の中に入ったら、ひとり暮らしってバレバレだもんね」
 わざと言い訳を口にしながらパンプスを脱ぎ、スリッパに履き替えれば、そこはもう寝室兼リビング兼キッチン件クローゼットだ。あと、ユニットバスも。
 自分で言うのも悲しいけれど、狭い。あまりにも狭い。スリッパを履く意味がない。部屋のサイズについては「司会派遣会社スピカ」のオフィスのほうが若干広いのが、ちょっと悔しい。
 手洗いとうがいを済ませ、ベッドにバフンと腰を下ろした。そしてクセになっている流れで、枕元に座らせてあるふわふわのネコのぬいぐるみに手を伸ばし、「ただいま、マリアさん」と呼びかける。
 おなかに顔を埋めたいけれど、ファンデーションで汚してしまう。だからいまは、そっと胸に抱きよせるだけ。
 この猫・マリアとの出会いは、彼と別れた三日後だった。
 彼と住むはずだった目黒のマンションは、彼が解約手続きを済ませることになった。この部屋を引き払う予定だった美咲は、管理会社に賃貸契約を継続したい旨を電話で伝えたところ、なにげに心配されてしまって……答えられないまま通話を切ったのだった。
 たったひとりで部屋にいるのが急に寂しくなってしまい、誰でもいいから会いたくて、でも本当は誰でもいいわけじゃなくて、なにかを思いきり抱きしめたくて、だけどそんなことができる相手は……もういなくて。

 向かったのは最寄駅の、北口ビルだった。
 一階はスーパー、二階から四階はショップの、こじんまりしたテナントビルだ。
 あてもなくエスカレーターに乗り、閉店時刻十分前に、この雑貨店にたどりついた。
 なにやら視線を感じて上空の棚を仰いだとき、「目が合った」と確信した。「ニギャア」と、太くてガラガラの鳴き声まで聞こえた気がした。
 どう見ても太りすぎの、リアルな三毛猫のぬいぐるみ。その首に提げられたネームプレートには「マリア ♀ 十二歳」と書かれていて……笑ってしまった。
 だって、どこから見てもマリアって顔じゃないでしょあなた、と、百人いたら九十九人が突っこみそうなほど不貞不貞しい顔をしている。
「あなた、ミケとかタマ顔だよね。もしくはウメさんとかキクさんとかトメさんとか」
 思いつくかぎりのお婆さん感を並べたら、たちまち愛着が湧いてしまい、引き寄せられるように両手を伸ばし、触れていた。
 直後、目の奥が熱くなった。戸惑うほどふわふわで、うろたえるほどふっくらしていて、店の商品と知りながら、気づいたときには両手でしっかり抱きしめていた。
 その瞬間、ポロポロッと涙が零れて……マリアの後頭部を濡らしてしまったから、だから弁償しなきゃいけないと思って……じゃなくて。
 美咲は泣きながら店員に頼みこんだ。いま、お金を持たずに部屋を出てきちゃったんです。でも、どうしてもマリアさんを家族に迎えたいんです。取り置きしてください。明日必ず、お金を持ってきますから。
 だから、どうか、お願いします────。
 最初こそ戸惑っていた店員は、やがて目尻を下げ、頷いてくれた。
 マリアさん、とっても静かに人間の話に耳を傾けてくれる優しい子なんですよ……って。
 無愛想な顔をしていますけど、人の気持ちに寄り添ってくれるんですよ……って。
 そして、こうも言ってくれたのだ。
 いますぐに、マリアさんをお迎えしたいですよね? と。
 抱きしめたまま、一向に棚に戻す兆しのない美咲を訝しむでもなく、その店員は……名札によると川島は、その場で自分のサイフからお金を取りだし、レジで精算して、マリアを不織布でラッピングして、美咲に渡してくれたのだ。
 お金は明日にでも返してくれればいいですから、と。

 あのときの店員・川島とは、いまではすっかり顔なじみだ。
 ときどき店に立ち寄ってレターセットを買ったり、マリアの「その後」を報告したりしている。
 じつはさっきも就職報告に寄ったばかりだった。「クビになった直後に、救いの神が拾ってくれました」と顛末を説明したら、川島はいつものように目尻を下げ、店の看板ぬいぐるみ・黒猫の甚五郎を前向きに抱っこして、「おめでとう!」と美咲とハイタッチしてくれたのだ。肉球で。
「応援してくれる人がいるんだから、頑張らなきゃね」
 三毛猫のマリアを抱えたまま、美咲はベッドに身を起こし、テレビをつけた。
「見たい番組があるわけじゃなくて、これもトークのレッスンなのよ、マリアさん」
 マリアに事情を説明しながら、美咲はチャンネルをNHKに合わせた。ちょうど夕方のニュースが始まるところだ。
 先輩司会者・在原泉《ありわら いずみ》に言われたのだ。アナウンサーの話し方を研究しなさい、と。
 受講料を払うばかりがレッスンじゃない。今日、たったいまから自宅でできるトレーニングがある、それがテレビの有効活用だと、ありがたいアドバイスをくれたのだった。
 明日から頑張りますと言った美咲に、在原とマネージャーのチカが「今日からでしょ!」と目を剥いたのは、こういうことだったのだ。
 例えば、『令和は、昭和の発音じゃなくて、明治』ということ。
 元号が切り替わったとき、民放アナウンサーの多くは「昭和」の発音で新元号を発表していた。でも首相が「明治」と同じ発音だったことで、その後統一されたという。
 元号発表の直後、スピカのオフィスには司会者たちから、「どっちの発音ですか?」と、次々に問合せメールが入ったらしい。「世間が落ちつくまで待てぃ!」と、チカが一蹴したそうだけれど。
 結果は、ドレミファソラシドの音階で表現すれば、レドドのメイジ。レレレのショウワ、ではない。
 そういう細かな……でも、話す職業の人間にとっては非常に重要なことを、いくらでもテレビから学べる。
『……────で、母の日に先駆けて、赤いカーネーションが出荷されました』「……あ」
 いま、赤いカーネーションが出荷、とアナウンサーが言った。
 「赤い」は「ドレレ」。「ドレド」ではない。「赤いカーネーション」を続けて言うと、「ドレレ、レーレドドド」となる。これは今日、美咲が「赤い色」を「ドレドドド」と発音してしまい、在原に指摘されたばかりだった。
『赤い、は、いで下がらないの。ドレレよ。思いこみや馴れで、誤った発音が身についているかもしれないから、まずはひとつひとつの単語や形容詞を、アクセント辞典で調べなさい』
 ……とチェック方法を教わったから、早速アクセントの辞書アプリをダウンロードした。これからは気になる単語を自分でチェックできる。毎日十個の発音を修正すれば、十日で百個だ。
『アナウンサーの話し方を聞くのは当然。あと、よく観察しなさい。どのくらい口を開いている?』
「ごく普通です、在原先輩」
『でしょ? 松乃さんはね、きちんと話そうとするあまり、無理して口を大きく開けているかも。でもね、その話し方は不自然よ。それと、そんなにバタバタ口を開けたり閉じたりしていたらぎこちないし、なにより顔の筋肉が疲れるでしょ? 長続きしないわ』
「おっしゃるとおりです、在原先輩」
 すでに頬の筋肉が疲労困憊です……と呟いて、美咲はふふっと笑みを漏らした。いまここに在原泉先輩がいたら、『ほら、ごらんなさい』と呆れられてしまいそうだ。
 フローラルの司会育成講座では、いつもサオリ先生に言われていた。もっと明るく、もっと華やかに、と。だから笑顔も「作った」し、身振り手振りも「付けよう」とした。華やかに「見える」ように。
 でも、違和感はあったのだ。言うなれば……お芝居のような。
 素顔じゃなくて、言葉もメイクしているみたいな。
 心から湧いてくる言葉ではなく、映える形容詞を並べて、ほら綺麗でしょ、と自慢しているかのような。
 もちろん美しさや華やかさは必要だと思うけれど、絞りだすのは違うと思う。
 どんなことでもそうだけれど、無理は続かない。いつか必ず見抜かれる。
 無理しなきゃよかった……と、後悔する羽目になる。
『無理して飾っても、バレるって。美咲ちゃんは美咲ちゃんの良さがあるんだから、そこを伸ばしなさいっつってるわけよ、マネージャーとしては』
「はい、チカさん。ありがとうございます」
 いまこの部屋にいないふたりとエア・トークを続けながら、美咲はマリアの脇の下に手を差し入れ、高く抱きあげた。
 天井の白熱灯が背景になって、マリアに後光が差して見える。それだけのことが、なんだか嬉しい。
 努力すれば、いまよりきっと前進できるし輝ける。そんな気がする。
「私、頑張るね。だから応援してね、マリアさん」
 ニギャア、と鳴いてはくれないけれど、美咲の心にはちゃんと響くし、ちゃんと見える。
 応援してくれる存在の、優しい声や笑顔たちが。

     ◆◆◆

「では、ご指導よろしくお願いします」
 緊張しながら、美咲は両手でうやうやしく茶封筒を差しだした。中身は三千円。本日のレッスン料だ。
 この金額が「高い」か「安い」かは美咲次第。しっかり身につけられれば、三千円なんて安いものだと胸を張れるはず。
 プロ司会者・在原泉先生が腕組みを解き、無言で茶封筒を受けとる。中を確認もせずデスクの脇に置くと、背筋を伸ばしてイスに座り直し、「始めます」とだけ言った。
 よろしくお願いしますと一礼し、ノートを開いてペンを手にしたら、「立って」と言われ、そのとおりにした。
「自分が一番自信を持って相手と向きあえる美しい姿勢で、目の前の人に話しかけるつもりで読んでみて」
 これよ、と指されたのは、例のアメンボ。北原白秋の五十音だ。
 なんの指摘もされないまま三度繰り返したとき、ストップがかかった。
 在原の眉間には、縦じわがくっきり刻まれている。そんな顔を前にすれば美咲はたちまち萎縮して、声を出すのも怖くなる。下腹で重ねた両手に力が入る。
 隣の部屋では、司会派遣会社スピカの敏腕マネージャー・七実チカが、陽気な声でクライアントと会話を弾ませている。壁一枚隔てた向こうとこっちの温度差が激しすぎて、じわり……といやな汗が滲んだ。
 黙って聞いていた在原が、揃えていた足を崩し、組んだ。そして困惑めいた溜め息をつく。
「ねぇ松乃さん」
「……はい」
「ただ繰り返しても、無駄でしょ?」
「……おっしゃるとおりです」
「言いにくい母音はない? うの段はどう?」
「う……ですか?」
「そう。唇が前後に動いていないのよ。要するに、表情が乏しいの」
 言われて唖然としてしまった。そんなこと、いままで気にしたこともなかった。……というよりも、まさか自分が、表情が乏しいとは思わなかった。
「でも私、ごく普通に喜怒哀楽もありますし……」
 腕組みしたまま在原が、チッチッチ……と人差し指を左右に振る。
「喜怒哀楽の話じゃなくて、表情筋の話よ」
「表情きん……って、筋肉ですか?」
 そ、と頷いた在原が、美咲の口元を指して言う。
「唇を前に突きだして、うーって言ってみて」
「こうですか? ……うーっ」
「そう。そのタコね。今度は唇を薄く開けて、うーって言ってみて」
「口薄く開けて。うー。……あ」
「気づいた?」
 はい、と美咲は驚きながら即答した。同じ「う」でも、ただ唇を突きだすだけで、声音と表情が立体的になったのがわかった……と頭の中で納得したら、まだなにも言っていないのに、「でしょ?」と在原が頷いた。
「音は耳で聞く以外にも、目で感じることができる。唇を尖らせるだけで、見ているほうは『う』をイメージする。すると、声がよりクリアに相手に届く。対面の朗読会や、披露宴のようにゲストと距離が近い場合は、表情を意識するだけで、心に届くボリュームも変わるの。相手がこちらの顔を見ていなくても、届けようとする気持ちは声で伝わる。狭い部屋で、膝を抱えてひとりごとを呟いているわけじゃない。相手がいるのよ、私たちには」
「とっても……その、勉強になります」
「そう思うなら、すぐに取り入れなさい。いまのままじゃ能面を眺めている気分だわ」
 ハッキリ言われ、なけなしの自信が紙くずのように風に吹かれて消え去った。
 気を取り直し、あめんぼ赤いな、あいうえお……と唇を突きだしながら繰り返した。
「……まぁいいわ。次は『パタカラ』を十回、三セット言ってみて。嚥下《えんげ》訓練、知ってるでしょ?」
「あ、はい。パタカラ、パタカラ、パタカラ、パタカラ、パタカラ、パタカラ、パタカラ、パタカラ、パタカラ、バタカラッ」
「最後の一音まで丁寧に。それと、パの破裂音。もう少しクローズアップしましょ。『パパはラーメン、ぼくはピザ、プリン、ママはパン』。どうぞ十回言ってみて」
 急いでノートに書き写し、顔の高さに掲げ持ち、「パパはラーメン、ぼくはピザ、プリン、ママはパン」と反復した。普段なにげなく口にしていると思われる単語が、前後に差しこまれる言葉によって、言いにくくなる現象に気づいてハッとした。
「ぼくはピザの、『は』から『ピ』。そして『ママは』から『パ』への移行。これがどちらも不明瞭なの、気づいてる? 口が疲れてくると、ぼかぁピザ、ママぁパン、に聞こえるの」
「……はい、いま気づきました」
 意識していなかったけれど、指摘されれば、おっしゃるとおり。自分の滑舌の甘さに、目から鱗だ。自分では、滑舌は悪くないほうだと思いこんでいたけれど、プロの耳は誤魔化せない。改めて思う。プロってすごい。
 もう一度、もう一度。おそらく百回は三人家族のファストフードを繰り返したところで、ようやく次のチャレンジへ進むことを許可された。この時点で、もう口周りがクタクタだ。
「たっぷりラーメンたるたるとろとろ。はい、十回どうぞ」
「えっと……、たっぷりラーメンたるたるとろとろ、たっぷりラーメンたるたるとろとろ、たっぷりラーメンたるるる……っ」
「たるたるとろとろ、でしょ? たうたうとおとおって聞こえるんだけど」
 舌の筋肉が衰えすぎ! と睨まれて、また最初からやり直し。
「え〜、たっぷりラーメンたるたる……」
「話しだす前に、え〜は余計! 意味のない音は、声にしない!」
「はいっ! た、たっぷりラーメンたるたるとろとろ、たっぷりラーメンたるるっとっとろっ」
「とっとろじゃない!」
「ひゃ、ひゃい! ひゅみまひぇ〜ん!」
「情けない声を出さないッ!」
「………………!」
「……どうしたの?」
「舌、噛んひゃいひゃひは……」
 バッカじゃないの? と目を剥かれ、ないはずの尻尾が脚の間で丸まった。
 おまけに今度は「顔が固い!」と一刀両断される始末。
「松乃さん。あなたね、無闇に口を動かせばいいってものじゃないのよ。いまの話し方はたっぷりの『ぷ』で唇を突きだしすぎて、どこから見ても不自然でしょ? 次に来る『り』が、ぎこちないでしょ? 自分だって言いにくかったでしょ? もっと自然に話しなさい」
「はぁ……」
「顔を動かしすぎてもやりすぎだし、口の中でモゴモゴお餅をついていたら、タイムリーには伝わらない。このさじ加減わかる?」
「お餅つき……、絶妙なたとえですね」
「そこに反応しなくていいから、まず肩を少しうしろに引いて、胸郭を開く。広がったそこに声をとおして響かせて。伝えたい人に手を差し伸べるイメージで話してみて。声で、ゲストをお招きするつもりでね」
 声で、ゲストをお招きする。
 どういう意味ですかと訊き返さなくても、イメージはすぐに湧いた。
 おもてなしの声。新婦のお世話をする介添人をイメージした声。仕える声。それでいて、しっかりと導く声。こちらですよと、ご案内する声。ようこそと歓迎する声。
「……いまあなたの目の前には、披露宴の打ち合わせに来た新郎新婦がいらっしゃる。このたびは、おめでとうございます。本日は、ようこそお越しくださいました。……って、お迎えしてみて」
 目を閉じてイメージを膨らませ、お迎え、お迎え……と脳内で反芻し、声でゲストの手を取る自分をイメージしながら、「このたびは、おめでとうございます。本日は、ようこそお越しくださいました。」と声にした。
 美咲の「エア・シェイクハンド」が在原にも見えたらしい。「それそれ」と、頷きながら笑ってくれて、飛びあがりたいほど感動した。
「いまの言い方、よかったわよ。初見から心を開こうという気持ちになれたわ」
「あ……、ありがとうございます!」
「会話ってね、音にすれば伝わるわけじゃないの。気持ちをこめて発しなさい。気持ちのない言葉は、ただの相づちであり、ひとり言。それは、晴れの日を楽しみにしている新郎新婦やご両家、ゲストの皆様に対して失礼なことなの。ご両家にとっては、唯一無二の日なんだから、私たちも唯一無二の言葉を選んで、語って、捧げて、しかるべきなの」
 在原のレクチャーは、隅から隅まで「ため」になる。一語たりとも聞き逃したくない。
「はい……っ」
 これは、以前通っていた「フローラル」の司会養成講座では抱かなかった感情だ。フローラルでは、とにかく「こういうときは、こう言いなさい」と、セリフを暗記するよう指導された。そうすれば披露宴は滞りなく進行するから、と。
 司会者のレベルが均一なら、ウエディングコーディネーターも発注しやすい──フローラルの五十風サオリ先生は、養成講座の生徒だった美咲にそう繰り返した。司会者に個性がありすぎたり、コメントがいちいちバラバラだったりしたら、本番を仕切るキャプテンも混乱するし、合わせるのに苦労するから、と。
 確かに一理あるかもしれない。そのときは、それで納得した……けれど、でも在原は違う。その場に相応しい言葉を瞬時に用いて、会場を温かい空気で包んでくれた。生きた言葉を紡いでいた。
 柔軟かつ臨機応変な対応に長けた、個性豊かな司会者揃い──それこそが司会派遣会社「スピカ」のスタイルであり、アピールポイントなのだ。声でゲストと握手を交わす。それって、とても……そう、とっても……。
「とっても素敵です!」
 感極まって前傾姿勢で訴えたのに、「あっそ」と、軽くいなされた。

「ちょっち休憩〜」
 とぼけた声がして、ドアが開いた。
 入ってきたのは、今日も短パンにタンクトップ。春だけど真夏仕様のチカが、ペットボトルのお茶をグラスに注いで持ってきてくれたのだ。ちなみにトレイはない。ふたつのグラスを手づかみだ。
 どうぞと笑顔で渡され、こちらも笑顔で感謝して受けとる。緊張と声の出しすぎで喉がカラカラだ。前者はともかく、後者は在原もだったようで、三秒もかからずに在原のグラスは空になった。
 「どうよ」と、チカが進展を確認する。イスの背にもたれ、髪を片手でガッと掻きあげた在原が、「んー」と天井を向いて唸ったあと、「ま、なんとかなるでしょ」と、一番聞きたい部分をすっ飛ばした。
「で、なに」
 いきなり在原が質問を投げ、チカの顔をじっと見る。「なにって、なによ」と、チカが返す。なにか隠している顔だというのは、美咲にもすぐにわかった。
 エサに食いついた魚みたいに、在原がチカの手をクイクイ引っぱる。今度はチカが「んー」と天を仰いで眉間にシワを寄せ、ふぅ、と息を吐きだした。
「さっきの電話、ブライダルフェアの日程連絡だったんだけどさ」
「ああ、毎年恒例のホテル・カリブルヌス? 今年もゴールデンウィークのど真ん中にフェアやるんでしょ? 昨今は、ゴールデンウィークの真ん中は、婚礼の閑散期だものね。長期休暇の最中に呼びだすのは、ひんしゅくを買うからって。まぁ、そのぶん地域のイベントMCの仕事で補えばいいんじゃない?」
「単価が違うんだよぉ、単価がぁ。くそぅ」
「くそうって、私に言ってる? チカ。恨むなら連休を恨みなさいよ」
 商売あがったりよね〜と言いながら、在原がクルッとイスを回して美咲を振り仰いだ。
「松乃さんも、いらっしゃい」
「はい?」
「ホテル・カリブルヌスに入っている司会事務所は、うちだけなの。いわゆる専任ってやつ。去年までは別の事務所も入っていたけど、小さなミスがふたつ続いて切られたのよ。だから、いまではこのスピカだけ」
「スピカだけって、それ、とってもすごいこと……ですよね? だって、あの超一流のカリブルヌスですよね?」
「すごい? もう素人じゃないんだから、光栄とか栄誉だとか、別の言葉で表現しなさい。言葉の変換も練習のうちよ」
 はい、と返すのも楽しい。にこにこしながら話の続きを「待て」する美咲に、在原が苦笑する。
「お客様と直接交渉して、披露宴の司会をご指名いただけるブライダルフェアは、うちの司会者全員が気合いを入れて出陣する一大イベントなの。あなたはまだお客様の席に着かなくていいから、まずは先輩司会者の交渉術を盗みなさい。そして、模擬披露宴や模擬挙式を見学して、現場の動きを学びなさい」
 楽しげに語る在原に、「違うんだよぉ、泉っち〜」と、チカが情けない声でクネクネと身を捩った。
「違う? なにが違うのよ」
 じつはね……と、いつもの敏腕マネージャーらしからぬ半べそで、チカが在原の肩に額をグリグリ押しつける。どうしたのよ、と怪訝な顔で顎を引く在原をチラリと見て、チカが唇を尖らせた。
「なんと今回もう一社、新規の司会事務所が、フェアから参入するらしいっす〜」
「新規って、どこよ」
「言いたくないっす〜」
「なにバカなこと言ってんのよ。うちの成約数が半減するかもしれない大ピンチじゃないの。うちのテリトリーに殴りこみを仕掛けてくるなんて、一体どの……」 
と言った直後に在原が口を噤み、目を剥いた。
 ゆっくりと髪が逆立つ。パチパチと弾ける放電すら見えた気がして、美咲は両腕で自分をガードした。飛び火は怖い。
「まさか……」
 言葉を切って、在原が息を呑む。その形相は完全に般若だ。
 その、まさかっす〜と認めたチカが、眉と肩とテンションを思いきり下げた。


     第4話に続く https://note.com/jin_kizuki/n/n4f2e1d6b52cb →

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