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さいきんメンタルが落ちてた時に僕を救った本たち

前に記事に書いたのだけど、家庭内の無限パンデミックによって5,6月はメンタルが地を這うほどに落ちていた。

このときは、生きるということはすべからく地獄で、いかにして苦しみに耐えるかが人間の主題である、というほどまで思っていた。

いつもならテンションが上がる哲学・思想系の固い本は、読むためのまとまった時間も精神も確保できなかったので、リカバリーのための処方箋としていつもとすこし趣向を変えたものを読んでいたのだった。

振り返ってみると、わりとストーリーがあったので記録しておく。


序盤は詩集とかを色々とかじっていた気がする。しかしちゃんと心に刻まれたものはあまりなくて、ドイツ語屈指の詩人リルケの詩集から、長編小説『マルテの手記』に進んだ。

リルケ『マルテの手記』

終始鬱々とした作品である。

多感な青年のパリでの寂寞とした生活のなかで、独特な心象風景の描写があふれ出してくる。人間存在がやどす隠微な不幸の彩が、断片的な散文詩のつらなりのうちに、モザイク模様として浮き上がる。

 僕はまずここで見ることから学んでゆくつもりだ。なんのせいか知らぬが、すべてのものが僕の心の底に深く沈んでゆく。ふだんそこが行詰りになるところで決して止らぬのだ。僕には僕の知らない奥底がある。すべてのものが、いまその知らない奥底へ流れ落ちてゆく。そこでどんなことが起るかは、僕にちっともわからない。

『マルテの手記』リルケ,新潮文庫,Kindle版位置番号. 77

悲劇的な展開があるわけではないし、読者を包み込み慰めるなにものもないい。ただ読みながら、自身のつらさの底から腰をぜんぜん持ち上げずに、リルケの孤独に寄り添って寂しく読み進めることができる。それが不思議と神経を落ち着かせる。身辺をおおう重たい淀みのなかに、豊かで蒼茫とした生と死のイメージが乱反射する。

ゲーテ『若きウェルテルの悩み』

リルケの憂鬱にたっぷりと身を浸したあとに、『ウェルテル』を読んだ。"青年悩みシリーズ"といえど、こっちはもう全くカラッとした、こう言ってよければ分かりやすい劇場=激情小説。青年ゲーテの天才が爆発している作品で、ひたすらオモロイ。

ぼくの存在のいっさいが生きるか死ぬかということで戦慄し、過去が稲妻のように暗い未来の深淵のうえにきらめき、ぼくを取り巻くすべてのものが沈み込んで、世界がぼくとともに滅びようとしている。

『若きウェルテルの悩み』ゲーテ,グーテンベルク21,Kindle版位置番号. 1761

この人間的な激しさと、終始呼応するように描かれる流麗で荒ぶる自然とが、理性的人間像に抗うシュトルム・ウント・ドランクSturm und Drang〔直訳:嵐と衝動〕運動の中心をなし、のちのロマン主義を準備した。

ぼくの胸を掘りかえすのは、自然のすべてのもののうちにひそむじりじりとむしばむ破壊力だ。隣人も、自分さえも破壊しないようなものは自然は何ひとつつくり出さなかった。これを思うとぼくは不安におののき、ふらふらする。天と地とその織りなす力は、ぼくの周囲にある。だが、ぼくはそこに永遠にのみつくし、永遠に反芻する怪物を見るだけだ。

同書,Kindle版位置番号. 1017

でも、この突き通るような絶望を前にして、「うお、自分ここまでじゃないわ。」と冷静になる。かなり俯瞰的にいち作品として呑み尽くせる感じ。なんかこう、自分が絶望してるのとは位相が違いすぎて、色々バカバカしくなってくる。自らの、不幸との距離感を感じる良い読書だった。

トリスタン・ガルシア『激しい生』

トリスタン・ガルシアは『激しい生』の中で、ウェルテルの苛烈な人間精神の形象を、近代が生んだ「電気人間」と表現した。

「強さ=激しさ」によって特徴づけられ、あらゆる方向に、快楽であれ悲哀であれ、強さ=激しさという尺度でのみ享受して満足を得ることが、近代以降の人間の基本的な条件である、と。そしてこれは、近代科学史における電気の発見から徐々に生じてきた、と。

近代的な精神にとって、強さ=激しさという概念は誘惑的な何かを持っており、再び主体を必要なものにしたのです。 主体性はボードレールの詩のように、短刀でもあり犠牲者でもありました。 主体性は認識によって無力化されたあらゆる強さ=激しさを破壊する道具でもあり、世界を生き生きとしていないものにするこうした破壊に苦しむ最初の者でもあったのです。

『激しい生』トリスタン・ガルシア,人文書院,p. 81

これはめちゃくちゃすごい本で、春頃からちまちま読んでいて今でもまだ半分ぐらい。ちょうど『ウェルテル』を読了したタイミングで本書のロマン主義への言及箇所に差し掛かり、膝を打ちまくってモチベが上がった。ウェルテルの絶望に対する自分の距離感の理由の一端を得心できて、見通しがかなり晴れてきた。

ショーペンハウエル『幸福について』

こうして、いくつかの悲しみと苦しみの形とその原理的把握を通り過ぎ、最終的に自分の苦悩とさっぱり離反する契機になったのは、哲学者ショーペンハウエルの『幸福について』だったのだろうなと思う。

「幸福はそも虚構だけど俗衆のために一応論じてみるわ」というまえがきから始まり、「内面を深めることを楽しめるようになるべし。それ以外はマジで無駄。」と結ぶ。すごく当たり前の内容ではあったけどけど、改めて理路整然と書かれるとスッキリする。

これまでの文脈に即しては、際限のない〈強さ=激しさ〉と付き合うことをやめて安寧を得ることを説いている点で繋がっている。

古代ギリシアの道徳哲学、とくにアタラクシアやアパテイアといった平静不動の境地を目指す立場に近いが、認識と創造に重きを置いているあたりはそれに尽きないところがある。

自分自身、そもそもそれに近い生き方を選んだ自覚を持っていたけど、そうは言っても悩みも苦しみも全然あるな〜とか、自分の人生を改めて振り返ってみたり目標と想いを新たにしたりするいい機会になったと思う。

ここに至って、精神はほぼ快活。色々頑張るぞ、となりましたとさ。


他にも色々と読んだけど、この辺がよく効いたかなぁ。


P.S.
そういえば座右の書の1つであるトルストイ『人生論』もこの時期に読み直しておけばよかったなと思い至り、今になって少しページをめくったけど、「痛みとか苦しみはどうせ後になったら覚えてないし大丈夫」と書いてあって、これは万全な状態のときに読むものだなと思ったのであった。

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