なめらかな日常と「ん」を巡る戦い
子育ては戦争だという。
ではなにとの戦争か?
「ん」との戦争なのである。
6歳の娘は、ひらがなが書けるようになった。ほとんどすべての文字を何も見ずにスラスラと書ける。なのだけど、「ん」だけがなんか変だ。
本来は斜め上に抜けるように払って終わるところが、なにかアルファベットの「h」みたいになっている。地面にどっしりと根を下ろしていてなんだか座りがとても良い。字形バランス的に元々の「ん」よりもこっちのほうがいいんじゃないかと思わなくもないが、そういうわけにもいかない。
はじめは他の字も上手く書けない部分が多々あったが、自然と変わっていった。この部分だけは、半年経っても1年経ってもなぜか直っていかない。
こうして、「ん」との長く険しい戦いの火蓋は落とされる。
赤ペン先生よろしく、ササッと正してあげればいいじゃないか。そう思われる方もいるかもしれない。日々丁寧にそれを繰り返していけば、気づいたころには直っているのかもしれない。
でも、ここで問題がある。直したり間違ってると指摘したりはどうしてもしたくないのだ。
我が家の子育てに確たる戦略があるわけでもないけれど、なんとなくのポリシーとして、あらゆる物事について親が考える「正解」を押し付けたくないという想いがある。
世間とは少しズレた考え方かもしれないが、こどもがなにかやることについて正解であるとか不正解であるとかは二の次ではないかということだ。
もちろん、年頃の子供の日常なんてものは無数のダメなことで溢れかえっているし、娘がダメなことをしたときには是々非々で怒っているのだけど。それでも、自分なりのやり方でなにかにチャレンジして失敗している娘をできるかぎり尊重してあげたいのである。
だから、何を描いてるか全く判然としない絵でも、本人が「くるま描いたの」といえば全力で褒めるし、3+6を「10!」と言われても「せいかい〜!」と答える。精一杯の笑顔を作りながらも、たぶん少しだけ引きつった顔をして。
どれだけ拙く、どれだけ明後日の方向にいっているものであっても、娘が自分自身で考え工夫した結果として、手垢のべったりついた何かを取り出して見せたのなら、それ自体に無上の価値があるのではないか。自分が生み出したなにかが、それが生まれた瞬間から不断に世界と関係していく。その変化と関係を通じて、世界をまったく新たに知覚する。そうやって開けていく晴れやかな景色に、賭けたいと思っている。
そうなると、敵は、打ち倒すべきは、間違った「ん」の書き方ではない。
そうではなくて、本当の悪の親玉は、間違った「ん」を是が非でも直したいと切実に感じてしまう親の側の強迫観念だ。
ヘンテコな「ん」を見るたびに、ウッとなる。んーーー・・となる。心のうちのとても深い部分で、コンマゼロ秒のうちに鋭い嫌悪感が脳髄を伝い、警告音が激しく鳴り響く。頭で考えるよりも早く、「そうじゃな...」という言葉が喉奥まで出かかっている。強烈な悪の存在を直感的に察知したかのような、本能的な拒絶としか言いようがないような、根源的な否定の力。声を押し止めるためにとっさに噛む唇の痛みを通して、その念の強烈さが我が身に刻まれる。
理性的な認識と判断の次元を、これははなから決定的に超えている。
言い過ぎと思われるかもしれないが、自分も体験してはじめてその感情の強さに気づいた。パズルの間違いよりも数え間違い、数え間違いよりもひらがなの間違い。より簡単でより基底的な認識の誤りに対して、より強い拒否反応が伴うようだ。
だから、「ん」は強敵だ。その根源性ゆえ、戦いは熾烈を極める。
日々どれだけ「正解は出さない」と念じていても、この心的負荷はあまり弱くはならない。冷静に考えれば、「ん」の一つや二つ今書けなくてもどうってことはないのだけれど、どうもそういう問題ではないらしい。
今日もまたウッとなり、「ぐぬぬ」と耐える。このストレスが無限に反復され、頭の中で無限に反響する。
***
下書きのまま半年ほど寝かせておいたこの記事をちゃんと放流しようと思ったのは、さいきん少しだけ「ん」の書き方が変わってきたからだ。「h」のように底辺にしっかりと着地していた最後のトメが、そこで止まらずにわずかにピョイとハネるようになってきた。
きっかけも兆候も、特になかった。日ごろ文字をたくさん書いているわけでもなく、新しいひらがなドリルに着手しているわけでもない。なにとなく自然に、持ち上がってきている。これから徐々に右上に抜けるような払いになっていきそうなハネである。
戦いは終わりに近づいていた。
それでも、遠く前線から響いてくる鬨の声はどこかおぼろげでくぐもっていて、重たい湿度を持っているように感じる。開放感も安堵感も、嬉しさすらほとんど無い。
これを成長と呼べるとして、ごく一部であれ社会のルールから遊離していた娘氏の子どもならではの素朴さが失われてしまった寂しさのようでもあり、あの火花散る戦場から背を向けて歩き去らねばならない自分自身の寂しさのようでもある。娘が無意識に「ん」と戦っていたその傍らで、父も一緒に「ん」と激戦を繰り広げていた。そういう仕方で、自分自身のうちに内在する社会あるいは世界像と、反転的に交通していたのだ。日常を生きることのあまりの滑らかさに対して、大人ならではの"こなれ感"に対して、土俵際で両足をぐっと突っ張るようにして抗っていたのだ。
気づけば最近スマホのフリック入力も難なくこなせるようになった娘。
父がトメだハネだと並ならぬ精神の闘いを(一人勝手に)繰り広げていたとはつゆ知らず、母へのLINEの代筆に今日もせっせといそしんでいる。ちなみにフリックだと「わ」に指を置いて上にシュッとひと振りでしまいである。なんなんだよまったく。なんだこの時代。
まぁでも、子供というのはいつの時代も、こうやって親の予想の斜め上に向かって伸びやかに飛翔してゆくものなんだろうな。
「ん」の右上にも、どこまでも続く無窮の大空が広がっているように見えてきた。これこそ、ひらがなのトリを飾るにふさわしい。
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