見出し画像

しあわせのていぎ

 先日、細々とやっているYouTubeでのラジオに、こんなお便りが届いた。

「幸せの定義ってなんでしょうか?」

 相方の、のりゆきと議論を試みたが、アイツと話していても真面目に深く定義することなど、到底できなかった。
 ラジオを聴いてみた人はわかると思うが、なんか「もういいじゃん、結論出たじゃん、早く終わろうよ」のニュアンスの言葉を何度も俺に浴びせ、このテーマを早々に切り上げようとしてきていたのだ。
 頭の中が、食欲・性欲・睡眠欲の三代欲求のみで埋め尽くされているので、その時間が苦痛だったのであろう。
 だから、改めて幸せとやらを定義しようと、この場で思いを巡らせて、あのお便りに応えてみたいとおもう。

 まず、どこから考えようかと、こめかみを痛くしてみたのだけれど、『幸せ』を定義するという話の前に『定義』という所に目を向けた方がいいんじゃないかと思ってしまった。

 『定義』というのは、つまりは、概念に言葉を与える、物事に名前を与えるってことだろう?そうだろう?つまりは、『幸せ』という言葉が生まれた時点でそれは一つの『定義』であったわけだな。
 谷川俊太郎さんの詩、『春に』の中に「この気もちはなんだろう」という一節があるが、『幸せ』という言葉が生まれる前に、この詩のような事を思った人がいたんだよ、きっと。
 もしもその人が、
「ん?なんだこれ?このほわぁっとしたあたたかい気持ちは?なんだろう、この気もちはなんなんだろう。ほわぁっとするなぁ。なんだこれ、ほわぁってするから、"ほわあせ"かな。うん、いいじゃん"ほわあせ!"よし、今度からこの気持ちの事を、ほわあせって呼ぼっ!」
と定義していたとしたら、『幸せ』は『ほわあせ』として今のいままで呼ばれ続けていたことになるわけだ。
 ただ、その気もちを『ほわあせ』と名付けたところで、「ほわあせの定義ってなんでしょうか?」と悩んでしまうのなら、定義ってなんの意味があるんだろうか。
 実は、たぶんきっと、最初の「この気もちはなんだろう」というその言葉こそが、1番その気持ちを表してるんだ。だから谷川俊太郎さんは、すごい。
 俺は春になると合唱曲の『春に』をよく聴く。聴きながら歩く。春一番が吹く頃、ほんとに「この気もちはなんだろう」って想いはじめるから不思議だ。

 だから俺はもし、もしも議論するならば「幸せの定義がなんなのか」よりも、「幸せの定義ってなんでしょうか?」と感じた、思った、その気持ちにこそ名前を付けるべきだと思うんだ。
 いや、名前は付けなくてもいいかもしれないけど、「"幸せの定義はなんでしょうか?"って思う、この気持ちはなんだろう…?」と、一旦、俯瞰的に疑問をもってみてはどうかな?うん、よくわからなくなってきたね。
 でもみんな一度は、「自分にとっての幸せってなんだろう」って、考えたことがあるはずなんだ。だからその疑問を思う気持ちにこそさ、うん、そうだよ、名前つけてみようよ。付けちゃおうよ名前。あえて、定義しちゃおうよ。
 書きながらなにも思い付いてないし、なにも定義できないかもしれないけど、別にいいよ。言葉なんてどんどん変化していくものなんだから、現時点での
「"幸せの定義ってなんだろう?"て思う、この気もちはなんだろう?」
という、その気持ちに名前つけちゃおうよ。
 深く考えるな、適当に読んでいればいい。

 さて、「幸せってなんだろう?」てことだよな?うん。よく思うよ。なんか、男だけで集まって、みんな帰りたくないあの夜中の公園とかで、言ったことあるよ、「幸せってなんだろうなぁ」って。缶コーヒー片手にさ。これだろ?この気持ちだろ?あるんだよ絶対、「幸せってなんだろうなぁ」ていうきもちってみんな!
 だけど名前がついてないの。よーし、なんだ?なんだと思う?うるせーよ!名前なんてつけらんねえよ!無理だろ!そんなもん、「幸せってなんだろう」は「幸せってなんだろう」だよ!情緒不安定だバーロー!
 なんだ、「幸せってなんだろう」って!忘れろ!そんな気持ち!しゃらくせー!しゃらくせだな!「しゃらくせ」!幸せってなんだろうって思う気持ちの名前決まりました『しゃらくせ』です!

 すみません、落ち着きます。難しくて投げやりになってしまいました。ちゃんと考えましょう。

 そう考えたら『幸せ』て名前つけたやつ、すげえな。いや、ムカつくな。簡単に名前つけてんじゃねえよ、あの「ほわぁ」によぉ。俺だけの、俺たちだけの「ほわぁ」に一概に『幸せ』なんて藪から棒に名前つけやがって!バーロー!

 すみません、落ち着きます。

 だめだ。「幸せってなんだろう」より、まず『幸せ』になる為に大事なことを考えたほうが早い気がしてきた。『幸せ』…ねぇ。
 ま、でも何事も自分に「合う」てことが大事なんだろうなぁ。
 自分に合った『幸せ』てのがきっとあるし、ちゃんとそれを感じるってのが大事だよな。ちゃんと「ほわぁ」を感じて、自分に合うものをわかっていったら良いよね。「足るを知る」とは、またちょっと違うかもしれないけれど。

 あとは、いちばん良いのは、他人の「ほわぁ」を自分の幸せに感じられたら最高だよな、と思う。
 他人の「ほわぁ」をつくることが、自分の「ほわぁ」になる。それが本当の「ほわあせ」だろうな。
 人の「ほわぁ」をつくることに、汗をかいていかなきゃな。ほわあせ垂らして働かにゃ。
 うーん、でも逆説もあるか。まずは自分が幸せじゃないと他人を幸せになんてできないみたいな、どっかで聞いたことあるようなこと言ってる人もいっぱいいるもんな。ま、でもそれもひとつの真実であることは間違いないか。
 ひとつ言えるのは、こうやってつべこべ言ってられるってことが、俺にとっては一つの幸せだということ。(お団子ぱくぱく🍡お茶ずずず🍵 は?)

「幸せってなんだろう」ってさ、「可能性を探してる」ってことじゃん。可能性があるって素晴らしいことなんだよ。実際に可能性があるか無いかじゃなくって、「可能性があるかも」って思えることがすっごく大事で。
 あと、まぁ、後から振り返ってみて思うことだと思うんだよなぁ。『幸せ』っつーのはさ。
 本当に幸せなその瞬間って「幸せ」て感じるのも忘れてる時というか。「楽しい」もそうだね。夢中になって没頭してて、あとから「あー、楽しかった」て思うものというか。
 だから「幸せってなんだろう」て夢中になって考えたり、話したり、探したり、悩んだりしてるコレは紛れもなくひとつの『幸せ』のかたちであるということ。綺麗事だけどね。でも記憶って振り返った時の角度で見え方なんて変わるから。

 あと、このお便りを送ってきた人に思うのは、「幸せってなんだろう」て聞いて、応えてくれる相手がいるってのはすごく幸せなことだと思わない?俵万智さんの「寒いね」の短歌じゃないけどさ。
 そうやって小さい幸せをたくさん噛み締めるのよ。薄味でも素材の味を感じられる舌になってって、なんでも美味しく思えてくるから。
 そうそう、おとなになって好きな味が変わるのと一緒で、感じられる『幸せ』も変わってくるから。「苦い」ものも美味しくなるよ。
 練習とか習慣とか修行とか、そういうのと一緒でさ。ちょっとずつ自分の器を大きくしてくのよ。楽しめる器を。俺は楽しめる器を広げることを「楽器を広げる」って呼んでるんだけど。どんなことでも楽しめるようになれたら無敵だから。できるだけ、いつでも良い音出したいから。どんなことでも楽しめるような器になりたい。理想はね?
 ま、そんなの一生無理なんだけど。でも、限りなく無限に近い有限の大きさに、楽器を広げていけたらいいよなぁ。書いてて頭痛くなってきた。こんなの誰も読んでねえからどうでもいいんだけどさ。
 つまりは、無意識の「幸せ」を意識にあげてってさ、こうやって啓発か宗教かスピリチュアルかなんなのか、わかんねえような文章を書いてるのも、読んでるのも、「楽器を広げていく修行」と思ってね。やってけばいいのさ。

 そういえば、新垣結衣さんがね、大好きなんだけど。俺がね、大好きなんだけど。向こうはどう思ってるかわからないよ?ただ俺がね、大好きなんだけどもね?
 新垣結衣さんのなにかのインタビューを読んでたら、「どんなことも楽しめるようになりたい」って言ってて。「一緒だ!」と思って。だからそれから俺の人生のテーマは「楽器を広げる」から、「ガッキーを広げる」に変わったんだよ。

 だから、ここまで読んでくれた最高なあなたにも、「幸せの定義」が沢山入る、大きな器になっていってほしいなと思っています。
 こんなよくわからねぇ文を読めた、楽しめたのなら、ひとつまた、あなたは器が大きくなったということです。

 だからえーと、そうだな、現時点で「幸せってなんだろうって、思う気もち」に名前を付けるとしたら、『カノウセイ』もしくは、『ヒマ』ですね。

 読んでくれて、ありがとうございます。

 相方に対しては、ぜんぜん器を大きくできません。なんでなんでしょうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?