ドイツの新たな排外主義〔ショーヴィニズム〕第1部〔前半〕

ブエ・リュブナー・ハンセン
https://lefteast.org/the-new-german-chauvinism-part-i/より)

(Újvidéki vérengzés áldozatainak emlékműve (Memorial to the victims of the NoviSad massacre), Mészáros Zoltán via Wikimedia Commons.)


 人は過去から解放されたがっている。それは正しい、なぜなら過去の影に隠れて生きることは決してできないし、罪と暴力が罪と暴力で償われる限り、恐怖に終わりはないからだ。
 そしてそれは誤っている、なぜなら逃れたいと思う過去がまだ生きているからである。
テオドール・W・アドルノ


 ドイツでは現在、2 つの重大かつ深刻な参与のいずれかを選択することを余儀なくされている。すなわち、民間人の大量殺戮に政府が加担するのを受け入れるか、それとも反ユダヤ主義として告発されるかである。
 ホロコーストの国民的記憶によって、人命や国際法(集団懲罰、白リン弾の使用、水・エネルギー・食料の市民や病院からの強奪に対する禁止など)への配慮が、どこにいるかに関係ないユダヤ人への歴史的責任や連帯への参与と相容れないかのように思われているのだ。
 国際司法裁判所からドイツの文化機関における数多くのユダヤ人ディアスポラ知識人の資格取り消し〔キャンセルすること〕に至るまで、ドイツがイスラエルの極右民族ナショナリスト政府の活動を擁護するのはなぜなのか。
 なぜこれほど多くのドイツ人が、あるひとつのジェノサイドの記憶を利用して、国際司法裁判所の裁定に照らすならば現に進行中のジェノサイドと呼ぶに相応しいものをかばうのだろうか。

 こうしたことは、ドイツ人の根深い共通認識〔コンセンサス〕を表していると、傍目には思われがちである。
 しかし、2023年夏に実施されたイスラエルとパレスチナの紛争に対するドイツ人の意識調査では、紛争が自分にとって重要だと答えたのはわずか18%で、大部分は「ほとんど重要ではない」(40%)または「まったく重要ではない」(33%)と答えている。信じられないことに、イスラエルへの全面的な支持は、アメリカの29%に次いで各国で2番目に高いものの、17%にとどまり、パレスチナへの支持はそれよりわずかに低い14%にとどまった。
 10月7日以降、ドイツではイスラエルへの共感が38%にまで跳ね上がったが、その後は大幅に下落している。2023年12月のドイツの世論調査では、回答者の59%が「イスラエルは他国民を気にすることなく自国の利益に従う」、41%が「イスラエルは攻撃的」、56%が「ドイツはイスラエルに対して特別な責任はない」と答えた。
 要するに、イスラエルとの連帯は、外から思われているほどドイツでは一般的な感覚ではない。むしろそれは、ドイツの国民性の定義、世界におけるドイツの立ち位置、その中での西アジアや北アフリカからの移民の立ち位置をめぐる争いに意識的に関与している関係者たちが推進したり、規制したりしているプロジェクトなのである。
 別の言い方をすれば、多くのドイツの有識者、知識人、文化的指導者、政党指導者、左翼活動家たちがイスラエルとの連帯を推進するときに非常に大きな力を発揮するのは、ドイツにおけるイスラエル支持という共通認識〔コンセンサス〕の力を示しているのではなく、むしろその薄弱さ、そしてこのことが支持者たちにもたらす不安や不信感を示すものなのである。

 本稿の第1部では、ホロコーストに対するドイツの贖罪がイスラエル国家を支持することと本質的に結びついているという考え方の歴史的背景を説明する。それは、多くの関係者が右翼の歴史修正主義、反ユダヤ主義、ファシズムの復活の危険性について深く、かつ十分に根拠のある警戒心を抱いていたこと、そしてそれがいかにして今日および冷戦期の(西)ドイツの地政学的利益を都合よく擁護するために利用されていたかということについての
説明である。
 国民的自己批判のための左翼の闘いが、いかにしてShuld(罪/負い目/有責性)を土台としたドイツ(民族的)ナショナル・アイデンティティの再構築に転用されたのか。
 このアイデンティティには、悔い改めた者の道徳的排外主義が染み込んでいる。後述するように、悲劇は、このような力学に疑問を呈することが期待されたはずのこうした左翼や市民の声の多くが、逆にこの新しいナショナル・アイデンティティの地政学的・道徳的優越性と密接に連携していることだ。この過程を通じて、ドイツの進歩派は世界中の他の進歩的勢力から孤立してしまった。

 本稿の第2部では、ドイツの記憶文化とドイツ国内のイスラエル支持との間の結婚がもたらした結果を探っていく。パレスティニアン・ライブス・マターと訴える移民の若者に対する人種差別的な取締りを受け入れること、ドイツ右翼とイスラエル右翼との間で急速に結ばれた反イスラム的な同盟について口を閉ざすこと、反-反ユダヤ主義的なパレスチナ人の声や大量殺人に反対するユダヤ人を打ち消すこと〔キャンセルすること〕——これらはすべ
て、人種差別や反ユダヤ主義との闘いの深刻な毀損にほかならない。

 この論考の第2部では、もうひとつ別の記憶文化ともう一つ別の反ファシズムの闘いのための、無視され周辺化された根拠についても探求する。この根拠とは、ナチスの標的となったすべての人々の抵抗と生である。
この文章は、ドイツ人とオーストリア人の自己探求の場を開き、外部の人々に、現在主流となっている記憶の政治の根拠と矛盾、行き詰まり、そしてその結果を把握できるようにすることを目的としている。

 私はこの文章を、オーストリアとドイツを行き来しながら、外国人として、この地域の好戦的・排外的愛国主義〔ジンゴイズム〕と沈黙の中で深い息苦しさを感じながら書いた。
 私が望むのは、この文章が、その主張を通じてだけでなく、反省や反論を呼び起こすことによって話し合いを生み出し、支持しえないものを支持せよという道徳的圧力に辟易している大勢の人々に声を上げる勇気を鼓舞できれば、ということである。

記憶の共同体

 ポスト・ナチスの記憶文化において、現在では、罪が支配的な地位を占めるようになったのだが、それが実際に確立されたのは、ここ30年のことである。しかし、このヘゲモニーは、ナチスの歴史とホロコーストの意味をめぐる数十年にわたる闘争を通じて形成されたものであり、その歴史は戦後初期にまでさかのぼる。
 1946年、ドイツを離れず、ナチスに従いもしなかった数少ない知識人の一人であるカール・ヤスパースは、ドイツ人のSchuld(罪、責任、負い目といった多面的な概念)を熱烈に訴えかけた。
 このハイデルベルクの哲学者が『ドイツ人としての罪の問題』〔日本語訳『戦争の罪を問う』〕で提唱したことは、やがてハーバーマスによって「連邦共和国の戦後のコンセンサス」への最初の貢献であり、「中立的、平和主義的、そして何よりも倫理的なドイツという『ヨーロッパ的ドイツ人』の新たな語りの基礎となる文章」と称賛された[1]。

 ヤスパースは、戦時中の世代がそれぞれ不均等に共有していた4つのタイプの罪を区別した。第一に、ナチスの指導者と協力者の刑事上の罪があり、彼らは戦勝国によってニュルンベルクに集められた刑事裁判所で裁かれた(あるいは裁かれるべきであった)。
 第二に、ヤスパースはドイツ政体の全構成員の政治的罪について語った。それは「国家が犯した行為に対する全市民の連帯責任」として理解されるものであり、その責任は極めて現実的で、戦勝国によって政治的に執行されるものでありながらも、「魂は無傷のまま」である。
 第三に、それぞれの良心の法廷における道徳的罪がある。それは、声を上げなかったこと、ナチスのイデオロギーを信じたこと、体制に熱心に従ったこと、あるいはナチスの犯罪を「彼らは良いこともした」と言って相対化したことの罪である。より根本的に言えば、行動しなかった人々、邪悪な行為や他者の苦しみに対して盲目的であること、無関心であることを選んだ人々、自分の仕事や社会的つながりを維持するために群れに紛れた人々の道徳的罪があるのだ。最後に、生き延びたことそのものの形而上学的罪がある。
 ヤスパースは、形而上学的罪を「人間存在そのものに対する絶対的な連帯の欠如」と定義しているのだが、もしそれに耳を傾けていたならば、1933年の憲法破壊から、その後のポグロム、国外追放、侵略戦争、そしてホロコーストそのものに至るまで、ナチスの犯した不正義に対抗して自分の命そのものを犠牲にするよう、個人は導かれることになっていただろう。
 ヤスパースの文章は、こうした形を取る国民的罪をすべて引き受けよ、という力強い訴えとなっている。同盟国による裁判を受け入れること、国民としての政治的共同責任を負うこと、道徳的な自己探求に取り組むこと、そして「ドイツ国民」の一人ひとりが全員、神の眼差しのもとでは、ナチズムの悪に抵抗するために自らを犠牲にしなかったことの罪を背負っていることを理解すること。ヤスパースにとって、この罪の重荷を取り除くことは、「たまたま私たちがそうであるようにドイツ人でなるのではなく、まだ私たちはそうではないけれど、そうあるべきドイツ人になるのだという、感動的な共同の使命」であった。
  そしてヤスパースは、この使命を通して、「人間的実存をその起源から刷新するという使命の全体を感じ取る」国民の道徳的強さの可能性を投影したのである。それはすべての人々に与えられた課題であるが、「自分自身の罪によって民衆が無に直面するとき、[...]より差し迫って現れる」ものなのだ。この展望の中に、私たちはドイツの最終的な道徳的自己賛美の種を見出すことができるかもしれない。
 これは、迫害者への同一化を前提とした道徳的な自己高揚の展望である。こうした高揚は、迫害者ではなく被害者に同調〔同一化〕するすべての移民を、現代のドイツらしさの中心となる道徳的教訓から事実上排除するものなのだ。

永続するナチスの国民観念


 ヤスパースが「ドイツ国民」を厳しく戒め、その世界史的な道徳的使命を肯定したとき、彼は暗黙のうちに、国家社会主義がナチスによる大量殺戮の犠牲者たちをドイツの国民性から除外したことを受け入れたのである。
 ユダヤ人、ロマ人、シンティ人、抵抗してきた左翼らのこの歴史的抹殺は、後述するように、民族ナショナリズムと冷戦の分割線に沿って、ドイツの複合的な記憶をいまだに形づくっている。
 ヤスパースにとって、ドイツ国民全体に政治的・形而上学的な罪を負わせることは、ナチズム期に成人だった世代の罪の状況的分析にとどまらず、世代をまたいだ国民的罪の分析であった。
 「私たちは自分の父親たちの罪を背負わなければならない。[...]私たちの民族的伝統には、私たちの道徳的荒廃をもたらす、強大で脅威的な何かが含まれている」。このような民族的系譜的要素は、決してヤスパースだけのものではないが、ドイツ人の罪の連続性に関する重要な心理社会的側面をなしている。

 こうした思想は、ナショナリスト思想の内容を否定する一方で、その形式を保持している。つまり、必然的に共有された国民的感情と共通の道徳的基盤を持つ、運命共同体としての国家の理念を受け入れているのである。
 ここで共通しているのは、(階級に基づくのではない)集団的責任の担い手としての国民国家との深い同一化である。キリスト教実存主義者であり、反共主義者でもあったヤスパースからすれば、このようなフレーミングは意外なものではないのだが、驚くべきはむしろ収容所や銃殺刑で何万人もの政治的先達たちを失った左翼の人々が、このフレーミングを頻繁に繰り返していることの方である。
 国民的運命への信念が左翼の間で力を持ち続けていることを理解するためには、私たちはドイツ人の罪責感が依然として強固であることに注目すべきではない。逆なのだ。ドイツの右派や幅広い人々が、罪と責任を繰り返し否定しているのである。

罪の否定と反ユダヤ主義の抑圧


 テオドール・アドルノとフランクフルト社会研究所の同僚たちは、1950年代半ばの大規模な実証的研究『罪と防衛』〔Schuld und Abwehr〕の中で、国家社会主義時代に起きたことについて、否認したり、最小化したり、相対化したり、あるいは知らなかったと主張したりする数多くの戦略について書いている。
 「私たちは何が起こっていたのか知らなかった」と言う者もいれば、殺されたユダヤ人は連合国側が推計したよりも少なかったと主張したり、「まるでドレスデンがアウシュビッツの埋め合わせをしたかのように」ドイツ人も犠牲者だと主張する者もいた。

 この調査では、反ユダヤ主義やナチスを指し示す記号が全般的に抑圧されていたことも明らかになったが、それは婉曲表現、ジョーク、あからさまな否定(「ユダヤ人に何の反感も抱いていない」)といった形で回帰してきた。
 戦後の心理学者や精神分析家は、おぞましい犯罪に加担した自分たちの過去を検証することへの拒否、喪に服すことのできなさ、そして「自分たちが関与し、罪があると感じるのを遠ざける全般的な現実感の喪失」を記録していた[2]。
 このことは、戦時世代の子供たちに深刻な影響を及ぼした。子供たちは、言葉にできない犯罪を無意識のうちに、そして多少なりとも公的に意識することを受け継いだのである[3]。
 ドイツ民主共和国〔東ドイツ〕では、反ファシズムが国家の公式イデオロギーだった。しかし、このことは、贖罪と追悼のための余地をほとんど残していなかった。
 そのイデオロギーは、ショアを追悼するのではなく、反ファシストの抵抗を称えた。ナチスの罪人を訴追するのではなく、連邦共和国〔西ドイツ〕が国家公務員である元ナチスに対して同じことをできなかったと批判した。
 ナチスがユダヤ人から没収した国有財産を返還するのではなく、西ドイツ資本が大量虐殺に加担したことを攻撃した。
 
 1960年代後半、連邦共和国に対する東ドイツからの批判は、西ドイツの若者たちの闘争によって増幅され、拡大された。これは、罪の問題を連邦共和国のアジェンダに押し上げ、抑圧されたものを表に出すという点で非常に重要であった。
 この運動は、ヤスパースが概説したあらゆるタイプの罪を取り上げたが、親の世代とそのドイツ連邦共和国の犯罪的・政治的責任に対する唯物論的・制度論的批判に注力し、新しい西ドイツ国家において第三帝国からの人事上の連続性が多く見られることに焦点を当てた。
 ハーバーマスが主張した「コンセンサス」は、現実そのものというよりも、コンセンサスの喚起そのものが促進するよう企図されたひとつのプロジェクトであった[4]。
 この運動から派生したもうひとつの展開は、ヤスパースが道徳的判断を個人による自己点検にとどめたことを拒絶したことにあった。戦後のドイツ人は、彼の呼びかけからいとも容易に逃れ去ったのである。
 その結果、一種の道徳的アクティビズムが生まれ、若者たちは、誰しもが潜在的にナチであり得た世代の道徳的内省と、プロトあるいはクリプト・ナチズムのあらゆる兆候に対する普遍的警戒を積極的に求めた。

(1985年、ビットブルグ戦没者墓地での献花. Foto: Elke Wetzig/Wikimedia, CC BY-SA 4.0)

(1985年、ビットブルグ戦没者墓地での献花. Foto: Elke Wetzig/Wikimedia, CC BY-SA 4.0)

右翼の修正主義


 1980年代半ばには、保守派の歴史修正主義が攻勢に転じた。ドイツの無条件降伏40周年を記念して、ヘルムート・コール首相とロナルド・レーガンはビットブルクの戦没者墓地で献花した。この共同記念式典は、西ドイツが大西洋主義陣営にしっかりと帰属していることを確認し、戦死したドイツ兵とアメリカ兵を象徴的に同列に並べることで関係を正常化することを目的としていた。しかし、この目的は、墓地に数多くのナチ親衛隊(SS)兵士が含ま
れていることが公になったことで台無しになった。

 その3日後、西ドイツのリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー連邦首相は、ドイツの公式な記憶文化の出発点として多くの人に受け止められている力強い演説を行った。この演説は非常に大きな反響を呼び、フォン・ヴァイツゼッカーが1985年10月に初めてイスラエルをドイツ国家として公式訪問する道を開いた。

 ビットブルクは、1986年から1987年にかけて起こった歴史家論争(Historikerstreit)の火種となった。この論争では、保守派の歴史家たちが、戦後初期における最小化・相対化のモチーフの多くを幅広い読者に向けて蒸し返し、それに対してユルゲン・ハーバーマスや無数のリベラル派・マルクス主義派の歴史家たちが激しく反論した。保守的な歴史修正主義が全体として打ち出したのは、「罪への強迫」を拒絶することであった。これは、ドイツの新右翼の政治にとって中心的なミーム〔模倣的に伝達・継承される文化的情報〕であり続けている。
 右派の歴史家たちは、ドイツの犯罪を、スターリンからポル・ポトにいたる他のジェノサイドや大量殺戮行為と比較した。ハーバーマスによれば、その狙いは、ホロコーストを殺戮の世紀におけるもうひとつのジェノサイドに仕立て上げることであった。

 この論理では、アウシュヴィッツの特殊性は単純な技術的革新(ガス室)にあるように見えてしまい、ナチズムは相互殲滅の脅威という弁証法のなかの一戦略となって現れる。これは、エルンスト・ノルテの悪名高い主張に表れているように、ナチスが「アジア的」蛮行を実行したのは、「自分たちや自分たちの同族が、ボリシェヴィキの手による「アジア的」蛮行の潜在的あるいは現実的犠牲者であると見なしていたから」なのである。
 ハーバーマスの歴史家論争への介入は、ジェノサイドの研究者ディルク・モーゼスが「新しいドイツ的教義」と形容するものの多くを具現化する役割を果たしている。この教義には、きわめて明確で理解のいく政治的な狙いがある。それは、ユダヤ人に対するドイツの犯罪の絶対的な特異性を肯認することで、右翼によるホロコーストの相対化を退けることである。

 ドイツ民族〔Volk〕全体がナチスの犯罪の責任を負っているという熱烈な肯認によって、ドイツ人は被害者であるという右翼の主張をはねのけ、ドレスデンの死と東プロイセンやトランシルヴァニアからのドイツ系住民の殺害と追放がドイツの犯罪と釣り合っているというような考えを退けようとしているのである。
 ドイツのリベラル派や左翼の多くが、ドイツにおける罪の文化に対する外部からの批判にほとんど耳を傾けることができない決定的な理由は、そうした批判がいずれも、罪から解放された新たなドイツ・ナショナリズムの道徳的危険性を呼び起こすからである。この文脈では、ドイツの罪の認定は単に事実の表明ではなく、政治的な防衛機構であり、抑圧されたものの回帰への反応であり、新たな抑圧行為なのである。

 こうした議論の輪郭を理解することで、ドイツの左翼たちが、現在のパレスチナ支持派のスローガンである「ドイツの罪からパレスチナを解放せよ」や、「ドイツの終わりなき罪の旅」といったタイトルの学術論文に対して感じている深い動揺を説明することができる。
 非ドイツ人によるこのような言明は、抑圧されたものの回帰ではないのだが、そうした回帰を指し示すのと同様の記号をもたらしている。このことが警戒感を引き起こし、しばしばそうした表現をする人々に反ユダヤ主義が投
影されることになるのである。

 このような思考パターンは、どれほど理解ができるものだとしても、根本的に間違っている。1986年、ハーバーマスは、ビットブルクで表出したような政治体制の目論見に歴史的正統性を与えようとする保守的なプロジェクトを的確に見定めた。それは中立性という道を避け、過去の一部との同一化を通じて国民的自尊心を取り戻すことを通じて、連邦共和国が「大西洋価値共同体」にしっかりと根ざしていることを確信するというものである[5]。
 ところがハーバーマスは、この分析をビットブルクでのコールだけに敷衍し、それに続く彼の党の同僚の演説には敷衍しなかったために、本質的なことを見落としてしまった。それは、ホロコーストの相対化が、世界の舞台においてドイツの信頼を回復するための必要条件であるわけではなかったということである。

 偶然であれ思惑通りであれ、キリスト教民主党員の二人が行った象徴的な行為は、ドイツの公式な記憶文化の弁証法の基礎を確立した。それによって、ホロコーストの追悼とイスラエルとの連帯が、ドイツ軍を自浄し、ドイツの地政学的な信頼と願望を公に引き受けるための手段となったのである。2023年11月、ドイツ空軍総司令官がイスラエルに赴き、イスラエル兵に献血を行ったとき、私たちはこの浄化がいかに成功したかを目の当たりにした。今日、すべてのユダヤ人を代表すると主張するこのイスラエルという国家は、兵士たちの血管に流れるドイツ軍の血を喜んで受け入れている。

 この弁証法が理解不能であるために、多くの左翼は、自分たちの政治がドイツ国家の地政学的アジェンダ、とりわけ「西側の最前線国家」としてのイスラエルへの支持と足並みを揃えることがいかに奇妙なことなのかを察することができない。しかし、イスラエルとの連帯が国民的イデオロギーとして後押しされ、それが右派や極右にも受け入れられている理由を理解しようとするならば、この政策の背後にある人種差別主義的で反解放主義的な地政
学を無視することはできない。

(「私たちはドイツ人の罪を通して死なねばならなかったユダヤ人犠牲者たちを追悼する」,self-organized vigil, Kiel 1964, Photo: Friedrich Magnussen.)


イスラエル連帯の地政学


 ドイツとイスラエルとの関係は、もちろん、両国の支配的な地位を占める記憶文化の枠組みの外で理解することはできない。ただし、国民的記憶とイスラエル支持との関係は、最初から明確だったわけではない。西ドイツでは、イスラエル国家への支持は1950年代のアデナウアー政権下で始まったものであり、したがって、ホロコーストについての公的・制度的清算が広まる以前のことであった。西ドイツとイスラエルの同盟関係は1965年まで秘密にされていたが、その理由のひとつはイスラエルにおいてその同盟が慎重に扱うべき性格をもつためであり、またアラブ諸国を刺激してドイツ民主共和国を承認させてしまうことを避けるためでもあった。
 一方、ドイツ民主共和国は、民族自決の普遍的原則に基づき、ユダヤ人とアラブ人の自決権をともに支持した。それゆえに1948年の中央委員会声明は、「ユダヤ人国家の建設は、ヒトラーのファシズムの下で多大な苦しみを受けた多くの人々が新しい生活を築くために不可欠な貢献である」と述べた。ただし、冷戦下でアラブ・ナショナリズムを支持するソ連主導の広範な戦略の一環として、ドイツ民主共和国は1988年までイスラエルを承認するこ
とを控えていた。ある意味で、東ドイツのイスラエル支持は過去にのみ依拠していた。そしてこの過去は、国民の記憶と感情とを真摯に産み出すことも、正義を産み出すことにもまったくかかわらないものであった。

 西ドイツでは逆に、1950年代のイスラエルをめぐる議論の共通テーマは過去ではなく、冷戦における西ドイツの地政学的属性の問題であった。したがって、イスラエルが冷戦における最前線の一員であり、アメリカの取引先であるという地位は、特にボン共和国〔西ドイツ〕の政権保守派の間では、このコンセンサスを成立させるうえで些細なことではなかった。1960年のベン・グリオンとの会談で、アデナウアー自身がイスラエルを「西側の要塞
(世界全体の利益のために発展させなければならない)」だと述べた。 
 その一方で、彼は国内では制度的な脱ナチス化のプロセスを計画的に逆行させ、アメリカの支援を得て元ナチスに地位を与えていた。パンカジ・ミシュラが詳述しているように、「アデナウアー自身は引退後、イスラエルに資金と武器を提供することがドイツの『国際的地位』を回復するために
不可欠だったと説明し、『今日でも、特にアメリカにおけるユダヤ権力を過小評価すべきではない』と付け加えた」。
 このような発言は、ドイツのイスラエル支援が、とりわけディアスポラ系ユダヤ人に対する反ユダヤ主義的態度と常に連続して存在してきたことを示唆している。
 さらに私たちは、ドイツが「文明化された世界」に復帰し、ユダヤ人を「東洋人」から西側の前線部隊へと再編成することが、いかに冷戦の地政学に結びついていたのかを見て取ることができる。

文明的帰属のプロジェクト


 ナチズムとホロコーストをめぐる論争でさえ、西洋への文明的帰属を実証し、ナチスの「文明の断絶」〔Zivilisationsbruch〕、ハーバーマスの言葉を借りれば「文明人は怪物的なことが起こるのを許すことができた」という事実から距離を置きたいというこの欲望によって形成されたものだった[6]。
 この断絶は、表向きは人間的文明との断絶を意味するが、その裏には、未開、野生、野蛮な民という人種差別的な前提があり、ノルテの「アジア的蛮行」という考えと大差がない。
 このように、歴史家論争の両陣営の目的は、過去を通してドイツの国民的アイデンティティと地政学的帰属を定義することであった。ドイツはボリシェヴィズムと戦ったから「西側」の一部であるのか。その場合、ナチスは西洋文明の前線部隊とみなされ、その汚れ仕事をすることになる——これがノルテ、ヒルグルーバー、シュトゥルマースの主張である。あるいは、ハーバーマスの言うように、ドイツの西洋への帰属は、原則的な確信、懺悔、人権や自由民主主義のような「西側」の価値を引き受けることにかかっている
のだろうか。

 「西洋文明」にドイツが属していることを再肯定したいというこの根強い欲望は、右派から反スターリン主義の左派にまで共有され、重要な二重性を持っていた。一方では、それはドイツが「中央ヨーロッ〔Mitteleuropa〕」として、つまり自国の地域覇権を主張する「中央」の大国への同一化との決別を示すものであった。
 他方で、より切実なのは、それが冷戦時代の「東側全体主義」への拒絶の産物であったということである。いずれの場合も、西洋というものを普遍主義的な闘争の培養地としてだけでなく、グローバルな規模で植民地を作り頻繁にジェノサイドをなす事業として理解することのできない人種差別を表
現していた。

 哲学者のハーバーマスが、アウシュヴィッツに至るまで「私たちは、この深層(人間の顔をしたすべての人々の連帯)の完全性を当然のものと考えていた」[7] などと述べることができたことは、何世紀にもわたる植民地での人間性の剥奪と大都市の地方的偏狭さを伝えている。
 単純明快に言えば、戦後、ドイツ人は3つの要因によって歴史的責任を取るように促されてきた。国内からの道徳的・政治的圧力、国外からの圧力、地政学的・イデオロギー的に西側に属する条件としての、歴史的責任を取ることへの自己利益である。
 
 ヤスパース的な記憶文化がドイツで覇権を握るようになったのは、1989年以降のことである。統一ドイツのエリートたちにとって、ホロコースト追悼をめぐる新たな国民文化を築くことは政治的に好都合であり、時宜を得たことであった。1945年以降、この国が統一ドイツのリスクを懸念する西側諸国による働きかけを受けるていたのと同じようにである。
 さらに、このホロコースト追悼は、ナチスの犯罪に関する東ドイツの特有の語りを否定するのに最も適した形式をとっていた。

 こうして、それはドイツ人全体の罪責を肯認し、ナチズムの敗北に対する共産主義者の貢献、ひいては東側に内在するあらゆる記憶文化の抹消に寄与したのである。
 ヤスパースが夢見た「人間存在をその起源から刷新する」新しいドイツ的主体は、ドイツの罪を最大限に想定していたとしても、実際には冷戦の被造物であった。
 戦後ドイツに固有の道徳的啓蒙の考えは、西洋の文明的使命に対する信奉と結びついて、世界の舞台における道徳的指導者としてのドイツという、本来的に排外主義的で西洋至上主義的な考えを形成した。
 それは、暗黙のうちに、あるいは明示的に、ドイツ人だけが、苦い敗戦によってそうせざるを得なくなったがゆえに、歴史の教訓を真に学んだのだということを示唆している。

 西洋至上主義的な言葉でコード化されたイスラエルへの道徳的、政治的、軍事的支持は、このイデオロギーの鍵になる要素である。それは、メルケル首相が2008年にイスラエル国会〔Knesset〕へ向けた演説で、イスラエルの安全保障はドイツの国家理性〔国家存立の理由〕(Staatsräson)の一部だと定義したことに体現されている。
 この発言はそれ以来、準憲法的な信条として扱われている。この話の中でメルケルは、イスラエルとヨーロッパが「共有する価値観、困難、利益」といった次元で深いつながりを持っていると指摘したが、この論理は2023年12月、イスラエルのイツハク・ヘルツォグ大統領が「この戦争はイスラエルとハマスの間だけの戦争ではない。それは、本当に、まさに、西洋文明を救うために意図された戦争なのだ」、と主張した際に呼び起こされた。 
 西洋の道徳的高揚、非西洋人の他者化と道徳的蔑視、そしてイスラエルへの支持がドイツの歴史的犯罪を贖うものだという前提は、有力なイデオロギーだ。
 このイデオロギーは、ドイツの排外主義を更新するものである。この新たな排外主義においては、危険な地政学が道徳的な自己高揚で塗り固められ、そうしてパレスチナ人やパレスチナ支持派の声は厄介なもの、許されないもの、そして究極的には理解できないものとされてしまう。


[1] Anson Rabinbach, “The German as pariah – Karl Jaspers and the question of
German guilt” – Radical Philosophy, 075, Jan/Feb 1996,
https://www.radicalphilosophy.com/article/the-german-as-pariah
[2] Orna Guralnik, “The Dead Baby,” Psychoanalytic Dialogues 24, no. 2 (March 4,
2014): 129–45; Alexander Mitscherlich and Margarete Mitscherlich, The Inability to
Mourn: Principles of Collective Behavior. (Grove Press, 1975).
[3] Kestenberg, J. S. (1982). The persecutor’s children, In M.S. Bergman & M.E.
Jucovy (Eds) Generations of the Holocaust, NY: Columbia Univ. Press.
[4] Jeffrey K. Olick, The Politics of Regret: On Collective Memory and Historical
Responsibility (Routledge, 2013).
[5] Jürgen Habermas, “A Kind of Settlement of Damages (Apologetic Tendencies),”
New German Critique, no. 44 (1988): 25–39.
[6] ibid.
[7] Jürgen Habermas, “Historical Consciousness and Post-Traditional Identity:
Remarks on the Federal Republic’s Orientation to the West,” Acta Sociologica 31,
no. 1 (1988): 3–13.

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