誰もが団長を愛した~えびす亭始まり物語~

高瀬 甚太

 午後4時を過ぎると駅前の人通りが次第に多くなってくる。JRの駅に連なる商店街を横目に見て、うらぶれた路地に入ると、小さな店が軒を連ねる吹きだまりのような一角がある。赤提灯の立ち呑み屋が五軒、奥の方にスタンドバーが二軒、小料理屋風の店が一軒、おかまのバーも一軒、ラーメン屋が一軒、焼き鳥屋が一軒、韓国居酒屋が一軒、計十二軒の店があるが、どの店もそれなりに賑わいをみせている。
 無類の酒好きで、それが高じて酒屋をやり、高齢の友人に頼まれて立ち呑み屋を引き継いだのがこの店だとマスターの佳宏は父から聞かされていた。
 「えびす亭」というのは佳弘の親父である義春の友人が付けた屋号で、名前ごと店舗を引き継いだ恰好になった。親に似ず酒が嫌いな佳弘だったが、親父が倒れ、仕方なくこの店を営むことになったのが四月上旬のことだ。
 元々、佳弘は大手の商社に勤めていて、海外暮らしが長く、それなりに将来を嘱望される優秀な社員だった。だが、サンフランシスコ支社に転勤してしばらくして、体調を崩してしまい、一カ月間、現地の病院に入院することになったことで人生が一変する。一カ月後、ようやく退院して出勤した佳弘は、自分の席が隅の方に移動されていることに驚かされた。
 体調面を気遣って、会社が気を利かせてくれたものとばかり思い込んでいたが、すぐにそうではないことを知った。生き馬の目を抜くような厳しい業界のことだ。一カ月余とはいえ、空席にしておくことなど出来なかったのだろう。佳弘はすでに会社から忘れられた存在になっていた。
 日本に戻り、本社勤務となった佳弘だったが、すでに会社の中に居場所はなかった。多忙な毎日から窓際族へ転身した佳弘は、いつしか厭世観にさいなまされるようになり、気がつくと強度の鬱状態に陥り、ひっそりと社を退職した。
 そんな時、親父の義春が倒れた。七十代後半とそう若くなかった義春は、東京で一人暮らしをしていた佳弘を呼び寄せると、
 「おれの客を寂しがらせたくない。おまえが代わりに店をやってくれ」
 と遺言でも残すかのように佳弘に言った。
 佳弘が酒を嫌いであること、酒好きな親父を毛嫌いしていることを十分承知しているはずなのに、義春はベッドに横たわったまま、佳弘の手を固く握って言ったのだ。
 親父の言葉に母親も賛同した。
 「あの店はお父さんにとって特別な店なんだ。佳弘、お父さんの願いを聞いてやっておくれ」
 さすがの佳弘も年老いた父と母の言葉に逆うことはできなかった。気が進まないまま、翌日から佳弘は渋々、店を引き継ぐことになった。
 佳弘の親父、義春の本職は大工だった。四十を超えた年に建築現場の足場が崩れて落下し、重傷を負った。幸い三カ月ほどで現場に復帰することができたのだが、骨折した足が思うように動かず、義春はそのまま大工仕事を廃業することになった。
 大工一筋に生きてきた義春は、大工仕事以外、何の生きる術も持たなかった。そんな義春に妻は実家の酒類販売業を手伝うように言った。元々無類の酒好きだった義春は、快く引き受け、大工をやめたその日から飲食店の卸販売員として働くようになった。
 都心の酒店とあって、経営はまずまず順調だったが、軽乗用車で酒を運び、店に卸すだけの仕事は、大工として家づくりに励んでいた日々から比べると単調極まりなく、飽きが来はじめ、いつしか義春はギャンブルや女にのめり込もうとしていた。そんな矢先のことだ。義春は得意先の「えびす亭」の主人に相談を受けた。
 「えびす亭」の主人は以前から八十歳を超えたら引退しようと決めており、後継ぎもいないことから潔く店を廃業すると決めていた。廃業を前にして、客たちに告げたところ、客から思わぬ猛反対を受けた。
 「えびす亭」は常連の多い店で、この店を愛する人の数は半端ではなかった。思わぬ反対に遭って、主人は困惑した。客の思いを無視して閉店するには、主人と客の関係があまりにも近すぎた。体力に限界を感じていた主人は、誰かに店を譲ろうと思い、探すことにした。そのターゲットになったのが義春だった。
 毎日のように酒を卸しにやってくる義春を見て、年の頃といい、酒をよく知っていることといい、この男なら大丈夫だと「えびす亭」の主人は義春に白刃の矢を立てた。
 義春は「えびす亭」の主人に突然、「店を引き継いでくれないか」と言われ、思いがけないことだったので面食らってしまった。
 「大工上がりの自分に呑み屋など出来るはずもない」
 と言って一度は断ったが、「えびす亭」の主人は一度や二度では引き下がらなかった。日頃から主人に散々世話になっていた義春は、とうとう断り切れなくなり、「女房に相談してみます」と言って家に持ち帰った。
 家に戻った義春は、早速、女房にえびす亭の一件を話して聞かせた。義春は、女房は必ず反対するはずだと、高をくくっていたのだが、女房の答えは意外なものだった。
 「『えびす亭』のご主人がそこまでおっしゃってくださるのでしたらおやりになったらどうですか」
 と、義春の背中を押した。義春の妻は、義春が酒屋の仕事に飽きが来ていること、ギャンブルや遊びに嵌りそうなことを以前から予感していて、それならばということで「えびす亭」の話を引き受けるように言ったのだが、意に反する女房の返答に義春は大いに戸惑った。
 呑み屋にはよく行くが、店をやるとなると勝手が違う。だが、「えびす亭」の主人は、「あんたなら大丈夫だ」と太鼓判を押した。
 結局、義春は否も応もなく「えびす亭」を引き継ぐことになってしまった。
 しかし、いざやってみると、立ち呑み屋の仕事は、意外にも義春の性に合っていた。無愛想な義春はこれまで人と接したり、親しく話すことを大の苦手にしてきた。大工の仕事は、そんな義春に似合いの仕事だったが、呑み屋の仕事もやってみると意外に楽しかった。厨房に立ち、カウンターで客に接していると、客たちが十年来の友人のように次々と話しかけてくる。無口な義春も、さすがに無言でいるわけにはいかない。客の調子につられてつい答えてしまう。それが苦痛かといえば、そうではなかった。
 気のいい客が多かったせいか、義春は思いがけず客と喋り込んでしまうことが度々あった。そのうち、義春の方から客に声をかけるようになった。大工仕事では、荒っぽい言葉の対応が多くなる。義春は躊躇することなく、まるで大工仕事の現場にでもいるような調子で客に話しかけた。だが、誰も怖がったり、嫌がったりしなかった。それどころか、倍以上の荒っぽい口調で義春に返してきた。それが義春には心地良かった。しまいには店主と客の掛け合い漫才のようになってしまうほどだった。
 義春は嬉々として楽しく働くようになった。酒店で働いていた頃と比べるとずいぶん笑顔が増えた。
 ――その頃、義春の息子、佳弘は商社マンとして世界を駆け巡っていた。たまに日本へ帰ることがあっても父の店に顔を出すことは少なかった。佳弘は、居酒屋の類が好きではなく、立ち呑みとなればなおさらだった。
 義春を囲むようにして半円形のカウンターにたくさんの客が立っている。酒の匂いとおでん、焼き魚、炒め物の匂いが室内に充満する。客の年齢はまちまちで、男性だけでなく女性もいた。職業も千差万別で、作業着の男もおればジャージ姿の男もいた。背広姿の紳士風もおればいかにも肉体労働といった感じの男もいて、みんな和気あいあいと呑んでいた。
 「おやっさん、湯豆腐!」「あいよ、湯豆腐一丁!」「おでん、適当に」「あいよ、おでん盛り一丁」。初めてえびす亭を訪れた時、佳弘は、家ではほとんど喋ることのない親父の弾んだ声に驚きを隠せなかった。
 店には三人の従業員がいて、料理を担当する男性。洗い物をする女性、親父の手助けをする男性、みんな、チームワークよろしく働いていた。
 佳弘は、以前は一流の商社にいたこともあって、食事をするのはホテルか一流レストラン、呑むのも一流のクラブに限られていた。一部の階層しか見て来なかった佳弘の目には、親父の店が奇異なものに映った。
 海外でも同様に一流どころの店でしか飲食して来なかった。そんな佳弘が商社を退職し、勤める気も失せて貯金を食いつぶして遊んでいるうちに、いつの間にか今まで見えて来なかったものが見えて来るようになった。
 そうすると急に世の中が嫌になって、生きていくのさえ辛くなってきた。仕事を持たず、目的もなく、生き甲斐も失い、何のために生きているのか、それさえもわからなくなってきた佳弘は、とうとう鬱になってしまい引きこもりに近い状態になった。
 そんな時、佳弘の脳裏に親父の店の様子が思い浮かんだ。店で働く親父の笑顔が浮かんだのである。
 渋々引き受けたということになっていたが、本当はそうではなかった。父親のように出来るかどうか自信はなかったが、引き受けた限りは成功させたいという思いがあったし、それ以上に人と接することへの楽しみ、期待感が佳弘の中に少なからずあった。
 親父が倒れて、二、三日、日を置いた後、店に出た。親父のサポート役だった菱やんが、すでに開店準備をしていて、洗いのモンちゃん、料理を作る晋ちゃんも同様に佳弘がやって来るのを待ちかねていた。
 「おやっさんの具合、どうですか?」
 佳弘が店に現れると、丸顔の少し小太りの菱やんが佳弘に聞いた。佳弘の父、義春の状態が心配でならないのだ。同じように台湾からやって来たお下げのモンちゃんと神経質そうな顔をした細面で背の高い晋ちゃんも心配そうな顔をして佳弘をみつめている。父はみんなに愛されていたんだなあと、彼らの顔を見て佳弘は思った。
 「おかげさまで父はずいぶん良くなりました。最近ではご飯もちゃんと食べられるようになりましたが、まだもうしばらく時間がかかるようです。それまで私が父の代わりに勤めさせていただきますので皆さんどうかよろしくお願いします」
 三人に挨拶をすると、それぞれ安堵の表情を浮かべ、早速支度にかかった。
 店は午後3時に開店する。暖簾をかけるのは佳弘の役目で、それを合図に店の営業が始まる。すでに何人かの客が今や遅しと店の前で立っていた。
 「団長、いらっしゃい!」
 開店と同時に一番最初に入ってきた客をみて、菱やんが声を上げた。
 団長? 驚いて客を見ると六十代前半のとてもリーダーシップがあるような、団長の名に相応しくないような優男の男性だった。
 「団長、今日は何しましょ?」
 カウンターに立ったその客に菱やんが尋ねると、「団長」と呼ばれた男は、「瓶ビールとまぐろ」と早口で言って、菱やんに「おやっさんどないやねん」と聞いた。
 「だいぶ体調が戻ったようですわ。くみちょう、今日からおやっさんに代わって店をやってくれる息子さんで……、え~と名前は何でしたっけ?」
 菱やんが「団長」に答えながら佳弘に聞いた。佳弘はおでんを用意していた手を止めて、「団長」に挨拶をした。
 「親父に代わってこの店をやります息子の佳弘です。よろしくお願い致します」
 団長は、グラスにビールを注ぎながら早口で言う。
 「ほな、マスターでええな。佳弘って呼びにくいさかい。わし、この店では、団長で通ってます。団長と言うても、この店の応援団の団長や。サーカスの団長やおまへんさかいよろしく」
 せっかちな調子で笑って言い、団長はグラスの中のビールをグイッとひと息に呑み干す。「団長」は、どうやらこの店の人気者のようで、後から入って来る客のほとんどが、「こんにちは団長」「まいど、団長」と言って挨拶をする。
 そのたびに団長は、「おうっ」とか、「やあ」「ほいな」と掛け声をかけて挨拶をする。
 「団長」は顔なじみの客を見つけると、菱やんに向かって、
 「親方にビール一本、よっしゃんに熱燗一本」と小声で囁くようにして注文する。
 菱やんは慣れた調子で声を張り上げ、佳弘に向かって、団長の注文を繰り返す。
 「おおきに! マスター、団長から親方にビール一本、よっしゃんに熱燗一本、注文いただきました」
 すでに半円形のカウンターにはほぼ満杯の人が入っている。その中でどれが親方か、よっしゃんか、見分けるのが大変だったが、菱やんがそれとなく指さして佳弘に教える。
 親方は、言葉通り土建屋の親方ふうで、目の前に冷たく冷えた瓶ビールが置かれると、「団長、おおきに!」
 と野太い声で額の鉢巻を外して元気よく頭を下げる。
 よっしゃんは、よく笑う笑顔の絶えない五十がらみの男性客で、「団長、いただきます」と断って、団長に向かって丁寧に熱燗をかざす。
 「マスター、マスターも一杯どうや?」
 団長が佳弘の目の前にビールを置いて空のグラスにビールを注ごうとする。佳弘は、「下戸です」とも言えず、コップを団長の前にかざして、「ありがとうございます」と大きく頭を下げた。
 「マスター、ちょっと」
 そんな私の様子を見た菱やんが私の耳元で囁いた。
 「マスター、呑まれへんのやったら無理せんといてください。酔っぱらうと仕事がでけしまへんから」
 菱やんに忠告されたが、佳弘は、酒も呑めない店主なのかと言われることが嫌で、「大丈夫だ」と言い切り、グラスの中のビールを一気に呑み干した。
 「おやっさんはどないでっか? 大丈夫でっか」
 客のほとんどが佳弘に同じ質問をした。佳弘はそのたびに「団長」にしたと同じ説明を繰り返す。すると、どの客も、
 「そうでっか、ほな、お近づきの印に一杯」
 と佳宏の空のグラスに酒を注ごうとする。客に言われると断ることができない。佳宏は仕方なくコップを差し出し、一杯、また一杯と酒を口にした。
 店の営業時間は午後3時から午前0時。その間に客はどんどん入れ替わる。「団長」は、1時間ほどいて清算をすると、しばらく経ってまたやって来て、1時間ほどいて清算して再びどこへともなく出て行く。三回目に戻ってきた時は、同世代の年の女性を連れてきて、今度は閉店近くまで二人でゆっくりと呑んだ。
 えびす亭に出勤した初日、佳弘は慣れない酒を呑んでしたたかに酔い、トイレで嘔吐を繰り返した。営業時間まで持たせることができたのは奇跡というしかなかった。
 そんな佳弘を見て、菱やんが顔をしかめて注意をした。
 「だから言わんこっちゃない。マスター、明日から酒を勧められても呑んだらだめですよ」
 菱やんだけではない。モンちゃんも晋ちゃんも佳弘のことを心配げに見て、同じ注意をした。佳弘は、くらくらする頭をタオルで冷やしながら、菱やん、モンちゃん、晋ちゃんの三人に言った。
 「わかった。でも、酒を呑めない店主では務まらへんやろ。しばらくしんどいけど、頑張って練習してみるわ」
 佳弘は三人を安心させようとして言ったつもりだったが、三人の反応は違った。
 菱やんは佳弘に対して「あきまへん」と口を尖らせてダメ出しをし、
 「下戸は下戸です。どんなに頑張っても強うはなりまへん。それよりも仕事中ですからと言って断ってください。おやっさんは、酒が大好きでしたけど、店では一杯も呑みまへんでした」と言う。
 菱やんに諭されて佳弘はその日、ずいぶん反省をした。
 後かたづけが終わり、菱やんたち三人を送り出して最後に店を閉めて外に出ると、佳弘は少し酔いが冷めたような気がして安堵した。ネオンの海に月が漂っていた。さすがに〇時を過ぎると、繁華な街も静かになる。佳弘は、立ちっぱなしで疲れた足を引きずりながら駅に向かった。
 えびす亭から駅までは数分の距離だ。路地を抜ける途中、その片隅の暗がりの中で、佳弘は団長の姿を見つけた。挨拶をしようとして思いとどまった。団長は、女性と何やら深刻な話をしているように見えた。暗がりでよく見えなかったが、団長が三回目の出入りの時に連れて来た同年代の女性のように見えた。
 女性は水商売の仕事をしているように見え、団長の奥さんのようには見えなかった。団長はタバコをくゆらせ、相槌を打ちながら女性の話に真剣に耳を傾けていた。
 いったい二人はどんな関係なのだろうか。ふと興味を持ったが、客のことをあれこれ詮索しても始まらない、そう思った佳弘は駅に向かう足を速めた。
 佳弘がえびす亭で働くようになって二日目、開店すると同時にこの日も団長が一番乗りで店へ入って来た。団長は店に入るなり、
 「マスター、もう慣れたか?」
 と、佳弘に聞いた。
 「はい、ありがとうございます。少しは慣れました」
 と、佳弘が答えると、
 「そうか、そりゃあよかった」
 と、団長は豪快に笑い、菱やんに向かっていつものように、
 「まぐろと瓶ビール」と、早口で注文をした。
 その日も団長は二度、三度と出入りをし、三度目にやはり昨日の女性を連れて入ってきた。
 女性はビールを注いだり、焼き魚の骨を取って食べさせたりと、団長に代わって注文するなど、これ以上ないほどかいがいしく、団長の世話をしていた。
 その様子を見て、佳弘は合点がいった。女性は団長の愛人なのだと――。その証拠に、店の客のほとんどが、その女性を姉さんと呼んだ。
 おかしなことに、団長の本名をほとんどの客が知っていなかった。菱やんでさえも、一度聞いたことがあるようなないような、と首を傾けるほどだった。
 「マスター、本名なんて知らなくても、ここでは何の問題もありませんよ。本名どころか、どこに住んでいるのか、どんな仕事をしているのか、家族はいるのかどうかさえ、誰も知りません。本人が話すならともかく、誰もそんなことを詮索しません。団長は団長でいいんです」
 なるほどその通りだと、佳弘は思った。この店に来る客のほとんどに誰が付けたか知らないが、呼び名がつけられている。佳弘も、なぜ、この人にこんな呼び名が? と不思議に思う呼び名があった。だが、呼び名の由来など詮索する方がおかしい。店の中で互いに呼び合う、その呼び名は、親しみと愛着を込めた、いかにもえびす亭にぴったりと来る名前だった。

えびす亭での仕事にもすっかり慣れ、客にも慣れた頃、突然、えびす亭に訃報が届いた。仕事中に倒れた団長が、そのまま逝ったというのだ。
 えびす亭の誰もがその訃報を信じようとしなかった。
 団長は昨夜まで元気にこの店で呑んでいた。相変わらず二度三度と出入りし、馴染みの客にビールを奢り、酒を奢り、陽気にやっていた。その姿には病気のかけらさえ見えなかった。
 菱やんなどは、
 「マスター、冗談ですよね、冗談。団長は昔からこういった手の込んだ騙し方をするんです。ほんまに子どもが大人になったような人ですから」
 と言って笑い飛ばしたほどだ。
 「団長は人の倍ほど長生きする人です。私、わかります」
 と、台湾からやって来たモンちゃんが断言した。佳弘にしても団長が死んだなど、信じたくはなかった。
 訃報を持って来たのは親方だった。親方は団長と仕事でもつながっていて、親方が建築土木の仕事を任された時、親方は必ず団長に電気工事を依頼する、そんな仲だったという。
 佳弘は、団長が電気工事の仕事に携わっていたということをその時、初めて知った。だが、それよりも何よりも親方の嘆きはひと通りではなかった。
 親方は、あふれ出る涙を薄汚れたタオルで何度も拭きながら、嗚咽を漏らしつつ佳弘に語った。
 「いつものように団長は電気工事をやっていたんだ。その直前までおれは団長と話をしていた。話をしている途中、団長が頭を抑えたので、『大丈夫か』と聞いた。団長は大丈夫だといっていつものように笑おうとした。その途端だ、団長が俺の目の前で突然倒れたのは――。おれは驚いてすぐに救急車を呼んだ。救急車が来て、脳溢血だと言われた。俺は泣きながら救命士に言ったよ。『助けてやってくれよ、俺の大切な友だちなんだ』と。団長は担架に乗せられて救急車へ運び込まれた。それが俺の見た団長の最後だったよ。夜になって奥さんがおれんちにやって来て、ありがとうございました、とお礼を言うんだ。どうかしたのかい? と聞くと、奥さんが消え入りそうな声で『主人は亡くなりました』と言うじゃないか……。おれは言葉もなく、その場に立ちつくしたよ」
 黒い喪服に着替えてえびす亭にやって来た親方は、そう言って涙を拭いた。
 団長の死を知った客たちの反応はみな一緒だった。嘆きや悲しみが店を支配した。佳弘もまた、抑えきれない悲しみを無理矢理抑え込んで客たち全員に、団長の冥福を祈るために振る舞い酒をした。
 「団長、あの世へ逝ってもえびす亭を忘れんといてや」
 客の一人がおどけた調子で言うと、親方がそいつの頭を太い手で叩いた。
 「忘れるはずがないやろ、このどアホ!」
 と言って、親方はまた泣いた。
 団長の死はえびす亭にとって衝撃的な事件だったせいか、しばらく店全体がお通夜のようにひっそりとした。
 姉さんが久しぶりに顔を見せたのは、団長の死から初七日を過ぎた頃だった。姉さんは店へ入って来るなり、店のみんなを見回して、
 「何、辛気くさい顔してんのや。そんな顔してたらうちの大事な人、天国へ行かれへんやないか。今日は私がごちそうするさかい、みんな、元気を出してや」
 と、大きな声で言った。
 「マスター、みんなに好きな酒、あふれるほど呑ませてあげて」
 と、言って笑顔をみせた。
 その日、えびす亭は久方ぶりに湧いた。姉さんはその中心にいて、豪気にふるまい、最後まで笑顔を絶やさなかった。
 姉さんが通夜にも葬式にも出られず、一人部屋の中で泣いていたという話を、数日前に佳弘は親方から聞いて知っていた。
 陽気な笑顔で全員に酒を振る舞い、今にも歌を歌い出さんばかりに明るく振る舞う姉さんを見て、佳弘は胸が詰まる思いでいた。いっそ泣いてくれたほうがよかったのに、と姉さんを見て思った。いや、それは佳弘だけでなく、全員がそう思っていたのかも知れない。どの顔も陽気に酒を煽りながら、なぜか涙ぐんでいた。
〈了〉

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