救命士・香川祥子

高瀬甚太
後編

 「その時も死ねなかったわ。だってその前に、私もっと素敵な人に出会ったから。あろうことか、同じ消防署で働く隊員の人に交際を申し込まれたの。まさか、交際していた男の同僚に交際を申し込まれるなんて思ってもみなかったから驚いたわ。その人、とてもまじめな人でね。同僚と付き合っていた女なんかとどうして? と思ったけれど、彼は真剣だった。私が同僚と交際していた頃から秘かに好きだったと告白してくれたの。その真剣な姿勢に負けて交際し始めたわ。しばらくして、私が元、交際していた男が、高校時代の同級生の女性に振られて破談になったと噂を聞いたけれど、その時だって私の心は微動だにしなかったわ。その彼と結婚したのが二年後。彼は結婚してすぐに私に救命士になったらってすすめてくれたの。人を助ける素晴らしさを私に説いて、救命士としての活動を詳しく話してくれた。そして、自分は危険な仕事をしているからいつ命を失うかも知れない。その時のためにって言ってくれて。本当に嬉しかった。だから私、救命士になることに決めたの」
 「よかったですね。結婚できて――」
 小百合が言葉を挟んできたことに香川は驚いた。小百合は、つぶやくようにして、
 「私も幸せになりたいわ」
 と言った。
 「大丈夫、あなたならきっと幸せになれるわ。でも、私の話、これでジ・エンドじゃないのよ。この後がまだあるんだから――」
 香川は小百合と共にベッドに腰をかけると、再び話し始めた。
 「結局、私、その男と離婚したの」と、淡々と香川が言うと、
 「どうしてですか! 幸せだったはずでしょ」
 と小百合が驚いた表情をみせた。
 「ありがとう。幸せだったのよ、本当に。救命士の資格も取ったし、こうやって仕事もするようになったわ。結婚して四年ほど経った頃かな、子供ができなくてね、私たち夫婦。彼も子供が好きだったし、私も好きだったから何とか一日も早く、そう思っていたけど、なかなか子宝に恵まれなかった。そんな時、彼の留守に赤ちゃんを抱いた女性が訪ねてきてね、あろうことか私に『彼と別れていただけませんか』っていうのよ。藪から棒にこいつは何だ、そう思って『あなたはいったいどなたですか?』と尋ねると、その女性、抱いていた赤ちゃんをあやしながら『この子、彼の子供なんです』って言うの。驚いたわ――。信じられなかったから、携帯で彼を呼び出して、『あんたの子供だって女が来ているよ』と言うと、彼、黙ったまま応えないの。それをみて女が言うんだ。『彼、いつも言ってるんです。子供と一緒に暮らしたいって』。私、もう一度、電話で彼に問いかけた。『本当にあんたの子供なのか』って。ようやくあいつ、白状しやがった。『おれの子供だ』って。それを聞いて私、別れることにしたの――」
 「ひどい、ひどすぎるわ」
 小百合が香川の手を握って悔しそうに言った。
 「でもね、あんたがどんなにつらい恋愛をしたか、私にはわからないけれど、生きていたらきっといい人に出会うよ。それは私が保障するから」
 小百合が「えっ!」という顔をして香川をみた。
 「救命士さんのように愛する人に裏切られ続けても―――ですか?」
 「そうよ。どれだけ裏切られても愛を信じたら、その愛は決して裏切らないわ」
 「愛を信じたら愛は裏切らない……」
 「そうよ。人を愛することに恐れを感じたらだめ。どこかに必ず自分を受け入れてくれる人がいる。そう信じることが大切。私もそうだったわ。男性に散々裏切られ騙されてきたけど、それでも必ず自分を待っていてくれる人がいる。そう信じ続けてきたわ」
 「でも、救命士さん、今でも一人なんでしょ?」
 「それがね。五年前、とうとう出会ったのよ。私を待っていてくれた人に」
 小百合の顔が急に明るくなった。
 「五年前、交通事故で車に閉じ込められていた瀕死の年配の女性を助け出して、その人を蘇生させたことがあるの。左足は不自由になったけれど、無事生還することができて、ずいぶんその女性に感謝されたわ。すると、ある時、その女性、自分の息子を連れてきて、『もしよかったら息子と付き合ってやってくれませんか』って言うの。どうして? 私に? と思ったから女性に聞いたの。女性は、『あなたが私を助け出している様子を見て、あなたに興味を持ったらしいの。あなたも独身だっていうし、もし、いい人がいなかったら息子と付き合ってやってくれませんか』ってね。その女性の息子さんが今の私の旦那。素朴でやさしい人でね。私にべたぼれなの」
 香川の話を聞いているうちに、小百合の顔がほころんできた。
 「救命士さんの話を聞いていたら何だか元気になりました。私も頑張ります。私にだってきっといい人、現れますよね!」
 「あなたは私より数倍美人だから、きっと私より早く、いい人が見つかると思うわ」
 そう言って香川は小百合の手を固く握った。
 翌日、小百合は退院した。その後ろ姿がとても希望にあふれていたわよと、香川は後で旧知の看護師に聞かされた。
 「よかったわ」
 香川が安堵の表情を浮かべると、その看護師は、
 「小百合さんに話していたことが現実になるといいですね、香川さん」
 と言って肘で香川をつついた。香川は照れ笑いを浮かべ、
 「そのうち現実になるわよ」
 と小さく頷いた。
<了>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?