異様な悪臭に包まれて

高瀬 甚太
 
 井森公平の旧い友人に佐藤初彦という人物がいる。職業は専門学校の講師で、ごく普通の男のように見えるのだが、なぜか、彼の周りに人が近づかない。
 佐藤は、人に悪いことをしたり、罪を犯すようなことはしない。至極真っ当な人間だ。ただ、ひどい癇癪持ちで一度怒りに火が付くともうだめだ。止まらない。それが元で何度か仕事を変えざるを得なくなった経緯がある。現在勤めている専門学校にしても、理事長が彼の伯父であるためにどうにか持ちこたえているようなもので、本来なら、いつクビになってもおかしくないともっぱらの噂だ。
 そんな男だが、井森とは不思議とウマが合い、学生時代から今日まで良好な関係が続いていたる。
 今年の四月のことだ。その佐藤から井森のもとに連絡が入った。
 急ぎの用だったらしく、携帯に二度、三度と着信が入っていた。ちょうどその時、井森は打ち合わせの最中で、携帯をマナーモードにしていたため気が付かなかった。
 打ち合わせを終えて着信があることに気付いた井森は佐藤に電話をした。
 「電話をいただいていたのにすまなかったな」
 そう言って断ると、佐藤は、
 「きみにどうしても聞いて欲しい話があって電話をしたんや。どないや、今日の予定は?」
 と言う。時計をみると午後5時を回ったところだった。
 「そうだな、7時に京橋でどうだ」
 と答えると、
 「わかった。京橋駅の中央改札を出たところで待ってる」
 と快活な返事が返ってきた。
 午後6時過ぎ、井森が事務所を出ようとすると突然、雨が降ってきた。春の雨は肌寒い。井森は傘を手に厚めのブレザーを着て外へ出た。
 JR京橋駅に着くと、改札を出たところで佐藤が待っていた。井森が佐藤に会うのは一年ぶりのことだったが、その雰囲気が変わっていることに驚かされた。
 以前に比べて痩せていて、髪の毛が肩まで伸びている。元々、明るい性格ではなかったが、さらに陰鬱になったような気がして最初は人違いかなと思ったほどだ。
 小雨だった雨がいつの間にか大降りに変わっていた。雨を避けるためにアーケードのある商店街に入り、そこで居酒屋を探した。午後7時台の居酒屋の混雑ぶりは相当なもので、ゆっくり座って話せる店など少ない。三軒目でようやくゆっくりできる店を見つけ、井森は佐藤と共に入った。空いているテーブルを見つけ、椅子に腰をかけた途端、佐藤がいきなり要件を切りだしたので井森は驚いた。
 「きみに頼みがあるんや」
 佐藤の様子を見て、これはただごとではないと井森は思った。彼は短気だが、決してせっかちではない。その彼が座るなり身体を前のめりにして話すのだ。
 「おれの家を知っているやろ? 豊中の住まいや。両親が亡くなって今はおれ一人で住んでいるんやが、最近になっておかしなことばかり起きるんや。きみに一度みてもらえないかと思うて――」
 佐藤初彦はひどく疲れた顔でそう言った。
 
 ――父親が病気で亡くなったのが三年前や。母親も父親の後を追うようにして一年後に亡くなった。妹や弟はすでに家を出て独立し、おれ一人が家に残った。
広 い家で管理も大変やから一時は売却も考えた。しかし、思い出の残る家やから手放すのもどうかと思いそのままにしてきた。
 ところが半年前から家の中で変なことばかり起きるんや。夜中に目が覚めると話し声がして、それが一人や二人ではなく十数人の話し声なんや。おれが「誰かいるんか」と大声を上げるとすぐに話し声が止む。家の中を見回すがどこにも人のいた気配がない。
 それだけやなくて、仕事を終えて家に帰ると、なぜか風呂場で水音がする。不審に思って風呂場を覗いたんや。すると、誰もいないはずなのに水道の蛇口からお湯が流れ、湯船からお湯があふれている。昨日、風呂に入って水を止め忘れたのかと、その時は考えた。でも、おかしい。おれは昨夜、風呂には入ってへん。もし一昨日、水道を止め忘れたんやったら、昨日、気がつくはずや。その他にもいろいろある――。
 佐藤のそんな話を聞かされると、井森はじっとしておれない性質だ。月末に近い時期だったので締め切り間際の作品が多く、すぐには時間を取ることはできなかったが、何とか都合をつけて三日後の土曜日に佐藤の家を訪ねることにした。
 阪急豊中駅で下車すると、すでに佐藤は改札口で待っていた。
 「少し歩くけどええか?」
 タクシーに乗るほどではなく、かといって歩くと意外に遠い、と彼は申し訳なさそうに言った。駅から15分ほど山側に向かって歩いたところに閑静な住宅街があり、その住宅街から少し外れた一角に佐藤の家があった。
 「ここだ。まあ入ってくれ」
 木造の門を開けると緑に包まれた広い庭が見えた。木々に包まれるようにして二階建ての大きな木造家屋が建っている。
 庭を歩き、家の扉を開けると、異様な臭気に見舞われた。この悪臭は何だ? 鼻を押さえながら井森が佐藤に尋ねようとしたが、不思議なことに彼はその臭いにまるで気がついていない。
 家の中に入り、応接室に通され、改めて部屋の中を見回した。ごく普通の応接室だった。だが、この部屋にも嫌な悪臭が漂っていた。この臭いの正体は何だろうか、気になって佐藤に尋ねてみた。
 「すごい悪臭がするんだが、この臭いはなんだ?」
 「臭い? いや、別にせえへんけどなぁ」
 平気な顔で言う。この悪臭に気付かないとは、よほど鼻が悪いか、もしかすると臭いに慣れきってしまっているのかも知れない。
 「この家は築何年になる?」
 コーヒーの用意をしている佐藤に尋ねた。
 「百年は超えているかな。もちろんその間、途中で何度か修復をしているがね。それがどうかしたのかい」
 「いや。ところできみはペットは飼っていないのか?」
 「親父が生きていた頃は猫を7匹ほど飼っていたが、今は1匹もおらへん」
 「死んだのか?」
 「わからん。親父が死んだ途端に猫が全員消えたんや。母は猫があまり好きではなかったし、おれも好きやなかった」
 猫は死期を悟ると姿を隠すと聞いたことがあるが、飼っていたすべての猫が消えるなんて話はこれまで聞いたことがない。
 「それでだな、家全体、部屋全体に猫の臭いがするのは――」
 「猫の臭い? おれは何にも感じへんけどな」
 「そりゃあ、おまえは臭いに慣れてしまって気がつかないだけさ。猫の他に何か飼っていたものはあるか?」
 「金魚ぐらいかな。なんでそんなことばっかり聞くんや」
 「いや、ちょっと聞いてみただけだ。その金魚はどうした?」
 「それがなあ、猫も金魚も親父が好きで飼うていたんやが、その親父が亡くなると、猫は一斉に姿を消してしまうし、金魚もいなくなってしもうたんや」
 「すべていなくなった?」
 「ああ、金魚鉢の中の金魚5匹が親父の死んだ日に突然、消えたしもうた。不思議なこともあるもんやと思ったよ」
 そこまで言って、佐藤は押し黙った。
 「どうかしたのか?」
 「いや、今、話していて思い出したんやが、親父の通夜の日、夜遅くに訪ねて来た女性がいたんや。能面のような顔をした表情の暗い人やった。母も知らない人やったから、どなた様ですか、と尋ねたんや。時間も遅かったしね。するとその人は、『お父様にお世話になったものです』と言って線香を上げさせてくださいと言うんや。断る理由はないから上がってもらって焼香してもらった。その時、母がその女性に聞いたんや。『夫とはどんなご関係でしたか』と」
 佐藤はそこで一旦、話を止めて、コーヒーを口にした。井森もそれに合わせてコーヒーを飲んだ。コーヒーはすっかり冷めていて、アイスコーヒーのように冷たくなっていた。
 「その女性は『生前、大変お世話になりました。お亡くなりになったとお聞きしたので、矢も楯もたまらず急いでやって来ました』と言うばかりで要領を得ん。五十過ぎに見えたかな。話す間も表情が乏しいのが気になったが、それだけ言うとその人は帰って行った。今までそのことをすっかり忘れていた」
 「そうか。親父さんは生類を愛し、人に慕われ、きっといい人だったんだな」
 しみじみ言うと、佐藤は、逆らうように大きな声を上げた。
 「他の人や動物にはそうだったかも知れんけど、家の者にはそうやなかった」
 「どうしてだ?」
 「親父は典型的なDVやったんや。おれが子どもの頃から母を殴ったり蹴ったりしていた。それが嫌で俺が親父に反抗すると、今度はその矛先がおれに回ってきて、おれも一時は親父にひどい虐待を受けた。世間的には人格者で尊敬される人やったけど、実はひどい男やった。特に母が可愛そうやった」
 「じゃあ、親父さんが亡くなった後、お母さんはホッとしただろうな」
 「いや、それがそうでもなかったんや。ひどく落ち込んで。葬儀を終えて初七日を終えると寝込んだぐらいやった」
 そこで井森は、「家全体を見回りたいのだがいいか」、と佐藤に尋ねた。
 「もちろんいいよ。おれが案内する」
 と言って立ち上がり、二人で応接室を出た。
 廊下を歩き、佐藤の親父が好んで使っていたという部屋に入った。これまで以上にすごい臭気が鼻を突いた。何の臭いなのか、まるで見当がつかないぐらいひどい臭いだった。
 「どうしたんだ、この部屋の臭いは?」
 井森が尋ねると、佐藤はキョトンとした顔で、
 「臭い? そんなものせえへんよ」
 と言って笑った。
 「この臭いがわからないのか? ひどい臭いだぞ」
 とぼけているのかと思ったが、そうでもないようだ。佐藤はまったく臭いがわからないようで、そのことが井森は気になった。井森はこの臭気の原因を確かめる必要があると思い、押入を開け、部屋の中にある扉という扉をすべて開けて確かめた。だが、臭いの原因となるものなど何も見つからなかった。
 「おかしい。これだけの臭いだ。この部屋のどこかにその原因となる何かがあるはずだが――」
 「気のせいやないか。おれは何も感じへんぞ」
 佐藤は言うが、この強い臭気は気のせいなどというものではない。とにかくすごい臭気なのだ。後で、改めて確かめたいと佐藤に告げて、他の部屋を見回ることにした。母親の部屋でも同じように強い臭気を感じ、思わずハンカチで鼻を覆った。庭先に立った時もそれは同様だった。
 二階の部屋を見て回ったが、そこでも同じように悪臭がした。だが、不思議なものだ。そのうち、臭いに慣れてきて、臭いが苦にならなくなってきた。
 庭に出て、あらためて家全体を見渡すと、霊気の漂い方が普通ではないことに気がついた。鼻を覆う臭いと関連があるのでは、と思い、再び佐藤の父親の部屋を覗いた。
 「この部屋にはよく入るのか?」
 佐藤に尋ねると、「ほとんど入らないね」と言って笑った。
 その時、井森はふと気になって、
 「畳を上げて床下を見てもいいかい」
 と聞いた。佐藤は、
 「いいが、どうかしたのか?」と聞く。
 「この部屋の異様な臭気の原因はこの部屋のどこかに何かがあるはずだ。気になるので床下も見てみたい」
 佐藤の了解を得て、畳を上げると、一層激しい悪臭に見舞われて井森は思わずめまいがした。臭いがいよいよひどくなった。
 畳を上げ、床板をめくった時、井森は思わず声を上げた。
 猫と思われる動物の死骸が数匹、そこに束ねられ放置されていたのだ。
 「ネコの死骸が床下にあったぞ。覚えがないか?」
 「ネコの死骸?」
 「ああ、数匹、折り重なるようにして死んでいる」
 「……」
 押し黙った佐藤が何かを思い出そうとしている。
 「どうした? 覚えがあるのか」
 「いや……。でも、もしかしたら」
 「もしかしたら、どうした?」
 畳みかけるようにして井森が聞いた。
 「母が……」
 「お母さんがどうかしたのか?」
 「確証はないが、もしかしたら母の仕業かも知れないと、今、思ったんや」
 驚いた井森は声を上げて聞いた。
 「お母さんがやったというのか?」
 「母は父を憎んでいた。父が亡くなって父の可愛がっていた猫を殺したとしても不思議やない。そういえば、父が死んですぐに猫が1匹もいなくなった。母が殺したとしたら合点がいく」
 佐藤の父のDVは年を追うごとに激しさを増していたという。彼の激しい癇癪持ちも父のDVの影響があるのかも知れない。
 「何度も別れて家を出るように言うたんやが、母はずっと我慢していた。病気で倒れた後も、父は言葉の暴力で母を苦しめた。母がなぜ我慢するのか、おれにはわからなかった」
 その夜、井森は佐藤の家に泊まることにした。彼を苦しめる不思議な現象の正体を探りたいと思ったからだ。
 あれほど気になった悪臭だったが、不思議なことに夜になるとまるで気にならなくなった。慣れてきたのか、それとも臭いが和らいだのか、どちらともわからないまま、普通に過ごすことができた。
 酒を呑むと佐藤は途端に饒舌になった。父母の思い出を聞くともなしに語り始めた。
 ――両親は見合いで結婚をしたんや。母は見合いで会っただけで、いいも悪いもなく、親のすすめで結婚したと俺に語ったことがある。父は県会議員をしていて、祖父も曾祖父もそうで、うちは三代続く政治家一家やった。だが、それも俺の代で途絶えた。俺にその気がなかったこともあるんやが、俺には政治家としての素養も素質もなかった。弟も同様やった。二人とも政治家になる気持ちなどまるでなかった。
 父は人当たりのいい人間やったが、そのストレスが家族に跳ね返ってきた。妹や弟はそれが嫌で早々と家を出た。どうして父が母に執拗にDVを繰り返すのか俺には見当がつかなかった。
 七十歳を過ぎて議員を退職してからは一層、父のDVが激しくなった。まるで狂気の如く、父は荒れ狂った。そんな父にとって唯一の慰めは飼い猫と金魚だったようや。
 体調を崩して寝たきりになってもそれは変わらなかった。母は常に従順な人で、殴られ、蹴られ、罵られてもじっと耐えていた。
 父の体調は日増しに悪くなっていて、明日をも知れないという状態が続いていた時のことや。父はそんな状態でも、感謝の言葉すら一つなく看病する母を罵り続けていたんや。
 ある時、仕事を終えて帰ってきた俺は台所を覗いた。母が台所で晩ご飯の用意をしていた。ただいまと、声をかけようとして思わず立ち止まった。料理を作っている母のそばにやって来た飼い猫を、母がものも言わず包丁で斬りつけようとしていたんや。幸い、身を翻して素早く逃げた猫は無事だったが、その時の母の形相は凄まじいものがあった。ただいまを言いそびれた俺は、そのまま自分の部屋に戻った。
 父が死んで、葬儀を終えた後、母はしばらく寝込んだ。二、三日して俺が家に戻ると、猫は1匹残らずいなくなっていた。母に聞いても「わからへん」と答えるだけで要領を得ない。そのうち金魚も消えてしまった。母の仕業かなと思ったけれど、母に聞く勇気はなかった。
 体調のよくない日が続いた母だったが、それでも以後は普通に家事を続けていた。父の一周忌を終えた日のことや。母は突然、この世を去った。重症の心臓疾患だった――
 佐藤は話し終えると、小さなあくびを一つ漏らして布団を敷き始めた。
 「話し声が聞こえるのは何時頃だ?」
 井森が聞くと、すぐさま返事が返ってきた。
 「午前2時から3時の間や。うるさいから眠っていても目を覚ましてしまう」
 「そうか。今、午前1時だから後1時間ほどだな。佐藤は眠れよ。俺が起きていて確かめるから」
 布団の中に入った佐藤はすぐに眠りに就いた。
 静かな場所だ。時計の時を刻む音だけが響く。井森は布団に座り耳を澄ました。
 午前2時を過ぎた時間、ザワザワとした音が聞こえてきた。やがてそれは大きくなり、数人規模の話し声となって聞こえてきた。
 井森は静かに立ち上がると、ドアをそっと開けた。廊下には誰もいない。暗闇の中を忍び足で階下に降りた。目星を付けていた父親の部屋へ進み、そっとドアを開けた。
 暗闇の中に何かがいた。それも一つや二つではなかった。怖気を感じながらじっと暗闇の中の何かを見つめ続けた。すると、突如として、光る目が井森を見て、何事か叫んだ。それを見た井森は、逃げ出す勇気もなく、一気にドアを開け放ち、灯りを点けた。
 部屋の中には何も存在しなかった。しかし、見えない何かがこの部屋に存在したことは確かだった。
 
 翌日、井森は箕面市に住む幽玄和尚に佐藤の家の一件を伝えた。幽玄和尚は、きれいに剃髪した頭を撫でながら井森に向かって言った。
 「殺された猫の霊が家に棲みついているというわけなんやな。わかった。一度みてみよう。その上で必要であればお祓いをする。それでええか」
 幽玄和尚はあまり気乗りのしない様子だったが、渋々井森の願いを聞き入れてくれた。その日の夕方、井森は幽玄和尚と共に再び佐藤の家を訪れた。
すでに佐藤は帰宅していて、井森たちが来るのを待っていた。
 「和尚、この部屋です」
 佐藤の父親の部屋の扉を開けると、和尚は「ウッ」と小さな声を上げた。
 「どうしたんですか、和尚?」
井森が尋ねると、和尚は顔を歪ませて言った。
 「これは猫の霊やない。そんな生やさしいものやないぞ」
 和尚はそう言うと、数珠を取り出し、部屋に向かって振りかざした。
 「猫の霊じゃないって――。では一体?」
 答えるよりも先に、和尚は大きな声で呪文を唱え始めた。呪文を唱え続ける和尚の額に汗がにじみ始め、目が血走り、不思議なことに和尚の身体が徐々に浮いてきた。
 それを見ていた井森と佐藤も、その瞬間、部屋の中から放たれる霊圧で吹き飛ばされ、廊下に転がり落ちた。
 地上から数10センチもの高さに浮かび上がった和尚はなおも呪文を唱え続ける。
 やがて、呪文を唱える声が少しずつ弱まり、かき消えたかと思うと、和尚は失神して床に崩れ落ちた。
 「大丈夫ですか? 和尚!」
 井森が駆け寄ると、和尚はかすかに目を開け、
 「畳を上げてみろ」
 と言って、また目を閉じた。
 井森と佐藤は急いで畳を上げた。その瞬間、井森が「ぎゃっ!」と声を上げた。床下にあったはずの猫の死体が消え失せていた。
 そこには猫の死体の代わりに、なまずのような得体の知れない黒い物体があった。その黒いなまずのようなものを囲むようにして、呪文を表した文字がそこかしこに書き記されていた。
 「和尚、こ、これは――!?」
 恐怖のために井森が震える声で言うと、ようやく意識を回復した和尚が、
 「それはこの家の主じゃ。ずっとこの家に棲みついてこの家を支配してきた主じゃよ」
 と言う。
 「主?」
 「そうじゃ。数百年の歴史を有する家に時たま起こる現象じゃ。家屋に魂が宿ってそれが家の者の邪気を吸い取って成長し、やがてこの家に住む人間たちを支配して行く。その根源がその黒いなまずのようなものなんじゃ」
 佐藤の家は代々政治家としてこの町、この県に君臨してきた。人々に尊敬され崇められる存在となったものの、そのストレスは相当なものだったに違いない。そこに家の主が取り入り、家の者たちに不幸な現象を引き起こしていった。父親のDVも、母親が異常に家に執着したのも、佐藤の異常な癇癪持もそうであったのかも知れない。
 「猫の死骸は母親のせいではない。すべて主のせいじゃ。猫たちは早くに異様な現象に気付いていたのだろう。父親にそれとなく警告していたに違いない。だが、人間とは愚かな生き物じゃ。それに気付かないばかりか、さらに自らを醜く貶めていく。母親は、逆に家から離れられなくされていたのじゃろう。家からどんなに逃げたくても逃げられない、主の呪縛にあっておったと思う。父親の死と共に、猫と金魚は主の餌食になった。父親が生きている間は殺すことができんかったと思う。猫と金魚を殺して、父親に気付かれることを恐れていたのじゃろう」
 「このなまずのようなものはこのままにしておいて大丈夫ですか?」
 黒いなまずのようなものは呪文に囲まれて、今は身動き一つできないでいる。
 「いや、大丈夫やない。この家を燃やして、一度、すべての業を断ち切らんとすぐに息を吹き返す」
 和尚の言葉を聞いて、佐藤は何事か考えているようだったが、やがて決心したかのように和尚に向かって頷いた。
 他の家に燃え移らないように家を囲む形で水の輪を作り、佐藤は家に火を点けた。
 この時、佐藤は家のものを何一つ持ち出していない。
 予め消防署と警察に連絡してあったので、大騒ぎにはならなかったが、炎と共に、黒い影のようなものが噴き出したのを井森と佐藤はしっかりと目撃した。
 
 一年後、佐藤の家は新しく再建された。佐藤はすっかり人が変わったように明るくなり、快活になった。専門学校の教え子の女性と縁が出来て結婚し、再建された新居で暮らすことになった。
 井森の元へ佐藤からたまに電話が掛かってくるが、以前のような内容ではなく、おのろけとも何とも言えない妻の自慢話が主だった。電話を受けた井森はあきれて、そうか、そうか、よかったな、を繰り返すだけだった。
〈了〉

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