長老の最期の日

高瀬 甚太

 立ち飲み屋「えびす亭」の客で最高齢の客といえば、齢九十四歳にして未だ現役の酒呑み、橋場官兵衛さんをおいて他にない。橋場さんのことを「えびす亭」の客たちは長老と呼んで親しんでいた。
 背筋をピンと伸ばして姿勢を崩さず酒を呑む長老をみて、年齢を言い当てることのできる人はほとんどいない。八十過ぎか、いや、七十代後半か、そんな風にみられるほど、長老は矍鑠として元気だった。
 長老が愛飲する酒は麦焼酎で、銘柄にはさほどこだわらない。グラスに三杯を目安に、それを呑んだらさっさと引き上げる。酒の肴は天ぷらが多く、特にイワシの天ぷらを好物にしていた。さすがに食は細く、イワシの天ぷら一品とほうれん草のおひたしが限度で、それ以上のものは食さない。
 しかし、話は大好きだ。といっても話すのが好きなわけではない。人の話を聞くのが好きなのだ。店にやって来ると、いつも誰彼となく話を聞き、絶妙の相槌を打って、話す人を喜ばせていた。
 長老はあまり自分のことを話さない人なのだが、時折、話すのは孫のことだ。長老には子供も孫もたくさんいるようなのだが、目下のところ、三十代半ばの浩太という孫のことが気がかりなようで、話の中に浩太という名前が何度も出てくる。
 三十代半ばで鉄工所を創業した長老は、七十代半ばで息子に後を託し、第一線から退いた。以後は好きな囲碁に熱中し、悠悠自適の日々を送っている。長老には七歳年下の妻がいるが、その妻も長老と同様に元気で矍鑠としているという。絵で描いたように幸せな老夫婦といえそうだ。
 そんな長老の日々に変化が現れたのは最近のことだ。
 
 大雨が降った。梅雨時の大雨は始末が悪い。止むことを知らないかのように一目散に振り続けるからだ。おかげでその日、えびす亭は珍しく閑散とした。
 叩き付けるような雨音を聞きながら、マスターは厨房の中でタバコを吸っていた。いつもなら汗を流して注文を聞き、ごった返している時間帯だ。それがこの日は開店から客がまだ十人足らずしか来ていない。午後七時を過ぎても客足が伸びない。そんな時、長老が顔を出した。
 雨の降る日は来ない。午後七時以降に店に入ったことがない。そんな不文律があったのに、長老が店に顔を出した。
 「長老、どないしたんですか? 雨降りの七時以降に店に来るやなんて」
 長老は、疲れた顔をしてカウンターに立ち、ため息を一つついた。
 「孫の浩太がなあ……」
 マスターの顔をじっと見つめて、長老は静かに語り始めた。

 ――長男の息子の孫の浩太は、子供の頃からやんちゃで、世話の焼ける男だった。孫は五人ほどいるが、浩太を除く四人はごく普通で、優等生とまではいかなくても、そこそこの大学を出た優秀な孫ばかりで、わしの自慢の一つだったが、ただ一人、浩太だけは違った。いわば突然変異のようで、世話の焼かせようも半端ではなかった。中学時代まではかわいい子供だったが、志望校を落ちてから人が変わったようになり、親の言うことを聞かず、反抗ばかりするようになった。
 仕方なく入った高校は、不良がたむろするような学校で、あんな高校へ行かせたのがそもそもの間違いだったのだが、とにかく勉強もせずに遊び回るようになった。親の言うことも学校の担任の言うことにも耳を貸さない男だったが、不思議とわしの言うことだけは聞いた。わしも、浩太が一番かわいかった。それで常に浩太には気を配っていた。
 高校を中退した時も、親は怒り嘆き悲しむだけだったが、わしは、きっと何か理由があるはずだと思い、浩太を呼んで問い質した。すると浩太は、
 「クラスの女の子がからまれているのを助けたんだ。相手は他校の生徒だった。女の子をかばうと、そいつらが怒って来た。喧嘩になった。一対三だぜ。おれも傷ついたが、どうにかそいつらを倒すことができた。警察がやって来て、おれは捕まった。助けた女の子に証言してもらおうと思ったけれど、すでに逃げていなかった。警察は、倒れている三人の男を見て、何も聞かずに、おれが悪いと決めつけ、おれは現行犯逮捕された。学校でおれの逮捕が問題になり、普段からの言動もあったのだろう。おれは即時退学になった」
 「喧嘩の理由を説明しなかったのか?」
 わしが聞くと、浩太は、「したよ」とぶっきらぼうに答えた。
 「それなら学校もわかるだろ。おまえが好んで喧嘩をしていないと」
 「わかってくれなかったよ。言い訳をしてるとでも思ったんだろ」
 「助けたクラスメートの女の子は証言しなかったのか?」
 「ああ、しなかった」
 「なんて白状な女なんだ」
 「いいんだ。普段から大人しくて、目立たないやつだから、できなかったんだろ」
 「それにしても……、わしが学校へ掛け合ってやろうか」
 「おじいちゃん、ありがとう。でも、もういいんだ。おれ、働きたい。働いて金を稼ぐんだ」
 浩太はそう言って目を輝かせた。わしは、その時、浩太にとっては学校よりも社会人になったほうがいいのでは、と思った。それで、わかったと言って、浩太の肩を叩いた。だが、それが間違いだった。学校に文句を言ってでも、浩太を学校に残すべきだった。そう思ったが後の祭りだ。
 中退した浩太は、建設会社の工事現場に勤めるようになった。しかし、そこも長続きしなかった。理不尽な現場監督に腹を立てて口論となり、解雇されてしまった。
 職を転々とするうちに、浩太は半グレのような奴らと付き合うようになり、警察の厄介になるようになった。少年院に一年入り、出て来てからも、悪い奴らとの付き合いをやめなかった。
 浩太はその頃になると、もう家には帰って来なくなった。わしは浩太のことが心配で、必死になって探した。そして、今日、ようやく見つけたんだ――。

 雨足を強くしながら雨はなおも降り続いていた。長老は、皺の深い疲れた顔を覗かせて、孫の浩太のことを語り続けた。
 「浩太の父親や母親は、浩太のことをとうの昔にあきらめている。二人とも働いていて、自分のことに一生懸命で、子供のことをじっくり見ることができなくなっている。悪さをして言うことを聞かないような子供は、もう自分たちの子供じゃない、そう言うんだよ。仮にも自分の子供だろ。口が裂けても言える言葉じゃない。それなのに、あいつらは浩太のことを真剣に考えない……」
 長老の憤りがマスターには手に取るようにわかった。普段は三杯で止めている麦焼酎なのに三杯目を超えて四杯目、五杯目を口にしている。
 「長老、お孫さんとはどこで会われたんですか?」
 マスターが聞いた。
 「梅田の堂山にあるスナックで働いていた。浩太を探しているうちに、もしかしたら……というやつがいて、訪ねたら浩太がカウンターにいて、シェイクを振っていた。浩太は、わしの顔を見て、一瞬、驚いたが、すぐに笑顔になってわしを迎えてくれた。以前と比べて浩太はずいぶん荒んだ顔をしておった。顔色もあまりよくなかったので心配になって、大丈夫か、と尋ねた。すると浩太は、『じいちゃん、おれ、頑張っているから』と言うんだ。大丈夫なはずないじゃないか、とわしは思った。それで浩太に言った。おじいちゃんはいつでもお前の味方だぞ。何かあったら言って来い。必ず言って来いよ、そう言うと、浩太は、ニッコリ笑って言うんだ。『ありがとう、おれのおじいいちゃん』とな。その後、わしは、そのまま家に帰る気になれず、ここへ来たというわけだ」
 長老がそう言って六杯目を注文しようとした時、マスターは、それを断った。
 「それ以上、呑まん方がいいですよ。今日はこれで帰りなはれ。ゆっくり眠って、体を休めて、また明日、考えればええやないですか」
 長老は、空のグラスをじっと見つめていたが、それをそっと置くと、
 「マスター、勘定頼みます」
 と言って財布を手に持った。雨はいつの間にか止んでいた。

 午後五時を少し過ぎた時間帯は、まだ「えびす亭」の混みようはしれている。六時を過ぎたあたりから混雑し始め、七時から八時の間にピークを迎える。長老は、この日もいつもの時間にやって来た。カウンターに立つと、背筋をピンと伸ばして、麦焼酎の入ったグラスを傾けた。七時を過ぎて、混雑し始めた。それを見て、長老は帰り支度を始めた。
 長老が財布を取り出したタイミングで、ガラス戸を開けて入って来た男がいた。その男は、カウンターに立つ長老を見つけると、「じいちゃん!」と大声で叫んだ。
 その声に驚いたのは長老だ。まさか自分のことが呼ばれているとは思わず、それでも聞き覚えのある声にハッとして、ガラス戸を見た。
 「浩太!?」
 浩太は一人ではなかった。若い女性を連れていた。
 「どうぞ、こちらへ」
 マスターが、二人を長老のそばへ立たせた。長老は、財布を懐に納め直すと、浩太に言った。
 「おじいちゃんがここにいるってどうしてわかったんだ?」
 「昔から『えびす亭』に通っているじゃないか。この時間帯、おじいちゃんはきっとこの店にいる、そう思ってきたんだ。でも、帰ってなくてよかった」
 先日、スナックでみた時よりも、浩太の顔色は幾分ましなように思えた。長老が怪訝な顔で浩太の隣にいる女性を見ていると、浩太は慌てて、女性を長老に紹介した。
 「じいちゃん。おれの彼女のみどりだ」
 紹介された女性は、混みあうカウンターを意識しながら長老に、
 「福西みどりです」
 と丁寧な挨拶をした。長老は少し照れながら、福西みどりを見た。派手さを感じさせない質素な服装と、化粧気のない顔、髪は後ろで束ね、アクセサリーの類は身に着けていなかった。美人ではないが、キラキラとした目と穏やかな口元が印象的な、感じのいい女性だった。
 「じいちゃん、おれたち半年後に結婚するよ」
 浩太の口からその言葉が洩れた時、長老は、手にしたグラスを落としそうになった。
 「結婚?」
 「ああ、みどりと結婚をするつもりだ。働いて貯めた金があるので、それを元手に商売をする。小さいけど、店を開くんだ」
 スナックで見た、不健康な顔をした浩太はそこにはいなかった。長老は、皺だらけの顔を歪め、グラスの中に涙の粒を一粒、二粒落とした。

 「よかったですなぁ、お孫さんがまともになって」
 翌日、午後五時にえびす亭に現れた長老を見て、マスターが声をかけた。長老は昨日とは打って変わって明るい表情を浮かべ、ゆっくり頷いた。
 「浩太のやつ、さすがはわしの孫だよ。しっかりしとる」
 長老は、いつになく豪快に笑って、麦焼酎を注文した。
 「少年院を出て、ウロウロしている時、みどりという娘に出会ったらしいんだ。娘は花屋で働いていて、市場へ花を仕入れに行く途中、浩太に出会ったと言っておった。
 仕入れた花を軽自動車に乗せて、市場を出ようとした時、駐車場で倒れている浩太を見つけて、急いで病院へ運んだ。もう少し遅かったら出血多量で危ないところだったらしい。
 浩太は、そろそろまともに働きたい、そう思って、仲間にそれを言ったらしい。すると、仲間内のボス的存在のやつが怒り出し、口論になった浩太は袋叩きの目に合った。暴行を受けるだけでなく、腹部を刺され、もう少しでそれが致命傷になるところだった。
 みどりに助けられた浩太は、縁があったんだろう、そのままみどりと暮らすようになった。みどりと一緒に花屋を開く、そんな目標を持った浩太は必死になって働き続けた。
 朝は市場で荷卸しの作業、それが済めば配送作業の手伝い。夜は夜でスナックで、といった感じで、働きづくめだったらしい。わしがスナックを訪ねて、浩太の顔色を見て心配したのは、その疲れが顔に出ていたためだった」
 長老は一人語りのように、マスターに向かって喋り終えると、
 「マスター、お勘定」
 と明るく言ってえびす亭を去った。
 ――それがマスターが長老をみた最期になった。
 
 マスターが長老の死を知ったのは、長老が亡くなって一週間後のことだ。その死をマスターに知らせたのは、浩太とみどりだった。
 しばらく来ない長老を心配していたマスターの元に、浩太とみどりがやって来て、長老が亡くなったことを告げた。
 最後にえびす亭を訪れた翌朝、長老は、眠るようにして息を引き取ったという。浩太とみどりはその日、偶然にも父母に結婚の報告をするために訪れ、長老の死に出会うことができた。
 半年後、浩太はみどりと共に花屋を開業した。小さな町の小さな花屋だったが、総合病院が近くに控えていたこともあって、花はよく売れ、繁盛した。
 花屋を閉めるのが午後七時。店を閉めた浩太とみどりは、毎日ではなかったが、週に二回ほどの割合で、二人仲よく、「えびす亭」に出かけた。そこで、「えびす亭」の人たちに、おじいちゃん、長老の在りし日の話を聞く。今ではそれが、二人の大切な楽しみの一つになっていた。
<了>


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