話し好きなチドリ

高瀬甚太

 酒を呑むと、佐々岡雄二の足取りはいつも千鳥足になる。その歩き方がペーソスに溢れていて、誰が言うともなく、佐々岡のことをチドリと呼ぶようになった。
 そんなチドリが大酒呑みかといえばそうでもない。むしろ酒量は少ない方だ。ビール二本が限界で、一本目で顔が赤くなり、二本目の最期の方になると顔色が青くなる。まるで信号機のようだと冷やかされるが、酒はあまり強い方ではなさそうだ。
 今年で厄が明けるというチドリの不安は、自身の体調と中学生の長男の将来のようで、えびす亭で酒を呑むたびに、愚痴っぽくそのことを口にする。つい先日の夜もそうだ。8時ごろ、チドリは店に入ってくるとカウンターの列に割り込み、初対面の客に向かって話し出した。
 
 「糖尿の疑いがあるから精密検査をするようにって、健康診断の時、言われたんだけどさあ、精密検査をして、糖尿病です、すぐに入院してください、なんて言われた日にはどうしようもないからさ、行ってないんだよ。小便をした時、糖尿は泡が出るって聞いたけど、あれって本当かな? おれ、泡が出るんだよね」
 グラスの中のビールを一気に空けて、チドリの話はまだまだ続く。
 「長男がさあ、中学三年でね、進学を控えて大変なんだ。頭がよけりゃいいけどさ。おれに似てもう一つだから高校を選ぶのにも一苦労さ。担任は公立の高校で、場所は遠いけど、そこなら大丈夫という学校があるからそこにしたらどうかって言ってくれたんだけど、息子のやつ、そこは嫌だってぬかしやがんの。で、どこに行きたいんだって聞いたら、私立の高校だと言いやがる。友だちが行くから自分も行きたい。勉強頑張るから、行かせてくれって聞かないんだ。――私立って金がかかるだろ、それが心配でさ。だけどさあ、行きたいと言われたら、やめとけとも言えなくて、女房にお金あるかって聞いたら、どつかれたよ。あんたがパチンコと酒で無駄遣いするから貯金がないって――。
 おれはねえ、中卒なんだよ。高校へ行ってないんだ。頭も悪かったけど、家が貧乏で余裕がなかった。それで集団就職で大阪へやって来て、ネオンを作っている会社に就職した。給料は安かったけど、寮で三度の飯にはありつけた。寮のみんなは食事が不味いってこぼしていたけど、おれはそうは思わなかったね。だって、田舎にいた頃、食べられない日もあったしさあ、水だけ飲んで過ごした日もあったんだぜ。それを思うと天国だった。仕事は嫌いじゃなかったよ。元々働くことは好きだったし、残業も休日出勤も厭わなかった。
 主任が榎田という人だったんだけど、この人がいい人でね、よく家に呼んでくれてご馳走になったよ。仕事もできて人がよくて――。一緒に就職したやつらはほとんどやめたけど、おれだけは残った。それもこれも榎田さんがいたからなんだ。
 今の女房だって榎田さんの紹介で知り合って――、いろいろごたついたこともあったけどさ、三年付き合って結婚した。
 女房の家はまあ言ってみたら中流家庭というやつさ。お父さんは中小企業の課長でさ、お母さんは短大をでているんだ。女房は大学こそ行ってないけど、高校を卒業した後、経理の専門学校に通っている。それに比べておれは高校すら出ていないんだぜ。向こうの親が反対するのも当たり前だよね。おれ、先方へ行って、向こうの親に言ってやったんだ。おれ、学歴はないけど、仕事はできる。加奈――、女房の名前、加奈子と言うんだよ。いい名前だろ。加奈子の一人ぐらい立派に食わせて行きます。金持ちにはなれないかもしんないけど、幸せにできますって。それでも反対するなら、おれ――、そこでおれ不覚にも泣いてしまった。すると、女房のやつ、雄二さんとの結婚、許してくれなかったら、私、この家を出て行きますって、自分の親に言うんだよ。おれ、また泣いたよ。勘違いするなよ、今度は嬉し泣きだぜ。そうやってようやく、おれたち結婚したんだ」
 チドリはおでんを三個頼んだ。ごぼう天とコンニャク、ちくわ、マスターがそれを皿に盛ってチドリの前に置くと、「それでさあ」とまた話し始めた。隣の客、チドリの話に付き合わされて迷惑しているんじゃないかと心配したが、結構真剣に聞いている様子なので安心した。
 「結婚して三年目に、榎田さんが――、この時、榎田さんは課長になっていたんだけどね。その榎田さんが会社を辞めたんだ。会社の上部と折り合いが悪かったのは知っていたけど、退職しないといけないほどひどかったなんて知らなかったから驚いたのなんの。榎田さんが辞めるんだったらおれも辞めますって、榎田さんに言ったんだ。すると榎田さん、おれに言うんだ。おれの場合は男の意地で辞めるんだ。これはおれ自身の問題で、おまえを巻き込むわけにはいかない。現場の熟練者は会社にとって財産だ。おまえはこの会社で頑張れって。おれ、榎田さんのいない会社では働く気になれません。だから――。おれ、いい年して榎田さんの前で泣いてしまった。仕事も嫁も、榎田さんが与えてくれたようなものだから、榎田さんを追って、おれ、辞めたかった。
 後で聞いた話だけどさ。榎田さん、労働条件の改善を会社に要求して、それで会社の心証を悪くしたようなんだ。同族会社で、自分たち経営者だけが良ければそれでいいといったところが、経営者にあったもんだから、榎田さんがみんなを代表して会社に申し立てをしたんだ。結局、榎田さんの申し立ては取り上げてもらえず、謀反分子だということになって、会社は榎田さんを懲戒解雇にしたんだ。そんな会社、長続きするわけないよね。榎田さんが退職すると、とたんに売上、生産、すべてダウンして、会社は大慌てさ。一年も経つとたちまち左前になって、リストラをする始末さ。希望退職を募っていたからおれも退職することにした。次の仕事のあてはなかったけど、どのみちこの会社は潰れる。そう思っていたから悩まなかった。そんな時さ。おれが会社を辞めたってこと、どこで聞いたか知らないけど、榎田さんから電話がかかってきたんだ。どこへも行くあてがなかったらおれんとこへ来いよって。榎田さん、独立してネオン会社を作って結構繁盛しているようで、熟練工がいるって言うんだ。給料、今までより高くするから来ないかって誘われて。嫌なはずないじゃない。榎田さんの下で働けるんだったらただでもいいぐらいのもんだ。不景気だから榎田さんも経営が大変みたいだったけれど、榎田さん、社員のこと大切に思ってくれるから、その気持ちが伝わって、誰も不平や不満を言わず、みんな頑張っていたよ。おれも今では生産部の課長でさ。どうだい、大したもんだろ。部下が十人もいるんだぜ。女房のおやっさんも最近はおれのこと、少しは認めてくれているみたいでさ。わしは課長どまりだったけど、雄二くんはもう少し上に行くかも知れないなって言ってくれるんだ」
 隣でチドリの話を聞いていた客、とってもいいやつだった。酔っぱらいの話を真剣に聞いてくれて、おまけに自分のビールを空っぽになったチドリのグラスに注いでやっている。
 チドリはグラスの酒を喉に流し込むと、また話し始めた。
 「仕事はいいんだよ、仕事は。おれはいつだって真面目に頑張っているから。問題は息子の進学だよ。おれの両親、二人とも病気になって、その費用やら何やらで金がかかってね。おまけについ先日、二人揃って亡くなっちゃって、その葬儀の費用がまたバカにならないんだ。だからそんなこんなで今はすってんてんさ。でもさあ。子供にそんなこと言えるわけないでしょ。馬鹿息子がせっかくやる気になっているんだ。何とかしたいじゃない。そこで女房と話し合って決めたんだ。私学の入学金と学費、全部合わせて三年で三百万円、家を担保に借りようかって。家といっても大した家じゃないんだよ。二十坪足らずで中古の家さ。でもね、一応、毎月の稼ぎもちゃんとあるし、いざとなったら榎田さんが保証人になってくれるというんだ。金の問題は何とかなりそうなところまできたんだけれど、後はあいつの学力だ――」
赤かったチドリの顔がだんだん青くなってきた。もうそろそろ限界かもしれない。呂律もおかしくなってきて、体が揺れ出した。すると、チドリの話を聞いていた隣の客、
 「この続きはまた明日ということにして、そろそろ帰った方がいいんじゃないですか。奥さんと子供さんが心配してますよ」
 とチドリの肩に手をかけて言った。
 「ありがとうよ。もっと話がしたいんだけれど、酔いが回ってきやがった。そろそろ失礼するよ」
 グラスに残ったビールを一息に煽ると、チドリ、「それじゃあ、私、本日はこれで失礼します」と隣の客に深々と礼をしてヨタヨタと千鳥足で店を出て行った。
 ガラス越しに千鳥足で歩いて行くチドリを眺めながら、マスターが、チドリの話に付き合ってくれた隣の客に、「すみませんでしたねえ」と礼を言い、「チドリは、とってもいい人なんですよ」と言葉を付け足した。
 「知っています。佐々岡さんはかわいそうな人です」
 隣の客は、今はもう見えなくなったチドリの姿を目で追うようにして言った。
 マスターは少し驚いた表情で、
 「チドリさんのことをご存じなんですか?」
 と聞いた。えびす亭ではあまり見かけない客だったからだ。
 「はい。私、安田と申しまして、普段は消防署に勤務していまして――。佐々岡さんの事故の時、私も現場にいました。今日、この近くへ所要で来ましたが、その帰りにたまたまこの店へ寄って、一杯呑んでいる時、隣に佐々岡さんが来たものですから驚きました」
 がっしりした体つきの安田という男は、何もかも知っていて、チドリの話を聞いていたのだ。
 「そうですか……。それはそれは。チドリはああやって人に話すことで、少しずつ気持ちが癒されてきているんです。あなたのように真剣に話を聞いてもらうとチドリもさぞ満足したことでしょう」
 マスターは、安田に冷えたビールを注いだ。
 「あの事故は本当に悲惨でした。漏電が原因とはいえ、火災で奥さんと息子さんを一度に亡くされたのですから。佐々岡さんはたまたま残業で遅くなって、火災に遭わずに済んだのですが、帰宅して、自分の家が燃えているのを見て、奥さんと息子さんが家に取り残されているのを知ると、気が狂ったように燃え盛る火の中へ飛び込もうとしたんです。抑えつけても、抑えつけても、言うことを聞きませんでした。奥さんと息子さんの名前を絶叫していた、佐々岡さんのあの時のあの声が今も耳から離れなくて――」
 火事は、半年前の深夜、午前2時過ぎに起きた。夜中に発火した火は瞬く間にチドリの家を燃やし、眠っていたチドリのおくさんと息子は逃げ遅れて焼死した。あっと言う間の出来事だった。チドリはその日、急ぎの仕事があったため、残業をしていて帰宅するのが深夜のその時間になった。二人がとり残されていることを知ると、チドリは我が身をも顧みず、火の中に飛び込もうとした。消防官が制止するのも構わず、火の中に向かおうとしたが、抑え付けられ、泣きじゃくりながら妻と息子の名前を絶叫した。
 翌朝、全焼した家屋の中で、チドリは気が狂ったように妻と息子の遺体を探し回っていた。安田たち消防官はその姿を見て涙を禁じ得なかった。
 あれから半年、チドリは店にやって来ると、決まって幸せだった頃の我が家の話をする。人が聞こうが聞くまいがおかまいなしにチドリは話し続け、話し終わった後、おいしそうに酒を呑む。そして千鳥足でヨタヨタと一人住まいの我が家に帰る。
 立ち飲み屋に来る客の中には、寂しさを癒しに、悲しみを忘れるためにやって来る客がいる。チドリもそのうちの一人だ。
〈了〉

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