暴君を殺したのは誰だ?

高瀬 甚太

 強風が異常に吹き荒れた日の午後のことである。私はその日、事務所にいて、編集作業を行っていた。編集作業の一番肝心なところは校正だが、私は昔から校正を大の苦手としてきた。退屈極まりないこの仕事が性に合わず、どうにかやり終えたのが夕方近く、すでに薄暮の時間が訪れていた。
 昼食を食べ忘れていたことに気付き、空腹を解消しようと商店街に出た。平日ということもあって人通りはさほど多くなく、店を物色しながら歩いていた時のことだ。前方から歩いてきた男に、突然、声をかけられた。
 「井森さん、お久しぶりです」
 私と同じ年頃だろうか、背丈もよく似ていた。帽子を深めに被り、長いコートを身に着け、丸いメガネをかけていた。だが、私には、彼が誰であるか、まるで見当が付かなかった。
 「――どなたでしたか?」
 尋ねると、男は突然、笑い始めた。
 「僕ですよ、僕。柳瀬浩二ですよ」
 柳瀬浩二? 柳瀬といえば――。その瞬間、私は声を上げていた。
 「柳瀬くんか! 久しぶりだなあ」
 二十年ぶりの再会だった。
 「井森さんは変わらないですね。すぐにわかりましたよ」
 柳瀬はそう言って笑ったが、面相がずいぶん変わっていてすぐには気付かなかった。口の周りに生やした髭のせいもあっただろうが、私の知っている当時の柳瀬と雰囲気が大きく異なっていた。
 喫茶店に入った。対面して座ると、彼は灰皿を手前に引き、タバコを口にくわえた。
 「それにしても久しぶりだね。あの時以来になるか――」
 感慨深げに私が語ると、柳瀬も当時を思い出すように丸いメガネの奥にある目を細めた。
 「井森さんはずっと出版の仕事に携わっておられるようですね。お忙しそうだ」
 タバコを吹かしながら、柳瀬は体を斜めにして足を組んだ。
 そんな柳瀬の様子を見て、ふと彼の近況を知りたいと思った。
 「今、何をしているんだ?」
 柳瀬は、吹かしていたタバコを一旦灰皿の上に置き、組んでいた足を下ろして私を見つめ、「何をしているように見えますか?」と聞いた。
 とてもサラリーマンをやっているようには見えない。長いコートとジーンズ、ラフなスタイルは自由業か、もしくは正式な仕事に就いていない人のようで、正確に言い当てることは難しいように思われた。
 「わからない」
 私の答えを聞いて、柳瀬が笑いながら言った。
 「当たり!」
 「当たり?」
 「そうです。わからなくて当たり前。ぼく、何もしていませんから」
 「あれからずっと?」
 「ええ、十数年間ずっと家に引きこもっていました。外に出はじめてまだ日が経っていません」
 「引きこもり――」
 柳瀬の引きこもりの原因は聞かなくてもわかる気がした。あの事件が原因しているのだろう。そう思った。
 「あの事件の後、人に会うのが嫌になって、家の者にさえ顔を合わさないまま十数年が過ぎました。両親が亡くなって仕方なく家から出たのですが、まだ自分自身、コントロールができていません」
 「――両親が亡くなったのか?」
 「ええ、ほぼ同時に亡くなって、食べるものを運んでくれる人がいなくなって、仕方なく部屋から出て、今はたまにアルバイトなどをして暮らしています」
 「そうか、苦労しているんだな」
 同情するように言った私の言葉に柳瀬が鋭く反応した。
 「苦労なんかしていませんよ。あの頃のことを思えば今の方がずっと楽ですから」
 柳瀬にとってあの日は、今も過去になっていない――。タバコを口にし、遠くを見つめる柳瀬を眺めながら、私は二十数年前のあの日を思い出した。
 
 ――二十年前、私は東京の神保町にあった出版社で編集員として働いていた。中堅の出版社で、社員も五〇数名いた。出版社としては比較的、人数の多い方だ。
 編集員は全員で二〇名おり、三つのジャンルにチームが分かれていた。私が所属していたチームは、主に文芸を扱い、社内でも優秀な人材が集められていた。
 その頃、柳瀬は新入社員で所属先はまだ決められておらず、忙しいチームの助っ人をしながら適性を確かめられていた。
 新入社員は全員で五名いたが、全員、無個性で特徴のない人間が多く、柳瀬もそんな中の一人だった。
 当時、私は編集員として七年目を迎えており、多忙な日を過ごしていた。関わっていた仕事の中に、教授を退任した蛭子泰四郎が著作する『昭和回顧録 私立大学編』があった。
 蛭子は人間的に問題のある人物で、著作が難航することは充分考えられ、布石として、出版社は新人の柳瀬を蛭子の元にアシスタントとして送り届けた。
 我がままで、偏屈極まりない蛭子のために、秘書のような役割を果たし、著作をスムーズに進行させることを目的とした柳瀬の送り込みであったが、蛭子を知る編集部の中には、新人の柳瀬には荷が重いのではないかと、危惧する声も高く、担当の私が蛭子の元へ行くべきだとなり、私もそのつもりでいた。だが、その時期、私は仕事を三つ四つ抱え込んでおり、しかもどれもが時間のない仕事であったため、編集長の田代巌が断を下し、柳瀬を蛭子の元へ送り届けることを決定した経緯がある。
 蛭子の元に通うようになった柳瀬は、初日にして早くも音を上げた。直接、蛭子を知らない人間は、そんな柳瀬を厳しく叱咤したが、蛭子を知る人間の多くは柳瀬に同情した。私もその中の一人だった。
 蛭子邸には常時、手伝いが一人、出戻りの娘が一人、三十代後半の息子が共に住んでいた。蛭子邸の異常さは、蛭子一人にとどまらず、娘、息子もそれに輪をかけたように酷かったことだ。蛭子はもちろんのこと、二人の子供たちも柳瀬に対してきつく当たったようだ。一週間足らずで柳瀬は完全にノイローゼ状態に陥った。
 柳瀬の異常な様子をみて、蛭子邸に向かわせることをやめさせようとしたが、柳瀬自身が、もう少し頑張ってみる、と編集長の田代に進言したこともあって、継続して柳瀬は蛭子邸に向かうことになった。
 M私大の天皇とも揶揄された蛭子の暴君ぶりは、退官した後もまるで変らず、M私大に君臨し続け、家庭内でもそれは同様だった。蛭子の妻が若くして早死にしたのも、その原因の多くが蛭子にあると、当時働いていたお手伝いより暴露され、一時期、マスコミが大きく報じ、世間を賑わせたことがある。
 企画した『昭和回顧録 私立大学編』は、蛭子泰四郎にしか書けないもので、企画段階ですでに1000冊を超える申し込みがあり、今さら頓挫できない出版物になっていた。
 田代編集長から私に相談があったのは、柳瀬が蛭子邸に通い始めて十日目のことである。
 「このまま柳瀬を蛭子邸に行かせていいものだろうか」
 と田代は危惧し、私に相談を持ちかけて来たのだ。
 この時期、柳瀬の精神状態はいよいよ顕著になっていた。このまま放っておくと、何か大きな問題が起きそうな気がする、というのが田代の意見で、それは私も同感だった。
 「明日から私が柳瀬に代わって蛭子邸に向かいます」
 と告げると、ようやく田代は笑顔を取り戻し、頼むよ、といって私の肩を叩き、安堵の表情を見せた。
 関わって来た他の仕事の目途がついたことで、本格的に蛭子の仕事を始動させることができるようになっていた。新人の柳瀬を蛭子邸にやらせたのはまずかった、と思う私の気持ちもその背後にあった。柳瀬が帰社したら、早速、そのことを話して任を解こう、そう考えていた。
 だが、その日、柳瀬は午後遅くになっても帰社せず、何の連絡もなく時間が過ぎ、午後10時を迎えたところで警察から連絡が入った。
 ――柳瀬浩二さんはお宅の会社の社員ですよね。どなたか責任者の方、至急、署までお出でいただけませんか。
 ――どういうことですか?
 わけがわからないまま尋ねると、警察の担当官が、
 ――蛭子泰四郎氏の自宅で殺人事件が起き、柳瀬さんが、それに関与している疑いが持たれています。柳瀬さんは現在、署に収容していますが事情聴取が難しい状況です。関係者の方にもお話をお聞きしたいので、ご足労ですが、こちらの署まで来ていただきたいのです。
 殺人事件? 私はあわてて社を出ると、柳瀬が収容されている警察署に急いだ。
 警察署に着いて、ようやく事件の全貌を知ることができた。
 「本日午後8時10分、署に榊貞子さん、つまり蛭子邸のお手伝いの方ですが、その貞子さんから、『いつものようにお茶をお持ちするためにご主人の部屋をノックして、返事がないのでそのままドアを開けたところ、ご主人が床に倒れていました。慌てて声をかけますが返事がありません。見るとロープのようなもので首を絞められた形跡があり、近くにロープが放ってありました――』と通報があり、急いで署員が駆けつけると、床に蛭子泰四郎さんが倒れていました。捜査の結果、通報にあったロープによる窒息と診断され、死亡が確認されました。
 死体現場の状況から物取りの犯行ではなく、怨恨によるものと判断し、その線で現場の捜査を続けていたところ、別室のトイレの中で青白い顔をした発狂寸前の柳瀬浩二を発見しました。
 事件の重要参考人として柳瀬を任意同行し、取り調べに当たりましたが、柳瀬は精神錯乱状態で話すこともできず、柳瀬に関する情報をお伺いしたくてお電話をさせていただいた次第です」
 確定はできないが、状況から判断して、柳瀬の犯行である可能性が高いというのが警察の見解であった。私はここ数日間の柳瀬の状況を話し、ノイローゼ状態であったことを話すと、警察は、ノイローゼが高じて殺害に至ったのだろうと、さらに心証を強くした。
 だが、その後の調べで、ロープに柳瀬の指紋はなく、柳瀬の犯行と断定するものを警察は何一つ見つけることができなかった。
 柳瀬に問いただすも、精神錯乱状態にあった柳瀬は、「知らない男が先生を襲った」「自分も殺されるのではと思い、トイレに隠れた」と切れ切れに話すだけで要領を得なかった。
 お手伝いの証言では、その夜、蛭子の部屋にいたのは柳瀬一人で、他の者の姿は見ていないと言う。状況証拠からみて柳瀬の犯行であることは疑いないと警察は断言するのだが、確たる証拠がないまま、捜査は難航した。
 事件の三日後、蛭子の実子である、同居中の息子、蛭子譲二に疑惑が浮かび上がった。
 蛭子譲二は父親との間に、金銭問題に絡むトラブルを抱えていた。譲二は父親から多額の借金をし、その返済がなかったことから父親に手ひどい叱責を受けていたことが妹である優理香の証言でわかったのである。
 だが、この日、譲二は、自分は家にはいなかったと証言した。その時間、愛人の家にいたとアリバイがあることを警察に告げ、警察は譲二の愛人宅を訪問して譲二のアリバイを確認した。
 「譲二は確かに私の部屋にいました」
 愛人である高下美由紀はそう言って証言したが、肝心の高下美由紀自身が蛭子殺害のその時間、部屋にいなかったことがその後の捜査で判明する。高下はその時間、友人の三田昭代と会っていたことが、友人の三田の証言で明らかになったのだ。アリバイ偽証について厳しく追及された美由紀は、開き直りともいえる態度で、警察にこう述べている。
 「確かに私はその時間、部屋にはいなかったけれど、譲二はずっと部屋にいたわ。出て行く時も、帰った時も譲二は部屋にいた。譲二は犯人じゃない」
 美由紀は午後5時に部屋を出て、帰宅したのは午後11時半だった。殺害事件のその時間、譲二が部屋に居続けたと証言できるものは何もなく、譲二のアリバイが崩れた。
 譲二が父親から借りていた金額は三千万円と高額で、その金のすべてを譲二は株式投資の失敗で失っている。このことから、返済を迫られたか、厳しくとがめられたことが原因で譲二が起こした犯罪ではないかと警察は推測し、譲二の父親殺害の疑いが濃厚になったが、かといって柳瀬の疑いが晴れたわけではなかった。警察の柳瀬に対する追及はなおも続いていた。
 警察で精神鑑定を受けた柳瀬は、重症ともいえる診断結果を受け、しばらく入院することになった。むろん、入院中も警察の尋問、捜査は進行した。
編集部の人間の多くが柳瀬は犯人ではないと確信していた。非常に気弱で大人しいタイプの人間である。その彼が蛭子をロープで絞め殺すなどするはずがない。口を揃えて警察に証言した。
 だが、新しく息子の譲二が犯人として浮かび上がったものの、譲二にもまた、真犯人と断定できるだけの証拠がなかった。アリバイが確認できていないとはいえ、その時間帯に家に戻った形跡がなく、譲二を見た者がいないことから犯人と断定することはできなかった。
 柳瀬は、精神に破たんを来し、取り調べに満足に答え切れていないありさまで、捜査はいよいよ難航し、出口が見えなくなってしまった。そんな中で、捜査本部の中には、殺害の時間、現場にいたのは彼一人であるのだから、柳瀬を犯人として特定し起訴すべきだという強硬な意見が出た。だが、同場所、同時間にいたからといって、柳瀬が蛭子を殺害する現場を誰も目撃しておらず、また、証拠など、何も残っていないことから起訴は難しいとなり、侃侃諤諤の末、柳瀬は証拠不十分のまま釈放されることになった。
 蛭子を殺害した犯人は、予めロープを用意し、指紋から足がつかないように手袋をはめるなど用意周到で、また現場の足跡をきれいに拭き取り、殺害した後、窓から抜け出し、家人に見つからないよう家を抜け出ていた。
 貴金属の類、金銭などに一切、手を付けられていないことから、怨恨によるものと早々に断定されたが、蛭子は非常に敵の多い人物で、彼を恨むものは、大学を含め、彼の周りに数知れずいたことから、特定するのにかなりの時間を要した。
 捜査本部は改めて原点に戻り、今回の事件の要点を再度検討することになった。
 その結果、以下がまとめられた。
 一、蛭子に恨みを抱く者の犯行である。
 二、犯人は必ず蛭子の周囲にいる。
 三、蛭子家を何度も訪れ、蛭子邸の様子を熟知している。
 四、蛭子を背後からロープで絞め殺していることから男性の犯行であると思われる。
 五、事件の状況から見て蛭子と顔見知りか、蛭子が警戒しない相手である可能性が高い。
 以上のことが集約され、改めて検討し直すことになった。
 「蛭子に恨みを抱いていた人物の一人に、大学で蛭子の門下にいた准教授の原敏弘という人物がいます。蛭子は彼を教授に推薦せず、同じ門下生で、原の同僚の立木正二を教授に推薦したことで蛭子に恨みを抱いていました。彼もまた、殺害時間、確かなアリバイがありません。本人は家にいたと証言していますが、彼は独り者でそれを証明する者は誰もおりません。また、蛭子の周辺にもう一人、美川大三という人物がいて、彼もまた、蛭子に恨みを抱いていたことが判明しています。美川の論文を蛭子が根拠もなくこき下ろしたことから、美川の博士号取得が断念され、そのことで美川は蛭子を相当、恨み、憎んでいたようです。彼もまたアリバイが不明な一人です。当日のその時間、彼は居酒屋に立ち寄って酒を呑んでいたと証言していますが、いつも立ち寄る店ではなく、違う店であったため、美川がいたことを証言する者が誰もいません。――以上の二名が新たに浮かび上がった容疑者です」
と捜査官の一人がこれまでの捜査の成果を披露した。
 「容疑者が四人か。しかもそれぞれ疑わしいのに証拠がない。鑑識の報告では、ロープは市販されているごく一般的なもので、ロープ自体には特徴がないことがわかった。また、このロープを販売するいくつかのストアに行き、監視カメラを確認したが、ロープを購入する怪しい人物を確認することはできなかった。もちろん、四人のうちの誰も監視カメラで確認できていない」
 ため息の出るような報告が続く中で、一人だけ、新たな発見を報告した者がいた。
 遠藤公彦という三年目の新人刑事である。
 「殺害された蛭子という人間は、憎まれているのを承知しているせいか、非常に用心深い人間であることがわかりました。誰にも隙をみせない、そういったタイプの人間であったようです。今回の殺害は、そんな彼が隙をみせた間に飛び掛かり、首にロープを巻いて一気に絞め上げた殺人です。このことから考えて、私は美川と立木は容疑者から外してもいいのではないかと思いました。まず、立木は非常に小柄で非力な人間です。彼に大柄な蛭子の首を絞め上げられるとは思いませんし、それは美川も同様です。美川も背丈こそありますが、体力的にか細い人間です。飛び掛かって一気に絞め上げるといった芸当ができるようなタイプには思えません。それに二人とも外部の人間です。用心深い蛭子が隙を見せるはずがありません。このことから考えて、私は蛭子の息子の譲二と、出版社から出向している柳瀬が怪しいと考えました。しかし、柳瀬は見ての通りひ弱な人間です。背丈も体格も普通ですが、気の弱さを見ると、犯人である可能性が薄い。以上のことから私は譲二が犯人ではないかと推察し、蛭子邸の近辺にある監視カメラの当日の映像を確認し、一つ、譲二に似た映像を見つけました。それがこれです」
 遠藤の提出した画像に全員が注目した。帽子を深く被り、サングラスをかけているので、一見して譲二とは見分けにくいが、背丈、体格などはよく似ていた。
 「私が着目したのは、この画像に移る人間の歩き方です。歩く時に、左足を少し投げ出すようにして歩く癖をこの人物は持っています。こんな歩き方をする人物はそうはいないと思います。思い出してください。蛭子の息子の譲二はこんな歩き方をしていませんでしたか?」
 捜査本部の中からワッと歓声が沸き起こった。
 画像に映る人間は、譲二の歩き方に酷似していた。
 時間は殺人の起きる30分前、場所は蛭子邸に近い交差点の路上である。このことから考えて、譲二が誰にもわからないように家に戻り、話があるからと言って柳瀬を別の部屋に追いやり、殺害を企てた、そんな推理が捜査員全員の脳裏に容易に浮かんだ。
 「しかし、それなら柳瀬がそのことを捜査員に告げるはずだろう。柳瀬は一度も譲二の存在を口にしていない。彼は『知らない男が先生を襲った』『自分も殺されるのではと思い、トイレに隠れた』と証言するだけで核心に触れていない。これはどう考えたらいいのだろう」
 遠藤の推理に賛同しながらも、その途端に湧き起った疑問を一人の捜査員が遠藤にぶつけた。
 「一つには、すでに強度のノイローゼ状態にあった柳瀬は、事件前後の記憶があいまいになっており、恐怖の部分だけが記憶に刻まれ、譲二の存在が消え失せたまま、警察に証言した――、もう一つは、柳瀬が譲二とぐるになって蛭子暗殺を企てた。こういう推理が成り立つと思います」
 遠藤はそう説明して、捜査本部を取りまとめる課長に、譲二の身柄を拘束するよう要請した。
 愛人のいる部屋で確保された譲二は、踏み込んできた捜査員に大声を上げて抵抗したが、敢え無く逮捕され、そのまま留置場に送られ、翌日から本格的な取り調べが開始された。
 監視カメラの映像を見せられた譲二は、観念して、その映像に映っているのは自分だと証言し、家に戻ったことも白状したが、父親の殺害については徹底して否定した。
 「俺は父親を殺していない。殺そうと思って裏の戸を開けて、妹やお手伝いにわからないように家に忍び込んだことも間違いない。だが、俺が父親の部屋に忍び込んだ時、すでに父親は死んでいた。本当だ。俺は殺していない!」
 譲二は声を荒げて否定したが、捜査本部の心証は限りなくクロに近いものだった。
 柳瀬との共謀が疑われたが、譲二の口から柳瀬の名前が出なかったこともあり、精神的に混乱を来していた柳瀬を気遣った捜査本部の温情もあって、柳瀬に対する疑いはこの時点で晴れた。
 結局、蛭子譲二は被疑者否認、証拠不十分のまま、法廷に立ち、状況証拠を固められ、父親殺しの罪で懲役十五年の実刑判決を受け、入獄した。この間、譲二は何度か再審請求をするが、一度として叶えられず、十三年間服役した後、ひっそりと出所する――。
 
 それが二十年前の事件である。
 「思い出すのも嫌だと思うけど、一つ聞いてもいいかな?」
 タバコを灰皿の上に置き、コーヒー茶碗を手にした柳瀬に声をかけると、柳瀬は丸いメガネをずらして私を見つめ、「何ですか?」と聞いた。
 「あの事件でどうしてもわからなかったことがあってね。譲二が忍び込んだ時、父親はすでに死んでいたと譲二が証言しただろ。警察は取り合わなかったようだが、あの時、きみはどうしていたんだ?」
 「もう忘れましたね。ぼくはその時、トイレの中にいたんじゃないかな――」
 「しかし、きみは、知らない男が蛭子氏を殺害するのを見て、殺されると思ってトイレに逃げ込んだのだろ。譲二の話と符合しないんだ。どうしても――」
 「譲二は殺そうと思って部屋へ入ったことは間違いない。もし、譲二の言うように忍び込んだら殺されていたというのが真実であっても、殺害を企てたというだけで、彼には充分、罪を償う必要がある。そうは思いませんか」
 「しかし、もし、彼が本当に殺人を犯していないとしたら――」
 「さあ、誰が殺したのか、ぼくにはわかりません。ぼくはずっと別世界をさ迷っていましたから」
 「もしかして、きみが犯人ではないかと、あの後、私は何度も考えた」
 「それならそれでいいんじゃないですか。ぼくがそうであったとしたら、ぼくもまた、譲二のように罪を償うために、一人、部屋の中で幽閉されていた。そういうことになりますね」
 「幽閉?」
 「ぼくは引きこもりなんかじゃないんです。両親に幽閉されていたんですよ」
 「なぜ、両親が――?」
 「多分、真実を知ってしまったからではないですか――。でも、そんな昔のことなんか、どうでもいいじゃないですか。それより井森さん、ぼくに仕事をくださいよ」
 不気味な表情を浮かべて柳瀬が言うのを、私は呆然と聞き入っていた。
〈了〉

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