容疑者美香の行方を追って

高瀬 甚太

 その夜、私は友人と仕事の打ち合わせのために大阪ミナミの心斎橋に来ていた。予定より早く打ち合わせを終えることが出来たので、八幡筋から南に続くネオン街をぶらぶらと歩いた。その時のことだ。道頓堀に近づいたところで、背後から近づいてきた人物に突然、腕を掴まれた。驚いて振り返ると、十代と思しき少女だった。
 「ごめん。このまま一緒に歩いて……」
 女は私の腕に自分の腕を絡ませたまま、前方を見つめながら言った。
 背後からザワザワとした足音と声が聞こえてきた。若い男たちの声だった。少女は私の腕にしなだれかかるようにして顔を隠した。理由がわからないまま、私は女の肩を抱いた。華奢な幼い肩だった。
 道頓堀には入らず、堺筋に抜ける道を歩いた。化粧の匂いだろうか、甘ずっぱい香りが漂っていた。化粧がきつく、大人っぽいふりこそしているが、十代だということはすぐにわかった。まるで恋人同士のように、私と彼女は寄り添うようにしてしばらく歩いた。日本橋に出て堺筋を東に渡ると、一気に喧噪が遠ざかった。そこで始めて女は絡めた腕を解いた
 「ありがとう。もう大丈夫みたい」
 少女はそう言って笑った。その幼い笑顔を見て、やはりこの女性は二十歳を過ぎていないと確信した。
 私に腕を絡ませてきた理由は聞かないことにした。私は少女を見つめ、やさしい口調で忠告した。
 「気を付けるんだよ。いいね」
 少女にさよならを言って、堺筋に沿って南へ歩きはじめると、再び少女が追ってきた。
 「ちょっと待っておじさん。わたし、お腹空いたわ」
 午前0時を過ぎてもミナミの街はまだ人が多い。私は少女を連れて、千日前の裏手に向かって足を運んだ。事情はわからなかったが、少女を捜しているらしい男たちに出会う可能性があると思ったからだ。
 千日前の入り組んだ路地の中に美味しいおでんを食べさせる店があった。そこに女を招き入れた。
 十人も入れば満席の店は、ちょうど上手い具合に入れ替わりの時間に遭遇したようだ。珍しく待たずに座ることが出来た。
 少女はよほど空腹だったのだろう。皿に盛ったおでんを片っ端から片付け、生ビールを一気に煽った。
 それが、三橋麗子と会ったはじめての夜だった。
 その夜、麗子はおでんを食べ終えると、「家に帰る」と言い残し、さっさと私の許から去って行った。
 
 三日ほどして麗子から携帯に電話があった。あの夜、私は気が付かないうちに携帯のアドレスを教えていたようだ。
 電話に出ると、麗子の声がした。神妙な声だった。
 ――会いたいんだけれど、今から出て来れる?
 午後3時を過ぎていた。原稿をまとめている真っ最中で、すぐに事務所を出ることは難しかった。
 ――午後5時なら大丈夫だ。
 素っ気なく言うと、麗子はしばらく黙っていたが、
 ――じゃあ、午後5時、梅田のヒルトンホテルのロビーで待っている。
 それだけ言ってすぐに電話が切れた。
 年齢に関わらず、女性に関わり合いになるとろくなことはない。今までもそうだったし、おそらくこれからもそうだろう。そう思いながらも午後4時半過ぎたところで事務所を出た。冬の風がコートを押しつぶす。冷たい空気を顔面に浴びながら梅田へ向かった。
 ヒルトンホテルのロビーに着いたのが午後5時少し前だった。ロビーに彼女はいなかった。
 周囲を見回していると、勢いよく携帯が鳴った。胸ポケットから携帯を取りだして電話に出ると麗子だった。
 ――どこにいる?
 ――私、喫茶店の中にいるから。
 一方的に言って切れた。ロビーの隣の喫茶店を覗くと、美味しそうにケーキを食べている麗子がいた。やれやれと思いながら席に着くと、屈託のない声で麗子が言った。
 「お疲れさま。本日もお仕事ご苦労様でした」
 笑うと幼さが表に出る。化粧が邪魔なぐらいに麗子は、美しい肌と大きな瞳を宿していた。
 コーヒーをオーダーし、ブラックのまま口にしたところで、麗子に、私を呼び出した理由を聞いた。
 麗子は少しぶんむくれた表情をして私を睨んだ。
 「若い女の子に誘われて嬉しくないの? 男と女が会うのに理由なんかいらないでしょ」
 口を尖がらせて言った。
 「用がなければ帰るぞ」
 脅すように言うと、途端に麗子が慌てた。
 「ごめんなさい。相談したいことがあったのよ」
 麗子の口の中からケーキがすべてなくなってしまうまで辛抱強く待った。ようやく食べ終えたところで、彼女は、先程とは打って変わった神妙な面持ちで語り始めた。
 「私の母は、私が小学生の時、交通事故でこの世を去ったの。父が再婚したのは三年後、私はその人とうまく行かず、折り合いが悪くて、中学生になった頃からたびたび家出を繰り返したの。
 父は大手生保会社の部長を務めていて、近々、本社常務に推挙される話が浮上していたの。それもあって父は、私のことを気にかけていたわ。それというのも、もし、私が問題を起こせば、父の出世話はなくなってしまうことが目に見えていたからよ。
 でも、父の監視が厳しくなればなるほど、私は反発したわ。それでも、中学生時代はまだマシだったわ。中学を卒業して女子校に入学し、同級生と遊ぶようになってからよね。ひどくなっていったのは。
 高校二年の春、一緒につるんで遊んでいた同級生が売春容疑で逮捕されたの。大阪ミナミを根城にした大がかりな売春組織の摘発があって、その組織に関係した罪で警察に連行されたの。その際、私にも容疑がかかった。結局、友だちは売春組織とは無関係だったけど、その噂が広がって、父の常務昇格は見送られることになったわ。
 父はガッカリしていたけど、私には一切、愚痴をこぼさなかった。でも、私のせいで父の昇進が見送られたという話を義母から聞かされ、ショックを受けたわ……。
 本格的に家出をしたのは、義母にその話を聞かされて後のことよ。
 家を出た私はそのまま学校を退学し、売春容疑で捕まった同級生を頼って彼女の住むマンションに同居することになったの。
 彼女の名前は西田美香。両親は高級住宅地の芦屋に住む不動産業を営む富豪だったけど、一人住まいを希望して、女子校に入学すると同時に単身、1ルームのマンションを借りてもらい住んでいたの。
 先程も言ったけど、美香の売春容疑は、交際していたカズという男が売春組織に関わっていたため、彼女の名前が浮上したもので、捜査の結果、彼女の疑いは晴れた。でも、学校はそれでよしとはしなかったようで、美香に半年の登校停止を下し、美香は実質、退学処分になった。私と美香は、そんなことがあって一緒に暮らすようになったの。
 事件が起きたのはつい二、三日前のことよ。
 美香は年齢を偽ってキャバクラで働いて、私も別の店のスナックで働いていた。美香は売春で捕まったカズとは縁が切れたと言っていたけど、カズは拘置所を出た後、頻繁に美香を訪ねてくるようになったの。部屋には入れなかったけど、カズのしつこさは異常で、美香の勤め先にも、度々顔を出すようになった……。
 美香は、すでに好きな男がいたので、カズをどうにかしたいと相当思い詰めていた。だけど、タチの悪い男で、どれだけ言っても美香につきまとってくるの。カズの年齢は二十歳、名前は斉藤一之といったわ。カズは長身で痩せていて、薬でもやっているのではと思えるほど顔色が悪かった。ヤクザではなかったけれど、準構成員のような立場だと、美香が言っていた。
 ――そのカズが突然、死んだの。淀川大橋の袂で三日前の早朝、刺殺体で発見されたのよ。テレビのニュースで私、そのことを知ったわ。しばらくマンションを留守にしている美香にそのことを知らせようと携帯に、何度も電話をしたけどつながらなかった。
 その日の夜、私は美香の勤めているキャバクラを訪ねた。だけど、美香は数日前から欠勤していて、その日も出勤していなかったわ。何かあったんじゃないかと胸騒ぎがしてしかたがなかった。
 カズの死亡推定時刻は発見より5時間前、死因は鋭利な刃物で数カ所刺されたことによる、出血性のショック死だと、テレビのアナウンサーが伝え、犯人の目星はついておらず、複数の関係者に事情を聞いているところだと、そのニュースは速報で伝えていた。
 美香から連絡があったのは、私がキャバクラを訪ねたその日の夜だったわ。
 午前0時を回った頃、美香から携帯に電話がかかってきたの。あわてた様子で、『麗子、お願いがあるんだけど』と言うので、私が、『どうしているの? あいつ亡くなったよ』と言うと、美香は、『知ってるわ。それでお願いがあるの』と言うの。
 『もし、警察関係の人が訪ねて来ても、私のこと、何も喋らないでほしいの』と言うので、
 『えっ……。美香、今、どこにいるの?』と聞いたわ。
 するとすぐに電話が切れた。それっきり美香からの電話はなかった。着信を見て掛け直そうと思ったけれど、美香は公衆電話から電話をしていた。
 気になった私はミナミの街に出て、美香の行方を探そうと心当たりの場所を探し歩いた。そんなときよ、チンピラの集団が、私が美香を探し歩いていることを聞きつけて追ってきたのは――。そしてあなたに助けられたってわけ」
 一通り聞いて、ようやく麗子の現状が理解出来た。
 「美香という女性からは、その後連絡がないのかい」
 麗子は私の問いに答えるより先に「オレンジジュース頼んでもいい?」と聞いてきた。頷くと、麗子はウエイターを呼んで、オレンジジュースを注文した。
 「連絡はないわ。でも、美香が殺人者のはずはないと思う。あの子はそんなことの出来る子じゃない」
 ナプキンで口の周りを拭きながら麗子が言った。私は、彼女に言った。
 「殺人を平気でするような人間なんてそうはいないさ。追い詰められた状況が人をそうさせるんだ。その美香という女性だってそうだったかもしれない」
 麗子はしばらく口を閉ざし、じっと俯いていた。カズという男の異様なストーカーぶりを思い出しているのだろうか。沈黙はオレンジジュースが届くまで続いた。
 「それで私に相談というのは何だね。ややこしい話なら断るぞ」
 つっけんどんに言うと、麗子は途端に泣き顔になった。
 「おじさんしかいないの。こんなこと相談できるの」
 涙をポロポロこぼしながら、麗子は私に言った。
 「美香の無実を証明したいの。美香が隠れているのはきっと何か理由があるはず。でも、このままではきっと美香が犯人にされてしまう」
 「だけど、その美香という女の子が犯人じゃないという証拠もないんだろ」
 「そりゃあそうだけど、私、美香を信じているの。いい加減なところもあるけれど、あの子は私のたった一人の友だちなの。私が信じてあげないと……」
 そこまで言って、麗子はテーブルに顔を突っ伏して泣いた。周囲の人間がその様子を興味本意にみている。きっと年の離れた女との別れ話とでも思っているのだろう。
 「お願い。美香を捜して!」
 麗子の声を遠くに聞きながら私はゆっくりコーヒーを飲み干した。

  時折、変な依頼に首を突っ込んでしまい、そのたびに貴重な時間を取られてしまう。私の悪い癖だ。しかし、今度ばかりは首を突っ込まない方がいい。そう思った。私は麗子に向かって、「俺は刑事でも探偵でもない。出版に関することなら首を突っ込むこともあるが、人捜しなんてとんでもない。零細の出版社だって一応やるべき仕事はある。これでも結構忙しい身なのだ。しかも事件がらみの人捜しなんてとんでもない」。
 と、口まで出かかった言葉を飲み込んだ。麗子の泣き顔を見て、どうしようもない思いに駆られたのだ。
 「美香は私の友だちなの。大切な友だちなの」
 麗子は何度その言葉を繰り返しただろうか。放っておけば、ずっとその言葉を繰り返したに違いない。私がイエスと言うまでは――。
 結局、私は美香を探す羽目になった。しかも何のあてもない。
 美香の実家には麗子がすでに連絡をしていた。そこでわかったことは、両親の娘に対する無関心さだった。娘が家を出てからというもの、ほとんど娘と連絡を取っていないと言う。当然、今回のことも知ってはいなかった。麗子はあきれてものが言えなかったそうだ。
 調査するところは限られていた。美香が徘徊しそうな場所といえばミナミの街しかない。それも危険な場所に潜んでいる可能性がある。考えるだけで気が滅入ったが、麗子の泣き顔をこれ以上見たくなかった。もし、どこかに囚われているのだとしたら助けてやりたい。そう思って探し始めた。
 美香の元交際相手だったカズという男は、指定暴力団の和歌山組に出入りしていたと、旧くからの友人である原野警部が教えてくれた。
 和歌山組は新興の暴力団で、組員の人数もそう多くはなかった。カズは盃こそもらっていなかったが、ほとんどそこの組員と同様の扱いを受けていたようだ。和歌山組は売春を主なしのぎにしていて、カズはポン引きのような役割を果たしていたようだ。カズに対する売春婦たちの評判はあまりよくなかった。原野警部が殺されたカズに関する情報を少しだけだが教えてくれたことで、カズの死の輪郭を掴むことが出来た。
 カズの死因は胸と腹を複数回刺されたことによる出血性のショック死だった。
 カズが暴力団抗争に巻き込まれた形跡はなく、痴情のもつれではないかということが新聞紙上で発表されていた。
 警察はカズの交友関係を中心に洗い出しているようだ。その一人に美香もいた。
 カズが美香に執心し、ストーカーまがいの接し方をしていたことはすでに警察も掴んでいた。そのため、警察は美香の行方を追っていたのだが事件後、美香が行方不明になり、警察も未だに確認が取れていなかった。
 カズには他にも女性がいた。沙羅というクラブの女性と由希という不動産会社に勤めるOLで、どちらもカズより年上だった。
 二人の存在は、カズの仲間の三宅という和歌山組の構成員から聞くことができた。三宅は闇金にかなりの借金があるようで、お金をちらつかせたらすぐに教えてくれた。
 私はまず、沙羅に会った。沙羅は上本町の高級マンションに住んでいて、カズより七歳上の二七歳だった。沙羅は、カズの名前を口にすると、露骨に嫌な顔をした。
 「あいつとはずいぶん前に縁を切ったわよ。大枚百万円の手切れ金を渡してね。あんな奴、顔も見たくないわ」
 カズについて質問をすると、沙羅は興奮した口調でカズのことを語った。
 「スタイルもいいし、顔もまあまあだったから遊びのつもりで誘ったのよ。そうしたらあいつ、とことんつけ上がって私に小遣いをせびるようになったの。本当に嫌な奴」
 カズと別れたのは三カ月も前で、それ以来、会っていないという。事件のことは新聞で知って、警察も二度ほど訪ねてきたという。しかし、沙羅にはアリバイがあった。その日、沙羅は妹の家を訪ね、そこに一晩泊まったことが妹の証言で証明された。
 由希に会ったのは、沙羅を訪ねたその日の夜だった。不動産会社に勤める由希は、会社を終えてからミナミのスナックでアルバイトをしていた。私が会ったのはそのスナックの店内だった。
 カウンターだけの小さなスナックで、ママとバイトらしい女性が由希の他にもう一人いた。カラオケの設備はあるが、どちらかといえば酒を飲ませる店のようで、客はカウンターに五人程度いて、落ち着いた年齢の客が多かった。
 「カズ? あんな奴、もうこりごりよ」
 そう言って由希はタバコの煙を思い切り吹かした。
 「金をせびるだけせびって、借金までさせるんだから最低よね。口のうまい奴だったからついほだされて金を出したのが悪かったわ。あっという間に借金が膨らんで、こうしてバイトをして稼がないといけなくなったというわけ。あんな奴のこと、もう聞かないでよ」
 由希はそう言って水割りを一気に飲み干した。警察も二度ほど来たらしいが、アリバイがあったので、これ以上は収穫がないと思ったのだろう、すぐに帰ったらしい。カズとは一カ月近く会っていないと由希は言い、私を店から追い出した。
 二人とも、美香の存在は知っていなかった。
 探し始めて三日ほどした頃のことだ。昼近くになって麗子から電話があった。
 「おじさん。今からすぐに会える?」
 唐突に言うので、驚いて聞いた。
 「どうしたんだ?」
 私が訊くと、麗子は慌てた様子で口早に言う。
 「美香の行方を知っているという人にこれから会うの。鶴橋の駅で待ち合わせしているんだけど、今すぐ来れる?」
 時計を見た。午後1時過ぎだ。午後4時に編集の打ち合わせがある。それまでに帰ることが出来れば何とか間に合う。「すぐに行く」と返事をして電話を切った。
 地下鉄鶴橋駅で下車して地上に上がった。JR鶴橋駅の改札口で麗子が待っているはずだった。探しても見あたらないので電話をした。麗子はすぐに電話に出た。
 「JR鶴橋駅の西口の改札の前にいるの。早く来て」
 中央改札から西口改札まではすぐの距離だ。走って向かうと改札の前に麗子がいた。
 麗子は私の顔を見ると、一瞬ほっとしたような顔をした。
 「この近くなの。一緒に会ってくれる?」
 「もちろんそのつもりでやって来たんだ。これから会う人ってどんな奴なんだ」
 麗子は首を振った。
 「わからないの。私の携帯に電話が掛かってきて、『美香に会いたいか』、と聞くの。会いたいって言ったら鶴橋に来いと言うの。それでおじさんに電話をしたというわけ」
 電話の主は若い男の声だったようだ。麗子と共に相手が指定した場所に向かった。
 鶴橋駅から数十メートル離れた韓国系の喫茶店を男は指定した。店は国道に面してあり、すぐに見つかった。店内に入ると、ほぼ満席だった。私と麗子がキョロキョロと店内を見回していると、奥に座っていた二人組の若い男たちが声をかけてきた。
 「こっちだよ、麗子さん」
 四人がけの席に男たちと向かい合うようにして座った。二人とも、金髪で薄汚れたジーンズと年季の入った革ジャンを着ていた。
 「麗子さんだけ呼んだつもりだったんだけど、こちらのおじさんはどなた?」
 男が警戒するように私を見て言った。
 「出版社の編集長の井森というものだ。麗子さんの叔父にあたる」
 麗子の叔父ではなかったが、嘘を言った。
 「まあ、いいけどさ。美香のことだけど、実はおれたちがかくまっているんだ」
 二人の男は双子のようだった。ミュージシャンのようにも見えたので訊ねると、そうだと、二人は大きな声で答えた。
 「おれは双子の兄、マック。こいつは弟のサリーだ。おれたちはロックミュージシャンとして活動している。もっともまだ売れないミュージシャンだけどな。美香と知り合ったのは、美香がおれたちの熱烈なファンと知ってからのことだ。おれはひと目で彼女を好きになったよ。弟もそうだったようだけど、兄の権限で譲ってもらった」
 音楽をやっているせいか、声がよく通る。喋り方も悪くなかった。
 「付き合い始めたのは半年ほど前からだ。その頃、美香は悪質なストーカーに追われていて、おれたちはよく相談を受けていた。その男とも何度か会ったけど、懲りない奴だった。何度か喧嘩にもなったが、あいつは卑怯な男だった。すぐにナイフをちらつかせる。それでおれたちは、美香をおれたちの館にかくまった。そこへあの事件だ。美香が疑われているのは知っていた。だけど、あの男が殺された時間、美香はおれたちと一緒にバンドの練習をしていた。それを証明するのは簡単なことさ。でも、警察がおれたちの言うことを信じるかどうかは別ものだ。美香も警察を恐れていた。売春容疑で誤認逮捕された時のことがトラウマになっているらしい。美香にセクハラをした警官もいたようだ。美香は警察に出頭しないと言っている」
 韓国の喫茶店ではお餅のようなものが小皿に載って出て来るようだ。マックと呼ばれた男はその餅を美味しそうに口にした。
 「そんなところへ、美香の友だちの麗子が美香を捜し回っていると聞いた。美香のことは、カズの仲間の暴力団の連中も探している。あいつらは美香がカズを殺した犯人だと思っているようで、カズを殺した仕返しをしようと思っているようだ。このままでは麗子が危険だ、と美香が言うので麗子に連絡をしてここへ来てもらったというわけだ」
 男の話を聞きながら、麗子は頬に涙を滴らせていた。
 「よかった。美香が犯人じゃなくて……」
 そう言うとテーブルに崩れ落ち大声を上げて泣いた。よほど美香のことが心配だったようだ。
 私も安心した。美香が安全なら私の役目も半分は果たしたことになる。だが、それでは犯人は一体誰だろう。
 
 麗子は無事、美香に会った。美香は思いのほか元気だった。しかし、このままでは美香が不利になるばかりだ。どうにかしないといけない。そう思って美香に警察に出頭するよう促したが、美香は受け入れなかった。
 この上は一日も早く、カズ殺しの犯人を見つけなければならない。そう思ったが、まるで見当がつかない。
 美香に話を聞いた。カズを恨んでいる人間に心当たりがないかを知りたかったのだ。
 「ああいう人間でしょ。いろんな女に恨まれていたと思うの。だって付き合った女を平気で売春させるような男なんだもの。そうねえ。あいつの話に出てきた人間の中で特に印象に残っているのは、パスね。パスといっても名前じゃないのよ。あいつが、あれはパス、あれはパスって、しつこいくらいその女のことを言っていたの」
 美香の話を聞いて、私はその日のうちに三宅を呼びだした。カズがパスと言っていた女を知らないか、それを聞きたかっただけなのだが、三宅は答える前に謝礼を要求した。仕方なく私は一万円札を三宅の懐に押し込んだ。
 「おれも、カズから話だけは聞いているよ。何でもその女、カズに惚れていて始終、カズにつきまとっていたんだ。カズはその女を利用して売春をさせたり、小遣いをせびったりしていたからあまり邪険に出来なかったようだけど、本音は逃げたかったんじゃないかな。あいつはパスだって口癖のように言っていたから」
 パスの話は三宅も聞いていたようだったが、正体については、ほとんど何も知っていなかった。和歌山組の連中もそうだったようで、カズはその女のことを誰にも話していなかった。何か人に話せない理由でもあったのだろうか――。
 カズの行きつけの喫茶店やスナックに行っても同様だった。カズの話の中にパスという言葉は出て来るが、それが誰を指したものか、誰も知らなかった。
 警察の捜査も大詰めに来ているということを原野警部から聞いた。どうやら行方不明の美香が捜査線上に上っているらしい。
 美香はマックにかくまわれて静かに暮らしていた。麗子は時折、美香を訪ねていたようだが、ばれるといけないということで極力、会うのを控えているようだった。
 私は美香が何か思い出してくれることを期待していた。しかし、美香は私に話した以上のことは何も覚えていなかった。
 そうして一週間が過ぎた。私も仕事が忙しくなり、捜査の時間が思うように取れなくなった。ようやく仕事が一段落したところへ、それを待っていたかのように麗子から電話があった。
 「おじさん。美香が何か思い出したようなの。すぐに会いに行ってくれる。私も一緒に行くから」
 「いや、きみはやめといたほうがいい。警察も美香を見つけるのに必死だ。尾行される可能性がある。私が一人で行って来る」
 麗子は残念な様子をみせたが、「わかりました」と素直に引き下がった。
 私は急いで鶴橋に向かった。鶴橋で下車して、桃谷に向かう広い道を5分ほど歩くと旧い五階建てのマンションが見えた。もちろんエレベーターはない。念のため尾行の有無を確かめたが、私に警察の尾行が付くはずもなかった。
 最上階の五階に立ち、一番奥のドアを二回ほど叩くとマックが顔を出した。
 マックは、私の背後に誰もいないことを確かめると無言で部屋に招き入れた。
 部屋の中は意外に片付いていた。ドアを閉めてしばらくすると、美香が顔を覗かせた。
 「ごめんなさいね。忙しいところ」
 美香はそう言って謝ると、私の前に座り、思い出した内容を淡々と話し始めた。
 「カズがパスについてメールを送ってくれたことがあったの。そのことを昨日、麗子にメールを打っていて思い出したのよ。私がカズから逃げようとしていることにカズは苛立っていたのだと思う。電話に出ないものだからショートメールを送りつけて来たの。変態まがいのどうしようない内容だったけど、一本だけ、まともなメールがその中にあったの。『美香、もうすぐ大金が入って来る。改心するからその金を持っておれと一緒にどこか海外へでも行こう。これはマジな話だ』。そんな文章だったと思うわ。あいつから来たメールなんてすぐに消すんだけど、そのメールはいつもと様子が違っていたので覚えている。でも、それもすぐに消したけどね」
 「大金が入って来る……。カズがそう書いていたのか?」
 「ええ、間違いないわ。確かに書いていた。はったりか、ホラ話じゃないかと思ったけど……」
 美香たちと別れた後、日本橋に出ると三宅を呼び出した。
 千日前の旧い喫茶店で会った三宅は、四十歳という年に似合わない派手な服装をしていた。だが、服装のわりには金を持っているわけでもなく、私の顔を見ると、いつものように謝礼を要求した。私はそれに応えず質問をした。
 「近々、大金が入るという話をカズから聞いたことがあるか?」
 三宅は素っ頓狂な声を挙げて大袈裟に驚いてみせた。
 「大金? 嘘でしょ。聞いたことありませんよ。あいつに金が入るとしたらどうせ女がらみでしょう。女をたぶらかして金を巻き上げるか、それとも女に悪事をはたらかせて金をぶんどるか、そのどちらかでしょ。あいつは女以外、全然駄目ですから」
 その話を聞いて、私ははっとした。謝礼を要求する三宅に千円札を一枚出し、三宅のポケットに突っ込むと、急いで原野警部に電話をした。
 署にいた原野警部は、私があることについて質問をすると、調べてから電話をすると言って一度電話を切った。原野警部から電話が掛かってきたのはそれから30分後だった。

 カズ殺しの犯人が逮捕されたのはそれから三日後のことだった。
 美香は警察に追われなくなったが、そのままマックと暮らすようになった。麗子はそんな美香の元に足繁く通い、いつの間にかマックの双子の弟であるサリーと仲良くなったと後で聞いた。
 それもあって麗子からの私への連絡は途絶えた。私はまた仕事に専念することが出来るようになった。めでたし、めでたしだ。
 原野警部から連絡があり、今回のことについて感謝すると伝えられたのは一週間後のことだった。
 あの時、私は、カズが付き合っていた二人の女のうちの一人、沙羅のアリバイを再確認してくれと警部に依頼した。しかし、警部は最初、それを渋った。彼女のアリバイは捜査本部が確認し、裏付けもしっかり取れていると断言した。
 確かにカズ殺しのあった日、沙羅は妹夫婦の家に行き、一泊している。それは妹夫婦の証言もあり、確認が出来ていた。殺害のあった時刻は、鑑識の報告では深夜0時から1時の間になっている。その時間、本当に沙羅が妹の家にいたのかどうかを再確認してくれと私は依頼した。
 沙羅の妹の家は西淀川区にあり、工場街に近い昔ながらの一軒家だった。そこは妹の夫の実家だったが、夫の両親が亡くなってすぐに移り住んできたという。沙羅はこの家が好きだったようで時折訪ねて来ては泊まっていたようだ。
 「姉は確かにその日、うちに泊まって、翌日の昼前に出て行きました」
 妹はそう証言し、夫も認めた。これ以上確かな証言はなかった。その夜、7時近くになって沙羅は疲れた顔をしてやって来ると、いつものように今晩泊めてね、と言って離れにある部屋へ行ったという。次に妹が顔を合わせたのは翌朝の9時過ぎだった。
 「原野警部、その離れというのはどこにありますか?」
 私が訊ねると、原野警部は「そりゃあ……」と言って一瞬口ごもった。
 離れは妹夫婦の住む家から少し離れた庭の中にあった。元々、倉庫にしていたものを、妹夫婦が、子どもたちが大きくなったら子ども部屋にしようということで、普通の住まいに改築したものだった。
 「その離れからなら妹夫婦に気付かれずに外へ出ることが出来ますよね」
 私が言うと、原野警部は「確かに……」と言って再び口ごもった。
 捜査の段階では離れがあることまで確認していなかったようだ。沙羅を疑っていなかったことも確認が行き届かなかった一因だろう。
 警察は沙羅を厳しく追求した。当初は犯行を否定していた沙羅だったが、離れの存在を追求されるとやがて観念して自供した。
 「あいつ、私が惚れているのをいいことに散々金をゆすって、それだけでは飽き足らず、私のパトロンにまで手を伸ばし始めたの。パトロンは大手銀行の副頭取で、芦屋住まいの大金持ちなのよね。それを知ってあいつ、私とパトロンとのセックスの様子を隠しカメラで撮って、それをネタにパトロンをゆすると言い出したのよ。あいつのおかげで私は散々な目にあってきた。セックスの奴隷のようにされて、これ以上ない恥ずかしい思いをしてきて、おまけにあいつに騙されて売春までやらされた。なのにあいつはいつも私を避けるの。金を貰う時だけは近づくけれど、私が求めてもパス! と言って相手にしない。それだけならまだ許せるわ。大切なパトロンにまで手を伸ばされては私はもう生きていけない。そう思った私は、あいつを殺すことを考えた。あの夜、11時に、撮影した写真と引き換えにお金を渡すからと偽ってあいつを淀川大橋の袂に呼んだ。あいつの住まいが福島区の海老江にあったから、淀川大橋まで5分とかからなかった。金に目のくらんだあいつは、何の疑いもなく、のこのことやって来てニタニタ笑いながら私の前に現れた。金を渡すふりをしてあいつの胸に腹に、私は何度もナイフを突き刺した……」
 女の性というにはあまりにも哀れな事件だった。こうして事件は解決した。
 沙羅に話を聞いた時、手切れ金を要求されて渡したと言っていた。それを三宅の話を聞いて思い出したことが沙羅に結びつくきっかけになった。頼りない勘だったが、アリバイはきっと崩れるだろうと確信していた。
 私は再び、出版の仕事に忙殺されて時を過ごすことになった。仕事もそうだが、借金取りに追われる日々だけは何とかしたい。常にそう思っているのだが、どうやらそれはかなわぬ夢らしい。今日も借金取りたちが大挙してやって来る。

〈了〉

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