頑張れポンちゃん

高瀬 甚太

 場末の立ち飲み屋「えびす亭」に通うようになって五年を数えるが、この店ほど家族的な雰囲気の店はないね。
 何が楽しいかというと、誰とでもすぐに友だちになれることだ。もっとも、この店だけの友だちで、店の外に出ると付き合いはないけどね。それがまたいいんだよ。
 いろんな客がいるけど、やっぱりどうしても好き嫌いが出るよね。嫌いなやつもおれば好きなやつもいる。中でもおれが一番大好きなのがポンちゃんだ。
 ポンちゃんは、ほとんど毎日のようにえびす亭に現れる。時間帯は午後九時前後、いつも笑顔を絶やさないごきげんな男だ。年のころは五十代前半かな、おれとそう変わらないと思うよ。仕事は製造業だといっていたが、鋳物か金属を扱っている会社で働いているように思う。大阪はそんな工場が多いからね。
 ポンちゃんをおれが贔屓にしている理由はただ一つ。笑顔もあるが、バカ正直なところだ。信用のおける男だよ、ポンちゃんは――。
 ポンちゃんは、店にやって来ると、いつもおれを見て、「ヨ―ッ」と片手を挙げて挨拶をする。その声がまたいいんだ。腹の底から絞り出すような声で、「ヨ―ッ」だものね。思わず、おれも「ヨ―ッ」と返してしまう。
 カウンターに立つと、ポンちゃんはいつもビールを頼む。グラスにビールを注いで、一杯、二杯、三杯とすごい勢いで飲み干す。そのスピードがすごいんだ。呆気に取られてるおれを後目に、「ビールもう一本!」だものね。いつもそんな調子で一本目を開けるから、観ていて楽しいね。
 店でポンちゃんがする話題は決まって競馬の話だ。競馬の好きなポンちゃんは、土曜日曜になると道頓堀のウインズに朝から入り浸っているらしい。成績? それがあまりよくないようで、いつも「惜しかった、惜しかった」を連発している。たまに勝った時は大変だよ。自慢話がすごいんだ。競馬に勝つことがよほど嬉しいのだろうね。ポンちゃんは気前よくみんなにご馳走するんだ。多分、勝った分より持ち出しの方が多いと思うんだけど、それほど気のいいやつなんだ、ポンちゃんは……。
 酒を呑んで酔いが回ると、ポンちゃんはいつも、奥さんのことを話題にする。出会った時のこと、デートした時のこと、プロポーズした時のこと、結婚してすぐのこと、そして子供が生まれた時のこと――。いい思い出がいっぱい詰まっているんだと、ポンちゃんは泣き笑いで語る。
 何度聞いたか知れない話だけれど、何回聞いても涙が出てくる。ポンちゃんのその話を聞くと、おれの酒はいつも涙色に染まってしまう。

 ――中学を出てすぐに故郷の鹿児島を出たんだ。家庭の事情もあったし、おれの頭の問題もあったし、何よりもおれ自身、働くのが好きだった。
 伯父さんが大阪にいて、その紹介で西淀川の鋳物工場に就職したんだけど、典型的な中小企業で、最初のうち、給料は安いわ、勤務時間は長いわ、休みが少ないわで、不満たらたらだったけど、一カ月、二か月経って仕事を覚え始めると、毎日が楽しくなった。
 日曜は一応休みだったから、寮で洗濯をしたり掃除をしたり、金のある時は梅田まで出て、寮の仲間と一緒に映画を観たり、酒を呑んだり、食事をして過ごした。
 会社を辞めるやつも多かったけれど、おれは辞めたいと思ったことは一度もなかった。ホームシックにかかるやつもいたけど、おれは田舎へ帰りたいなんて一度も思わなかったよ。
 女房と知り合ったのは俺が二十歳の時だ。会社の近くに喫茶店があって、おれはそこへ昼飯を食べに行くことが多かった。西淀川は工場の多い街だったから、昼になると作業着姿の男たちで一杯になる。でも、中には女工たちや女の事務員も来ていて、おれは、その中の一人の女の子に夢中になった。
 完全な片思いで、話しかけることすらできない。いつも、同じ時間に数人で連れだって喫茶店にやって来るその女の子をチラチラと盗み見するのが精一杯だった。
 何とかきっかけを掴みたいと思っていたけど、そんなチャンスなんか一度もなくて、悶々としていた時、たまたまその子と相席になった。向こうは三人、こちらは二人、一緒の席に座って、黙々とご飯を食べていたら、向かいの席に座る女の子の話し声が聞こえてきた。
 「せがらしかねえ(やかましいわねえ)。ずんばい(たくさん)……、ひったまがしっよ(びっくりする)」
 途切れ途切れに聞こえてくる会話を耳にして、おれは、思わず、声を出した。
 「おはんら鹿児島かね?」
 尋ねると、三人のうちの一人の女の子、おれが気にしていた女の子だけが目を丸くして頷いた。おれが川内だと言うと、女の子は鹿屋だと言った。
 それがきっかけになっておれたちは仲よく話すようになった。
 同郷と年齢が同じということも手伝って、おれと女の子、あゆみと言うんだけれど、あゆみとの仲は急速に進展した。
 あゆみは、おれの働く工場から歩いて五分ほどの距離にある印刷会社で働いていて、彼女はそこの現場で製本の仕事をしていた。
 おれたちは休みのたびにデートをし、一年ぐらい付き合った後、おれは彼女に結婚を申し込んだ。その時のこと、詳しく話してもいいかな。だっておれにとっては一世一代のプロポーズだったから。
 婚約指輪を買うお金がなかったから、おれは、その代わりに阪神百貨店で珊瑚のブローチを買って、彼女を大阪城へ連れて行った。天守閣で大阪市内を見下ろしながら、珊瑚のブローチを手渡して、おれは叫ぶようにして言ったよ。
「結婚してくれ。おれはあゆみと一生、一緒にいたい」って。
 彼女はうつむいたまま何も言わなかったよ。もしかしたら、おれ、振られたのかな、と思っていたら、うつむいた彼女の目からポツン、ポツンと涙が零れ落ちて、突然、彼女に手を握られた。固く手を握られて驚いているおれに、彼女が言ったんだ。
 「よろしくお願いします」って。
 それが彼女の答えだった。
 三か月後、おれたちは結婚式を挙げた。親戚と会社の人たち、全員で二〇名ほどのささやかな結婚式だった。その後、田舎へ帰って、おれの家で結婚披露宴。これがすごかった。うちの田舎じゃ、夜通し披露宴をして祝うんだけど、酒は呑まされる、眠らせてくれないわで、本当に大変なんだ。でも、あゆみは幸せそうだった。
 結婚して、共稼ぎで働いて、お金を貯めたよ。一年後には子供が生まれる予定だったからね。でも、おれの働いている会社がその年の冬に突然倒産して、事態は暗転した。二代目が後を継いで、株に手を出したのが悪かったようだ。負債ができて会社が回らなくなったと専務が説明していたけど、今さらもうどうしようもない。おれはすぐに次の仕事場を見つけるために奔走したよ。その甲斐あって一か月後には就職先を決めた。今度は東大阪市の鋳物工場で、ホッとしたのもつかの間、そこは典型的な同族経営で、血縁のない者にはしんどい職場だった。
 一カ月足らずでそこを辞めて、東成区の金属製作工場に勤めた。今までやってきた鋳物とは違ったけれど、一から覚え直すしかない、そう思って仕事をした。幸い、社長も職場の雰囲気も悪くなくて、おれはようやく落ち着くことができた。
 子供は何人でも欲しかった。でも、二人、男の子を産んだところで、打ち止めにした。女房の子宮に腫瘍が見つかって、それを取り除いたことで、子供が産めなくなってしまったんだ。
 幸せだったよ。親子四人、貧しかったけれど、本当に幸せだった。そうやって平穏無事に日が過ぎて行った。
 少し落ち着いた頃、おれはギャンブルを覚えた。会社の人に京都の淀競馬場に連れて行ってもらい、あてずっぽうで買った馬券が大当たりしたことがきっかけで、おれは競馬にのめり込んだ。何せ三〇万円からのお金が、あっと言う間に懐へ入るわけだからね、こんなに簡単でチョロイものはない、そう思ったよ。その後もおれは勝ち続けたし――。
 でも、ギャンブルってそんなに甘いものじゃない。すぐにおれは勝てなくなり、それまで勝っていたお金を吐き出すだけじゃなく、どんどん継ぎ込むようになった。なまじっか勝った記憶があるものだから、借金してもすぐに取り返せる、そう思って借金しては競馬にのめり込んで行った。
 サラ金から督促状が家に届き始めて、女房に借金していることがばれてしまった時、おれはもう抜き差しならないところまで来ていた。
 女房に責められたおれは、心ならずも女房に暴力を働いてしまった。酒に酔っていたこともあった。だが、そんなもの言い訳にもならない。最愛の女房を殴り、傷つけてしまった結果、女房は子供たちと共に家を出た。
 一人になったおれは猛省したよ。ギャンブルはもうしない。暴力も振るわない。だから帰ってほしい、神様にも祈ったよ。
 鹿児島の女房の実家に連絡を取った。でも、女房は鹿児島には帰っていなかった。ありとあらゆるところに連絡をし、女房と子供たちの行方を捜した。でも、見つからなかった。
 あれから三か月、女房との連絡は途絶えたままだよ――。

 この三か月、ポンちゃんは酔うたびにその話をおれに聞かせる。十数年かかって築いてきたものが一瞬で壊れてしまう。そんなことってよくある話なんだ。おれだってそうさ。二回も離婚を経験している。
 一回目の離婚は、おれの浮気が原因で別れた。二回目は、女房の浮気が原因で別れた。一回目の結婚で一人、子供が生まれていたが、その子は女房が連れて出た。二回目は幸い、子供が生まれなかった、というよりも、結婚期間があまりにも短すぎた。三か月しか一緒に暮らしていない。その後はずっと一人さ。
 一回目の女房とは長すぎた春で結婚した。二十歳の年から十年付き合って、三〇の年に仕方なく結婚したものだから、すっかり浮気癖がついていた。結婚する前から付き合っていた女ときちんと別れてなくて、ずっとばれなかったものが、五年目にばれてしまった。
 潔癖症の女房は、おれの浮気が発覚すると、有無を言わせずおれに離婚証書を突きつけた。離婚などしたくなかったおれは、自分の不実を詫び、別れないでほしいと頼み込んだ。
 しかし、女房の決心は固かった。おれは仕方なく女房と別れて、それまで付き合っていた女と結婚した。
 だが、その女にはおれとは別の彼がいたようだ。結婚して三か月目に、その事実を友人に知らされた。おまえの新しい奥さん、男と一緒にホテルへ入っていたと聞いたのだ。
 怒り心頭のおれは、女房に問いただした。すると、女房はこう言った。
 「あんたとは結婚するまでずっと不倫だった。男のあんたにはわからないだろうけれど、不倫は女を寂しくさせるものなんだ。その心の隙間に入り込んできた男を私は振り払うことができなかった」
 立場が逆になってしまうと、別れた女房の気持ちがよくわかった。そうすると無性に最初の女房が恋しくなってね。二度目の女房とは浮気発覚を機に別れてしまったんだ。
 でも、最初の女房はすでに再婚していた。おれは「おめでとう」と言うのが精一杯だった。
 ポンちゃんの寂しさがおれにはよく理解できたよ。ただ、ポンちゃんは俺のように浮気などしていない。そういう不誠実さはポンちゃんには微塵もなかった。だからまだ、奥さんが帰って来る可能性は高いと思った。
 競馬が辞められなくてねと、ポンちゃんは肩を落としておれに語った。
 「本当の競馬好きは借金してまでしないもんだ」
 とおれがしたり顔で言うと、ポンちゃんは頷いて、おれもそう思うよ、と神妙な顔をしておれに言った。
 ギャンブル依存症から抜け出るには相当の勇気と根性が必要だ。おれは、ポンちゃんがそう簡単にギャンブル依存症から抜け出せるとは思っていなかった。ただ、ポンちゃんのために何か力になりたかった。だからえびす亭でポンちゃんに会うたびに、おれはポンちゃんを励ました。
 「離婚証書が送られてきていないのならまだチャンスはある。もし、奥さんや子供たちともう一度一緒に暮らしたいと思うのだったら、競馬も含めてギャンブルには一切、手を出さないことだ。おれは、ポンちゃんがギャンブル依存から抜け出ることを奥さんがどこかで見ているような気がする」
 とおれが言うと、ポンちゃんは、
 「でもなあ、おれ、競馬が大好きなんだ。賭ける金額を少なくしたらどうかな……」
 と言う。おれは怒った。
 「ポンちゃん、お金の大小じゃないんだ。やめるかやめないか、二つに一つ、それしかない。奥さんや子供を取るか、競馬を取るか、二つに一つなんだ」

 えびす亭に来る客の多くが一つや二つ陰を持っていて、脛に傷のあるやつも多かった。要するに寂しい男の吹き溜まりのようなところなんだ、えびす亭は。
 でも、そんな吹き溜まりの中で、立派に立ち直って行く者が多いのもえびす亭の特徴だ。
 この店で、愚痴を言い、過去を語り、泣いて笑ってするうちに、周りのみんなに励まされ、元気を取戻す。えびす亭はそんな店でもあった。
 おれもそうだ。離婚を二度繰り返して、結婚はもう無理だとあきらめていたおれが、いつの間にか、今度こそ、幸せな家庭を築こう、そう思うようになっている。えびす亭に来て、酒を呑みながら愚痴をこぼすと、必ず慰めてくれる人間が一人や二人はいる。そんなやつらに励まされながら、おれは自分という人間の生き方をしっかりと真正面から見つめられるようになってきた。
 ポンちゃんがえびす亭で競馬の話を一切しなくなったのは、それからしばらくしてからのことだ。誰かが競馬の話を持ちかけても、ポンちゃんは何も答えない。答えずに笑ってばかりいる。競馬に未練があることは見ていてよくわかる。だが、ポンちゃんはきっとそれを我慢しているんだ。おれにはそう思えた。
 ポンちゃんに本当の笑顔が戻ったのは、それから一カ月ほどしてからのことだ。
 相変わらずポンちゃんは、店に入ってきておれを見つけると、「ヨッ」と腹の底から絞り出すような声を出して片手を挙げる。おれも、「ヨッ」と答える。
 ビールを注文し、いつものようにグラスに注ぐと、それを一息に呑む。二杯、三杯、ビール瓶一本が空になると、「マスター、ビール」とポンちゃんは威勢のいい声で注文する。
 「ポンちゃん、今日はえらく元気がいいね」
 おれが冷やかすように言うと、ポンちゃんは思い切り顔をほころばせながら、
 「女房と子供が帰って来てくれたんだ!」
 と明るい声で言う。
 それを聞いておれは、マスターに、
 「ポンちゃんにビール一本、おれに付けといて」
 と言って、ポンちゃんのグラスにビールを注いだ。
 「ポンちゃんおめでとう!」
 おれは心からポンちゃんを祝福する。いや、おれだけじゃない。ポンちゃんのその話を聞いたほかの客たちも、おれに倣って「おめでとう!」を連発した。
ポンちゃんは、どんなに酔っても、もう昔話はしなかった。今が幸せなら昔話など不必要だ。呑んで呑んで笑って笑って――。笑顔が絶えないポンちゃんをおれは好きだ。
今度はおれがポンちゃんに愚痴を聞いてもらう番だ。
 おれは、ポンちゃんにそっと話す。
 「実はおれ、三度目の結婚をしようと思うんだ」
 ポンちゃんが驚いた顔をしておれを見つめる。決して、呆れたような、バカにした目でないことがその表情でよくわかる。
 「今度は、本気で人を好きになってほしい。本気で人を好きにならないと、本当の夫婦にはなれない。おれはそう思っている」
 ポンちゃんの言葉が胸に響いた。胸に響いて涙がこぼれた。ポンちゃん、おれも幸せを取り戻すからね、おれは心の中でそうつぶやいて、ポンちゃんのグラスに自分のグラスをぶっつけた。
<了>

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