オシドリ夫婦の呪い

高瀬 甚太
 
 その日の午後、井森は光藤智史から「至急、会えないか」と誘いの電話を受けた。
 用件を尋ねると会ってから話すと言い、電話では多くを語ろうとしなかった。校了前の原稿の整理で忙しかった井森は、とても時間が取れないと、一度は断ろうとしたのだが、光藤の様子がいつもと違っていたことが気になり、仕事を後回しにして出掛けることにした。
 心斎橋筋商店街から東側へ歩いた通りに光藤の指定した喫茶店『バルボア』があった。間口の狭い入り口のドアを開けて中へ入ると、店内は思いのほか広かった。その奥まった場所に光藤がいて、井森を見つけると小さく手を振った。
 「忙しいところ、申し訳ない」
 100kgを超える体重を誇る光藤は、開口一番、中腰の姿勢で謝ると、
 「この店のコーヒーはおいしいぞ」
 と手にしたカップを指さしながら井森に言った。
 手早く用を済ませて帰りたかった井森は、コーヒーを注文する前に光藤に尋ねた。
 「ところで急ぎの用って何だい?」
 「まあ、先にコーヒーでも飲んでくれ」
 光藤は、高揚する気分を抑えるためか、タバコに火を点け。煙を一気に吸い込んだ。
 「禁煙したんじゃなかったのか」
 「ああ、十カ月程度禁煙していた。吸い始めたのはつい最近だ。いろいろあってな、タバコでも吸わないと持たない……」
 吸いかけのタバコを勢いよく灰皿でもみ消した光藤は、
 「離婚するんだ」と、早口で言った。
 井森は驚かなかった。二人の仲が冷え切っていたことは、すでに誰もが知っていた。
 「おれは離婚の調停なんかしないぞ」
 井森は笑って返した。
 「離婚の調停をしてもらうためにお前を呼んだわけじゃない。離婚はいいんだ。時間の問題だったから。問題は泰子の行状だ」
 「泰子――。奥さんがどうかしたのか?」
 「様子がおかしいんだ。ここのところ、特に」
 光藤はそう言うと、奥さんの最近の様子について話し始めた。
 「お前も知っているように、離婚の原因はおれの浮気だ。浮気がばれてからおれたちの仲は最悪になった。それでも離婚せずにいたのは、中学生になる娘の存在があったからだ。泰子は娘の親権を主張した。母親として当然のことだと思い、おれも同意した。
 だが、ある時、娘の絵美が、ママと一緒に暮らしたくない、と言い出した。何故だと聞くと、ママの様子がおかしいと言うんだ。浮気騒動があってから、おれたちはろくに会話をしていなかった。泰子は、同じ家に住みながら顔を合わせることさえ拒否していたからな。だからおれは泰子のことなど何もわかっていなかった。
 娘の絵美に言われて改めて泰子を観察すると、なるほど様子がおかしい。ぶつぶつとひとりごとを言ったり、急に笑い出したり、そうかと思うと真顔で文字を書き始めたり、何かに取り憑かれたような感じなのだ。それが日増しにひどくなってくる。
 最初は鬱かなと思った。それで娘に母さんを病院へ連れて行ってくれと頼んだ。だが、不思議なことに泰子は家から一歩外に出ると正気に戻るようで、病院で診断してもらっても特に異常はみられないということだった。ところが家に戻ると途端に正気を失い、とたんにおかしな言動をするようになる……」
 光藤はコーヒー飲み干すと、井森を見つめて言った。
 「そこでお前にお願いがあるんだ。泰子を助けると思っておれの家のことを調べてもらえないか。泰子がおかしくなるには、何か家に原因があるはずなんだ」
 井森は飲みかけのコーヒーカップを皿の上に置くと、光藤に言った。
 「断っておくが、おれはそういったことに対処できるほどの能力は持っていない。パワーもないし、それほど詳しいわけでもない。だからおれに頼むのはお門違いだ」
 はっきりと断ったつもりでいたが、光藤は納得していなかった。
 「お前しかいないんだ。頼むよ。泰子がどうにかなってしまわないかと心配なんだ」
 光藤は離婚に至るまでの経緯を井森に話した。
 「行きつけの東心斎橋のラウンジで働く美幸という女とねんごろになったのは二年前のことだ。愛とかそういうものではなく、単純におれは美幸の肉体が欲しかっただけのことだ。ところが、美幸は違った。元々、あの子の中にファーザーコンプレックスのようなものがあったんだろう。意外にも二周りも上のおれに執心した。一か月に二度か三度、会って寝るだけの関係だったが、それでは済まなくなった。おれと結婚したいと言い出したんだ。その気のなかったおれはもちろん断った。すると、美幸はおれのいない隙に泰子に電話をして、泰子に「別れてほしい」と訴えたのだ。驚いたのは泰子だ。おれに女のことを問いただし、別れる、別れないの修羅場になった。おれは、泰子に女のことを正直に話し、別れたくないと伝えた。泰子もその時は渋々納得したはずだった。
 その時、おれたちが別れなかったのは、なんといっても娘の問題が大きかったが、それ以上におれにはっきりとした離婚の意思がなかったことだ。おれは美幸と結婚したいわけでも一緒にいたいわけでもなかった。おれは妻を愛していた。だからずっと妻とおれたらと思っていた。娘にもそう話したが、娘は信用してくれなかった。妻はもっと信用しなかった。
 一年が過ぎてそろそろはっきり結論を出さないといけない時期になった。娘の親権問題は結論が出ているし、おれは家も財産もすべて妻に渡すつもりでいた。その点では何の問題もなかった。離婚は時間の問題だった。だが、ここへ来て、妻の様子がおかしくなった。離婚するにしても、妻のことが心配で離婚に踏み切れない。そこでお前に頼もうと思ったわけだ」
 光藤の依頼に少しばかり興味を持った井森は、一瞬、返事をためらった。それを光藤は承諾したと勘違いしたようだ。井森の手をギュッと握り、
「頼むよ。妻の泰子を助けると思って」と言い、「一度、家の方へ来てくれ。できたら今晩にでも。待っているから」、そう言って席を立った。
光藤の奥さん、泰子のような例は少なくない。心労などによって悪霊に取り込まれ、おかしくなってしまう人は確かにいる。だが、家の外に出るとそうした兆候がまるで現れないという人は珍しい。
 泰子の演技なのではないか、それとも何か家に問題があるのだろうか。光藤も娘もどちらも霊障を受けていないというのも不思議だった。とにかく、一度、光藤の家を訪ねる必要があった。
 事務所に帰った井森は、たまった仕事をどうするか、思案した。そこで初めて、依頼を引き受けたことを後悔した。いや、正式に言えば引き受けたわけではない。返事をしそこなっただけだ。だが、今となっては後戻りすることはできない。光藤は今夜といったが、それはやめにしてもらい、明日の晩、お邪魔するということで了解してもらった。
 その日、徹夜して仕事を片付けた井森は、昼間、少し仮眠して、午後7時、光藤家を訪問した。
 光藤家は東大阪の石切という町にあった。地下鉄中央線、石切で下車した井森は、石切神社を右に見ながら静かな住宅街を5分ほど歩いたところで、迎えに来た光藤と出会った。
 「久しぶりだから迷っていないか、気になってね」
 光藤がそう言うのも無理はなかった。井森が光藤の家を訪問するのは十四年ぶりのことになる。娘が生まれたお祝いをしたいからといって光藤から連絡を受け、友人数名で駆けつけ、お祝いをしたことがあった。あの頃は奥さんも元気で二人の仲もよかった。
 光藤とは高校時代からの付き合いになる。二年の文化祭で演劇をすることになり、井森が演出、脚本に携わり、光藤が裏方をやった。二人の相性がよかったのか、舞台は成功し、多くの生徒から惜しみない称賛を受けた。それがきっかけになって光藤と親しく付き合うようになった。光藤は、製薬会社の重役の息子で昔から金には不自由をしていなかった。貧乏で、高校時代からアルバイトをしていた井森とは大違いだった。それもあって井森は、光藤には食事の面でずいぶん世話になってきた。それは社会人になってからも変わらなかった。
 父親の七光りが嫌で製薬会社へ入社しなかった光藤だが、結局、大学を出て三年後に父親の務める製薬会社に入り直した。
 三十歳の年に大学の同期だった泰子と結婚した。子どもがなかなか生まれず心配したが、五年目に誕生、あの頃の二人は周りもうらやむほどのオシドリ夫婦だった。
 ドアを開けて家の中に招き入れた光藤は、応接室へ井森を案内すると、コーヒーを入れてくれた。その時はまだ、奥さんも娘も応接室には現れていなかった。
 30分ほど光藤と話した。その間に井森はこの家の様子を探った。
 一階に応接室と広いキッチン、光藤の部屋がその奥にあった。もう一つある部屋は、今は荷物置き場と化していたが、元は仏壇を置いた、ご先祖様を飾る部屋だったらしい。
 仏壇は今、二階に置かれ、出入りすることが少なくなっているという。
 二階が泰子さんの寝室を兼ねた部屋、その隣にあるもう一つの部屋に仏壇が置かれている。その隣にロフトになった娘の部屋、残った一つの部屋は光藤と泰子さんの寝室だったが、今は使われていない。
 ベランダも広く、一階、二階にバストイレがあるのも羨ましい。井森の住む部屋とはえらい違いだった。
 庭はそう広くなかった。飼い猫も飼い犬もいないが、娘がインコを飼っている。建物はモダンな様式で、頑丈な造りになっていた。取り立てておかしなところは見あたらなかった。
 「どうだ?」
 光藤が聞いてきた。
 「今のところ、特に変わったところはなさそうだ」
 そう言っているところへ「ただいま」と声がして娘が帰ってきた。
 「いらっしゃいませ」
 応接室へ入ってきた娘は、井森の顔を見ると、瞳を輝かせて挨拶をした。
 「絵美、この人が極楽出版の井森編集長だ。井森さん、娘の絵美です」
光藤が娘を紹介した。井森も「今晩は。ずいぶん大きくなったね」と挨拶を返した。
 「絵美が生まれた時、この人たちがお祝いをしてくれたんだよ」
 光藤がそう言うと、娘の絵美は笑顔で「ありがとうございました」と井森に礼をした。明るくていい娘だと井森は思った。
 「絵美、お母さんを呼んで来てくれないか」
 二階に上がろうとする娘に光藤が言った。娘は少し困ったような顔をしたが、「はい」と言って二階に上がった。
 「いい娘さんじゃないか」
 光藤に言うと、光藤は照れくさそうな顔をして「まあな」と言って笑った。
 光藤の家に来て以来、特に異常を感じることはなかった。それで光藤に聞いた。
 「この家を建てる時、この土地はどうだった?」
 「中小企業の社長だった人の家が立っていた。旧い家だったがしっかりした建築だった。取り壊すのがもったいないと思いながら、この家を建てた時のことを思い出すよ」
 「その社長一家はどうしたんだい?」
 「倒産して夜逃げをしたようだ。おれたちが土地を買った時、すでに権利は他の人に移っていた。迷ったんだが、悪くない土地だったので購入して家を建てた。前の住人のことはそれ以上、何も聞かされていない」
 土地や家にまつわる因縁というものがある。それで時折、霊的な問題が起きる場合があると聞いたこともあった。しかし、二十年も何もなかったのだ。今になってそういった問題が起きるのはおかしい。
 その時、二階から足音がして光藤の奥さんが降りてきた。青白い顔と焦点の定まらない目、緩慢な動き、見るからに様子がおかしかった。
「どうも、突然お邪魔してすみません。お久しぶりです」
 井森はわざと明るい声で挨拶をした。だが、奥さんは、井森の顔をみても軽く会釈するだけで何も返して来ない。
 「泰子、極楽出版の井森さんだ。井森さんがわざわざお前に会いに来てくれたんだぞ」
 光藤が言っても同様だった。まるで蝋人形のように生命を感じない物体がそこに存在する、そんな気がした。
 明らかに何らかの形で霊の影響を受けている。泰子を見て、井森は直感した。
 うつ病といった精神面の病気ともまた違うようだ。やはりこの家の中に、泰子をそうさせるものがあるのだろう。
 泰子は、井森と顔を合わせただけで、「疲れていますので失礼いたします」と言い、そのまま再び二階に上がっていった。
 泰子の後ろ姿を見送りながら光藤が言った。
 「どうだ? 変だろ?」
 「明らかに霊の影響を受けている、そんな気がするよ。だが、どうしたものかな……」
 しばらく考えたが、何も思い浮かばななかった井森は、「明日、もう一度、お邪魔するよ」とだけ言って、帰り支度を始めた。すると、二階にいた娘の絵美が井森の側に走って来て、
 「おじちゃん、お母さんを助けて!」
 今にも泣き出しそうな瞳でそう言った。
 「大丈夫だよ。お母さんは必ずもとに戻るから安心しなさい」
 娘の絵美は少し安心したような表情を浮かべて光藤をみた。
 光藤の顔もまたやつれきっていた。精神的に参っている、それが顔の表情にしっかりと表れていた。
 
 翌日、井森は、石切の不動産会社へ行き、光藤が住む前の土地の所有者について尋ねた。
 旧い不動産会社だったが、その不動産会社が扱ったものではなかったのでわからなかということだった。では、その物件は、どこが管理しているのかと尋ねると、もしかしたら花崎不動産ではないかと、答えが返ってきた。
花崎不動産は、地下鉄石切の駅から南へ数メートル行った道路沿いの場所にあった。
 井森が訪ねると年輩の社員が対応した。光藤の土地のことを話すと、その社員はよく覚えていて、元は星野鉄鋼の社長さんの家だったと教えてくれた。
 星野鉄鋼は歴史もあり、仕事も盛大にやっていたが、設備投資が過ぎて、不況に陥った時、再生できず、倒産してしまったと、その社員は淡々と語った。
 「夜逃げをされたと聞いたのですが……」
 と尋ねると、社員は途端に難しい顔をして、
 「正確に言えば夜逃げではありません。社長の星野さんが自殺されて、後を追うようにして奥さんも自殺しました。残された息子や娘たち、三人いたのですが、その子どもたちはすでに独立して別に暮らしていましたから、家はそのまま債権者の抵当に渡り、売却されました。いい人だったんですけどね。二人とも……」
 その土地の担当者だったのだろうか、社員は懐かしそうな表情を浮かべて話を終えた。
 やはり、いわくがあったのか、というのが偽らざる井森の思いだった。光藤には言えないが、自殺者の出た物件は、時として霊現象が起こる場合がある。しかし、今まで何もなかったのにここへ来て、急に奥さんの泰子が霊に影響されたというのもおかしな話だ。亡くなった星野夫婦のことをもう少し調べてみる必要があると思い、井森は、光藤の近隣に古くから住む人たちに話を聞いてみることにした。
 「そりゃあもう、仲のいいご夫婦でしたねえ。いつも手をつないで買い物に出掛けたり、散歩したり、笑顔が絶えないご夫婦でした」
 「奥さんが散歩中に怪我をした時、ご主人が奥さんを背負って歩いているのを見かけたことがあります。あんな夫婦になれたら幸せだなあっていつも話していたんですよ」
 近隣の老人たちは口を揃えて二人の夫婦仲を誉めた。きっと偽りのない言葉なのだろう。ご主人の後を追って奥さんも自殺したと不動産会社の人にも聞いたが、二人の夫婦仲を象徴するような出来事だと思った。
 光藤の家を再訪問したのはその日の午後7時だった。
 井森は泰子が霊に影響される原因をずっと考えていた。今回の問題を解く鍵はそこにあると考えていたからだ。
 やがて井森は一つのことに思い当たった。それを確かめる意味もあって光藤の家を訪ねたのだ。
 「おう、すまないな。何度も」
 ドアを開けると、光藤はすまなさそうに井森に謝った。
 井森は応接間に入ると、すぐに光藤に尋ねた。
 「おまえの浮気がばれたのはいつ頃だった?」
 光藤は少し考えて、
 「一年前だったかな。付き合っていた美幸が泰子に電話をかけたことで浮気が発覚したから」と答えた。
 「それまでの二人の関係はどうだった?」
 「そうだなあ、まあ、おれたちは元々、仲がよかったんだ。喧嘩もしないし、かといって無関心だったわけでもない。休日はよく一緒に出掛けたし、二人で散歩もよくしたよ」
 「やはりな……」
 「やはりなってどういうことだよ?」
 「お前たち二人が愛人の件で不仲になってからじゃないか、奥さんがおかしな言動をするようになったのは」
 「そうかなあ……。とにかく、浮気が発覚するまではおれたちは仲がよかったし、泰子も変にはなっていなかったなあ」
 光藤の言葉を受けて井森は言った。
 「この家の前の持ち主について、おれなりに調べさせてもらった。星野さんという方だった。事業に失敗して夜逃げということだったが、実際はそうではなかった。自殺していたんだ。生前、星野ご夫婦はとても仲が良く、近所でも評判だった。だから、ご主人が自殺した後、奥さんも後追い自殺をしている」
 光藤は、少し驚いたような顔をして井森に尋ねた。
 「自殺か……。でも、今回の問題にそれが何の関わりがある」
 「おれは思ったんだ。あくまでも推測だから、ともかく話だけでも聞いてくれ」
 「わかった……」
 「自殺した霊は、自殺した場所に止まっている場合が多いと聞く。本当かどうかは別にして、おれは、星野さんご夫婦の霊がこの土地に止まっているのではないかと思ったんだ。
 年月から考えれば時間が経ちすぎているような気がするが、霊に時間は関係ない。安らかに眠れる状況を作れるかどうかだけが問題なんだ。
 おまえたち夫婦はこれまで仲良しだった。星野夫婦はそれを見て、自分たちを見ているような錯覚をし、満足していたと思う。そのままでいけば多分、ある時期を境に星野夫婦の霊は安らかに眠りについたことだろう。だが、お前が浮気をし、夫婦仲に亀裂を起こした。その亀裂が星野夫婦の霊に多分に影響したのではないかと思う。
 お前を憎む泰子の気持ちを諫めようと、星野夫婦の霊は考えたのではないかと思う。だが、霊というのは人の心とは違う。魂というものが存在しない霊は、星野夫婦の思惑とはちがい、泰子に邪悪な影響を与えてしまった。
家の中にいる時の泰子がおかしいというのも、一つにはそれが原因していたのではないかと思う。泰子は霊の影響を受けて精神的にかなり錯乱していたのだと思う。
 まあ、これはおれの推測でしかないから笑われても仕方がないが……」
 光藤は井森の話を聞きながらひどく落ち込んだ。
 「笑うなんてとんでもない。思い当たる節もあるし、とにかく今は何とか泰子を助け出したくて藁にもすがりたい気分なんだ。井森、助けてくれよ」
 光藤のすがるような視線に井森は決断した。
 「光藤、まず、星野夫婦の霊を弔おう。それには、泰子さんに手伝ってもらう必要がある。まず、こうするんだ。二人で庭に出て、手をつないで心を一つにしてお祈りをする。思うことは一つ、光藤は泰子さんの幸せを、泰子さんは光藤の幸せを祈るんだ。どちらかが異なったことを思えば、この作戦はうまくいかない。
 その後、コップ一杯の水を庭と空に蒔くんだ。そして、星野夫婦のご冥福を心から祈る。その時、忘れてはいけないことは、二人が心を一つにして祈ること。そうでなければ絶対成功しない」
 「だけど……。心を一つと言っても、今の泰子にそれができるだろうか。井森、おれは自信がない」
 「二階へ行って、泰子さんに謝るんだ。心から詫びるんだ。そして、女とは今は別れてもう関係がないということも正直に言え。決していい格好はしないこと。許してくれるまであきらめないで何度でも詫びろ。それが泰子さんを救う唯一の方法だと信じて」
 井森の言葉を受けて、光藤は足を引きずるようにして二階への階段を昇った。
 1時間、2時間。それでも光藤は降りて来なかった。3時間目に入ろうとした時、階段を下りる足音が響いた。光藤が泰子の手を引っ張り、もう片方の泰子の手を娘の絵美がつないでいた。
 泰子はもちろん正気ではない。だが、明らかにこれまでと違うのは、泰子の正気を失った瞳がじっと光藤を見ていることだった。
 三人は庭へ出た。庭へ出たところで娘の絵美が退いた。泰子への説得に絵美の力が作用したことは明らかだった。
 光藤と正気を失ったままの泰子が手をつないで祈る。そこまではよかった。心配だったのは、泰子が光藤の幸せを祈れるかどうかということだった。
 光藤は小さな声で「泰子が幸せで平穏な毎日が送れますように」と祈ったとほぼ同時に、泰子の口から「智史さん(光藤の下の名前)が幸せで平穏な毎日が送れますように」の言葉が洩れた。
 計画はしていたものの、一番危惧するところだったから井森は驚いた。
続いて、コップ一杯の水を土に蒔き、空に撒いた。この頃から少しだが、泰子の表情も動きも変わって来た。
 そして最後に星野夫婦の冥福を二人が祈った。
 その瞬間時、一瞬、庭が光ったような気がした。そして空も同時に光った。
 光りとともに泰子が倒れ、光藤と絵美があわてて助け起こした。
それを見届けて、井森は帰途に就いた。
 井森の考えた方法が正しかったのかどうか、それはわからない。だが、そのことを信じるしか術がなかった。
 翌日、早朝のことだ。会社へ出ると、9時少し前だというのに電話があった。
 「はい、極楽出版ですが」
 「井森編集長様ですか……」
 か細い声がして思わず聞き直した。
 「すみません、声が小さいようですが」
 すると、「私、光藤の家内です」と少し大きくなった声が聞こえた。
 「泰子さん……ですか?」
 「はい、そうです。このたびは本当にありがとうございました。井森編集長には感謝しています。取り急ぎお礼までと思って電話を差し上げました」
井森は恐縮しながら電話を切った。
 1時間ほどして光藤から電話があった。
 「泰子から電話があっただろう。おかげで仲直りできたよ。おまえのおかげだ。ありがとう。これからは泰子のこと、もっと大切にしていくよ」
 泰子と光藤、二人の電話を聞いて、井森も少しほっとした。悪い話を聞くよりもいい話を聞いたほうが幸せな気分になれる。そう思いながら井森は再び仕事に励んだ。
〈了〉

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