お米さんとギャング

高瀬甚太

 お母さんが亡くなってからというもの、お米さんにいつもの元気がない。えびす亭にやって来ても肩を落とし、誰とも話をしないで一人物静かに酒を呑(の)んでいる。
 「声をかけにくいことこの上ないよ」
 お米さんと仲のいい浜子さんさえそう言っているのだから相当、重症なのだろう。
 えびす亭の客たちがお米さんのことを心配して気を使っていることは、客たちの様子を見ていてもよくわかる。マスターにしてもそうなのだからお米さんの人柄が偲ばれるというものだ。
 でも、お米さんとは逆に店のみんなに毛嫌いされて敬遠されている客もいる。
 ギャングと呼ばれてみんなから嫌われている島俊彦がそうだ。
 そのギャングがえびす亭に顔を出すようになって半年近くになる。ギャングと噂されるぐらいの男だから見るからに悪人面で、おまけに性格もこれ以上ない性悪と来ている。どれほど性悪かと言うと、とにかく陰険極まりないのだ。口を開けば悪口雑言、店に来る客たちを馬鹿にして上から目線の話し方をする。それに輪をかけて相手を探るような疑い深い目、ひん曲がった口、背が高いから人を見下ろす癖がついている。こんな奴、来なければいいのにと、マスター始め常連のみんなが秘かに思っているのだが、こういう人間に限って毎日のように顔を出す。
 ギャングがやって来ると、店が混んでいようが空いていようが、マスターはギャングを一番奥のカウンターに立たせる。客の多くがギャングと隣り合わせになることを嫌がっているからだ。店で問題を起こすような客であれば、すぐにでも出入り禁止にできるのだが、そこまで行かないから性質が悪い。しかも結構、金を落としてくれる。一人当たりの客単価が千円前後のえびす亭にあって、ギャングはいつも二千円前後の金を使ってくれる。性格さえもう少し良ければいいのになあ、というのがマスターの感想だ。
 客の誰とも口を利かず、黙々と酒を呑んでいるお米さんをみかねて、浜子が言った。
 「お米さん、大丈夫か? あんた、近頃、元気ないで。お母ちゃんが亡くなって寂しいと思うけど、あんたかて、まだ三三歳や。ええ男見つけてハッピーにならなあかんで」
 同年代の浜子はお米と仲がいい。浜子はお米のことが気になって仕方がないのだ。
 だが、浜子の励ましにもお米さんは「……はい」と小さく返事するだけで覇気がない。お母さんを失くしたお米さんのショックは、人には計り知れないものがあったようだ。
 
 お米さんは北区の南森町で『米』という小さな喫茶店を経営している。天神橋筋商店街から少し外れた場所にあるので場所的にはどうかと思うのだが、客の入りは悪くないようだ。客のほとんどはお米さんの淹れるコーヒーを目当てにやって来る。少し酸味の強いブラジル産のコーヒー豆をうまい具合にブレンドして使っているのだが、それが舌に心地良いと評判で、『米』のコーヒーを口にすると他の店のコーヒーは飲めない。それが訪れる客たちの一致した声だった。
 『米』は、お米さんのお母さんが一九八一年に開業した店で、夫に先立たれたお米さんのお母さんが、生まれてくるお米さんを養うためにつくったものだ。喫茶店の知識や商売の心得などまったく持たないまま始めたのだが、お米さんのお母さんの人柄と客をもてなす温かさが幸いして、地域の客が頻繁に訪れるようになった。
 お米さんは短大を卒業した後、本町に本社のある会社に勤務していたが、お母さんが体調を崩し、入院したのを機に会社を退職し、喫茶店を手伝うようになった。お母さんの人柄と細やかな愛情をそのまま引き継いだようなお米さんに客たちも安心し、お母さんが店に立たなくなってからも、誰一人として店から客が去ることはなかった。
 お米さんは十代の頃に一度、二十歳過ぎに一度、恋をしたことがあるが、どちらも相手の男が優柔不断であったため、結婚には至らなかった。お米さんは気の弱い大人しい性格だったから、引っ張ってくれる強い男を望んでいた。
 『米』は午前7時に開店して午後6時に店じまいをする。カウンターだけの小さな店で、従業員がいるわけではないから一人でも充分やって行ける。
お母さんが病気になってからは、午後6時に店仕舞いをした後、お米さんは病院へお母さんの介護に出かける。介護を終えて病院を出るのが午後9時、そのまま家に帰るのもどうかと思い、店内の賑やかさにつられてふと立ち寄ったのがえびす亭だった。立ち呑みの店に入るなど初めてのことだったが、おでんのいい匂いが鼻をつき、我慢できなくなったお米さんは、その日の夜、思い切ってガラス戸を開け、立ち並ぶ男たちの間をかきわけるようにしてカウンターに立った。
 ビールの小瓶とおでん盛りを注文したお米さんは、一息でビールを呑み干すと、安堵の吐息を洩らした。お米さんにとってえびす亭は、懐かしく安心できる場所のように思えた。その夜、以来、お米さんは母の介護で病院を訪れた帰り、必ずといっていいほど、えびす亭に顔を覗かせるようになった。
お母さんが亡くなったのはつい一カ月前のことだ。医師から余命いくばくもないことを知らされていたお米さんは、その死を覚悟していたが、それでも臨終の間際、
 「お母さん、死なんといて。私を一人にせんといて!」
 と、大声を上げて母の亡骸にしがみついて泣いた。
 それ以来、お米さんはすっかり元気が失せて、喫茶店など閉じてしまおうかと思ったぐらい、激しく落ち込んだ。
 病院へ通わなくなり、しばらく放心状態だったお米さんだったが、母の死から数週間後、一段落したところで再びえびす亭に通いはじめた。
 浜子とは、えびす亭で隣同士になったことで知り合った。同年代という親近感もあったが、面倒見のいい姉御肌の浜子は、何くれとなくお米さんに話しかけ、世話をした。それとは対照的に大人しく口数が少なかったお米さんは、店でも客たちとはほとんど口を利かず、一人黙りこくって酒を呑んでいる。そんなお米さんをみかねて、浜子さんが他の客たちにお米さんを紹介し、お米さんは浜子を通じて客たちと話すようになった。
 大人しい性格のお米さんだったが、性格そのものは決して暗くはなかった。えびす亭でも、温和で明るい対応をしていたので常連客たちの人気は高かった。中には本気で結婚を申し込む男までいたが、二度の恋愛で男に失望していたお米さんは、いつもやんわりいなして断っていた。
 
 「わたし、あいつ嫌やねん。大っ嫌い」
 ギャングが店へやって来るたびに浜子は顔をしかめてお米さんに耳打ちをする。好き嫌いの激しい浜子だったが、これほど露骨に感情を露わにすることは珍しかった。
 浜子の険しい表情を見て、相当、ひどい人なのだろうと思いながらお米さんはギャングを見た。背の高い男だった。自信満々の様子で、少しも卑屈なところがない。それどころか、えびす亭の客のみんなを見下ろしているような高慢ちきなところが見受けられた。この人は一体、どんな職業の人なのか、お米は少し興味を持った。
 お米さんは母を失ったショックから一か月を経てもなお抜けきれず、日がなぼんやりと過ごすことが多かった。それでもようやくのこと、店の営業が始められるようになり、少しは食欲も湧いてきたところだった。
 店が混んできたのと、入れ替わりに数人の客が去ったこともあり、新しく入ってくる客が入りやすいようにと、お米さんと浜子がカウンターの席を奥の方へ詰めた。詰めた途端、浜子が「ゲッ」と声を上げた。浜子の隣にギャングがいたからだ。
 「浜ちゃん、場所変わろう」
 お米さんは、浜子のことを思って場所を変わり、ギャングの隣に立った。
 「お米さん、うち、今日、もう帰るわ。なんやしらん気分が悪うなった」
し ばらくして浜子は、お米に耳打ちすると、さっさと店を出た。浜子はよほどギャングが嫌いなようだ。
 お米さんもグラスに残っているビールと、皿に盛られたおでんを片づけたら店を出るつもりでいた。そう思っていると、頭上からガラガラ声が聞こえてきた。
 「お米さん、一杯どないや?」
 人に酒を注ぐことなど滅多にないギャングがお米さんにビールを注ごうとしていた。それを見て、マスターもえびす亭の常連たちも目を丸くした。しかもギャングはお米さんの名前を知っていた。
 お米さんは断るわけにもいかず、残っているビールを飲み干すと、ギャングの注ぐビールをありがたく頂戴した。
 「俺、島俊彦言うねん」
 ギャングがボソッと言った。お米さんはその時初めてギャングの名前を知った。
 「私、橋場米と言います。古臭い名前でしょ」
 口が悪いと聞いていたので、お米さんは言われる前にと思って自虐的に言った。
 「いや、ええ名前や」
 ギャングが口をひん曲げながら、顔を赤らめて言うのでお米さんは少し驚いた。
 「私、南森町で喫茶店をやっているんですけど……」
 「知ってる」
 「えっ――?」
 「商店街の外れの『米』やろ。知ってる」
 お米さんはギャングが自分の店を知っていることに驚いた。
 「いらっしゃったことがありました?」
 「ない。店の前まで行ったけど、よう入らへんかった」
 「店の前まで来てくださったんですか?」
 「ああ、店の前まで行ったけど、入るのやめた」
 「どうしてですか。小さい店ですけど、コーヒーぐらい飲んで行ってくださったらよかったのに……」
 「入りたかったけどやめたんや」
 お米さんは頭が混乱してきた。店に入りたいのにやめた、とはどういうことなのか。
 「島さんに入っていただけるような立派な店ではありませんけど、コーヒーだけは美味しいってみなさん、言ってくださるんですよ」
 「飲みたかった……。何べんも店の前まで行ったけど、入られへんかったんや」
 「……?」
 「お米さんの前でコーヒーを飲むのが、俺、恥ずかしかったんや」
 「えっ……?」
 この人は何を言っているのだろう。お米さんは思わずギャングを見上げた。
 「ここにいる奴ら、みんなアホやけど、お米さんだけは別や」
 悪相を顔いっぱいに漂わせて、口をひん曲げ、太い眉を真ん中に集めるようにしてギャングは思い切り憎たらしい表情をして見せた。その顔を見て、お米さんは思わず笑ってしまった。お米さんの笑いはしばらく止まらなかった。それを見て、えびす亭のマスターや客たちが驚きながらお米さんを見た。お母さんが亡くなって以来、初めて見るお米さんの笑顔だったからだ。
 
 その翌日のことだ。午前7時に店を開店させ、お米さんが最初のコーヒーを淹れようとした時、表に人の気配がしたので覗いてみた。表にいたのは黒いスーツに黒いネクタイを締めたギャングだった。
 「島さん、おはよう。どうぞ入ってください。すぐに美味しいコーヒーをお淹れしますから」
 お米さんがドアを開けると、ギャングは、少々照れくさそうにして、でも尊大な態度は崩さずに店内に入り、カウンターにどっかと腰を下ろした。
 「今日はお仕事、お休みですか?」
 コーヒーをカップに注ぎながらお米さんが問いかけると、ギャングは、
 「朝の仕事は終わった」
 とつっけんどんに言う。
 「えっ、まだ午前7時過ぎですよ。もうお仕事終わったんですか?」
 「午後にもう一度回るけど、それまでゆっくりする」
 ギャングの話し方はまるで愛想がない。人を寄せ付けないような話しぶりが災いして、高慢にみられたり、嫌われたりするのではとお米さんは思った。
 誤解されやすい人なんだろうな、ギャングと話して、お米さんはそんな感想を持った。
 ギャングはコーヒーをいかにも美味しそうに口にし、飲み終えたところで勘定を払い、店を出た。
 「島さん、また来てくださいね」
 店から出て行こうとするギャングにお米さんが声をかけると、ギャングは背中を向けたまま、
 「来る。明日も来る」
 ボソッと言い残して店から去った。
 ギャングの後姿を眺めながら、お米さんは、ギャングがどんな仕事をしているのだろうかと、ますます興味を持った。
 その日、お米さんはえびす亭に行くことができなかった。遠い親戚が母の死をどこかで聞いたらしく、和歌山の串本からわざわざ仏前のお詣りにやって来てくれることになっていた。店を午後6時までやっていると言うと、親戚は午後7時に伺うと連絡してきた。
 親戚がやって来て、話を聞いているうちに午後9時を過ぎてしまった。親戚を駅まで送ったところで、えびす亭に行こうかしら――、とも考えたが、結局、その日は行かずに家で過ごした。
 よく朝、開店の準備をしていると、表にギャングが立っていた。急いでドアを開け、
 「今日は早いのね。どうぞ入って」
 と声をかけると、ギャングは一瞬、何か言いたそうな顔をしてお米さんを見たが、結局、何も言わずに店の中に入ってきた。
 その日もギャングは美味しそうにコーヒーを飲み、ボソッと「おおきに」とだけ言って、店を出た。
 午後5時半過ぎになって客が途絶えたところでお米さんは店を閉めた。いつもより30分早い時間だったが、お米さんはその日、人と会う約束をしていた。
 午後6時半に大阪駅の構内にあるホテルのロビーに行くと、待ち合わせの相手である飯村忠彦はすでに来ていた。
 「すみません。遅くなりまして」
 お米さんが急いで駆け付け、時間に遅れたことを詫びると、
 「いえ、私の方が早く来すぎてしまって――」
 と飯村は恐縮して言った。
 ホテル内の喫茶店に入り、空いている席に腰を下ろすと、飯村は、
 「本日はどうも突然お呼び立てして申し訳ありません」
 丁寧に詫びて深々とお米さんに礼をした。
 お米さんは複雑な思いで飯村を見つめていた。
 
 ――今日の午前11時を過ぎた頃のことだ。お米さんの携帯電話に着信があった。電話に出ると男性の声がした。
 「橋場さんですか。ご無沙汰しています。飯村忠彦です」
お米 さんはその声を聞いて、思わず電話を落としそうになった。
 「お元気でしたか?」
 「はい――、でも、どうして飯村さんが」
 お米さんはそれだけ言って絶句した。飯村はお米さんが会社に勤めている頃、交際していた会社の同僚だ。
 「お忙しいところ申し訳ありませんが、今日、お時間を取っていただくことはできませんか?」
 相変わらず丁寧な話し方だと思った。常に人の心に気を配り、相手が気を悪くしないように心がける。そんなところは少しも変わっていなかった――。
 
 目の前の飯村は昔と変わりないように思えた。一分の隙もないほどの服の着こなし、喋り方にもそつがなかった。
 「橋場さん、私、今度、ニューヨークに責任者として転勤することになりました。多分、長期に亘ると思います。一週間ほどしたら日本を旅立ちますが、橋場さんさえよければ、一緒に来てもらえないか、と思いまして……」
お米さんは短大を出てすぐにステンドグラスを扱う大手商社に就職した。営業事務担当となったお米さんは、そこで飯村と知り合った。飯村はお米さんより三歳上で、やさしい男だった。飯村から交際を申し込まれたお米さんはそのやさしさにほだされて付き合うようになった。三年ほど交際した。だが、その間、飯村の口から結婚と言う言葉は一度も出て来なかった。飯村のやさしさは、優柔不断さと隣り合わせで、お米さんの望んだやさしさとは少し違っていた。ちょうどその頃、母が病で倒れた。それを機にお米さんは会社を退職し、飯村との仲もそれっきりになってしまった。
 その飯村が七年も経った今頃になって、突然、プロポーズをしてきたことにお米さんは驚きを隠せなかった。飯村なりの理由があったのだろうとは思ったが、飯村の告白を聞いてもお米さんの心には響いてくるものは何もなかった。そのことをお米さんは不思議に思った。
 飯村はお米さんが心底愛した男だった。何度か旅をし、一緒に休暇を過ごしたこともあった。しかし、飯村を愛しながらも、当時からお米さんは、飯村の優柔不断な態度、常に周囲を気にするそぶりが気になって仕方がなかった。
 飯村の告白はあまりにも淡々として、教科書を読んでいるような味気無さがあった。それが飯村の性格なのだろうとは思ったが、伝わってくる切実なものは何もなく、感動は薄かった。一応、お米さんは飯村に、
「一日、時間をください。明日、お返事します」
 と伝えて、飯村と別れた。別れたその足で電車に乗り、お米さんはえびす亭に向かった。えびす亭は、大阪駅から三つ目の駅にあった。
 「いらっしゃい!」
 マスターの声に迎えられて店の中に入ると、奥の狭まった場所にギャングが一人、高慢な態度で呑んでいるのが見えた。
 「お米さん、こっちこっち」
浜子 が手招きして誘ったが、お米さんは軽く手を振って、そのまま奥へ向かった。
 ギャングのそばにお米さんが立つと、高慢で鼻持ちならない態度で呑んでいたギャングの相好が崩れた。
 「お米さん、ビール飲むか」
 ボソッとした声でギャングが言い、冷えたコップになみなみとビールを注いだ。
 お米を見守っていた浜子はそれを見て、開いた口がふさがらないほど驚いた。それはマスターも、店の客すべてがそうだった。
 「今日も来ないのかと思った」
 ギャングはそれが癖なのか、いつもの調子でボソッと言った。
 「寂しかった?」
 お米さんがギャングの顔を見上げながら笑顔で聞くと、ギャングは困った顔をして、
 「寂しかった」
 と小さな声で言った。
 お米さんは笑った。すると、ギャングも笑った。笑う二人を見て、浜子も思わず笑ってしまった。高慢ちきで悪相をしたギャングの笑い顔があまりにもおかしかったからだ。それは店の客すべてに伝播して、えびす亭は一瞬間、笑い声に包まれた。
 「島さんはどんな仕事をしているの?」
 お米さんがお皿に盛られたおでん盛りの中からハンペンを選んで口にしながら尋ねると、ギャングは、しっかりした声で、
 「ゴミ屋」
 と言った。
 「ゴミ屋?」
 お米さんは思わず聞き直した。
 
 ギャングは、朝と夕方、ゴミを収拾する仕事をしていた。自分で車を持ち、市に登録して、決められたコースを毎朝、毎夕、街を駆け巡る。仕事中は汚れた服を着ているが、仕事から離れるとスーツを着て、きれいな恰好をするのは、ギャングにとって一種の見栄だった。
 見るからに悪人面で、ひん曲がった口で喋るものだから、どこの会社でも面接で即アウトになった。友人もできにくく、これまでの人生の大半をギャングは一人で過ごしてきた。ギャングはすでに四十歳になっていた。
 ゴミを収拾する仕事は、ギャングが初めて出会ったやりがいのある仕事だった。街を俺がきれいにするんだ。そんな自負を持って働いていた。
 ギャングがえびす亭に来るようになったのには理由があった。初めてこの店にやって来た時、カウンターで呑んでいるお米さんを見かけ、一目ぼれをしてしまったのだ。ずいぶん後になってギャングはそのことをお米さんに白状した。
 一人で過ごすことの多かったギャングは自然に心が陰険になり、他人に受け入れられない歯がゆさから高慢になり、他人に対して横柄な態度を示すようになった。
 そんな嫌われ者のギャングだったが、お米さんが初めて隣に立った時だけは打って変わって素直になった。何とか話したい、仲よくなりたいと思っていたが、それをうまく表現する術がギャングにはなかった。
 
 お米さんが飯村のプロポーズを断った話は、いつの間にかえびす亭全員の耳に入っていた。浜子がその話をえびす亭で喋っていたのだ。
 「大手商社のエリート社員、うちやったら、ホイホイついて行くわ。お米さんたらホンマに勿体ないことする」
 浜子はそう言ってお米を攻めたが、お米は笑って、
 「ええねん。うち、もっとええ人見つけたから」
 と答え、「それ誰やの?」と執拗に聞いてくる浜子を煙に巻いた。
いつもより遅く入ってきたギャングが、いつもの高慢なしぐさで奥の指定位置に向かった。それを見たお米さんもまた奥のカウンターに向かった。
 お米さんがそばに立つのを見届けると、ギャングの顔が打って変わって柔和になった。
 「お米さん、ビール飲むか?」
 ギャングがお米さんの冷えたグラスにビールを注ぎ込むと、お米さんはそのグラスを持って、ギャングに尋ねた。
 「私と一緒に呑んでいて楽しい?」
 ギャングは相好を崩し、顔を赤らめながら、
 「楽しい。めっちゃ楽しい」
 ボソッと言った。
〈了〉

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