ペコペコ兵さんの真実

高瀬 甚太

 「あれはちょっと行き過ぎやね。あそこまでやられると嫌味に感じるよ」
 場末の立ち飲み屋「えびす亭」で酒を呑んでいた、土建屋の浜さんが憤慨して言うのも無理はなかった。高橋兵吉、通称、ペコペコ兵さんの平身低頭ぶりは異常なほどで、たとえば、人にぶつかったとする、普通は、「ごめんなさい」で頭の一つも下げれば収まるものを、兵さんは「すんまへん。悪かった。ごめんなさい」を連発して、おまけに頭をペコペコ、何度も下げる。そこまでされると、馬鹿にしているのか、と逆に相手を怒らせてしまう。すると兵さんはまたペコペコ、頭を何度も下げる。
 兵さんは五十代半ばで細身だが、背が高く、逞しい体格をしている。中央市場で八百屋をしていて、新鮮でいい品が揃っていると評判の店だ。八百屋を始めたのは十年ほど前で、それ以前のことは不明で、あまり語りたがらない。
 しかし、野菜の知識だけは豊富で、噂では、北海道で農家をしていたという話も聞くが定かではない。見るからに弱々しい人がペコペコするならわからないこともないが、兵さんのように背も高く、見かけもしっかりした五十代の男が、やたらペコペコする図は、卑屈に思えて人に好ましい印象を与えない。
 兵さんがえびす亭にやって来るのは、午後六時台、早朝の仕事なので、十時には床に就くという兵さんは、いつも午後六時過ぎにやって来て一時間ほどで帰る。その間、焼酎をグラスで三杯、マグロの造りと枝豆、おでんを二、三個食べる。酒は相当強そうで、兵さんが酔っぱらっているところなど見たことがない。
 えびす亭の特徴の一つに、客同士が仲良く談笑する、というのがあるが、兵さんは人の話は聞くが、自分のことになるとあまり喋りたがらない。隣の客に話しかけられると、笑顔で相槌を打つ。しかし、客に「どない思いまっか?」と尋ねられても、兵さんは一切答えない。答えずにごまかしてしまう。自分のことを話さないばかりか、自分の気持ちも表に出さないのが兵さんだった。
 客が話している途中でも、兵さんは時間が来ると、
 「すんまへん。私、明日早いんで今日はこれで失礼させてもらいます」
 と丁寧に詫び、頭をペコペコ下げて店を出る。
 「それにしても頭の低い人やなあ」
 兵さんを見送りながら、大抵の人がそう言って兵さんのことを言う。いかにも商売人らしく、見るからに愛想よく笑顔を振りまきながらペコペコする人もいるが、そうした人とは一線を画するものが兵さんにはあった。
 毎朝、中央市場へ仕入れに行くという、中華料理店の大将、定やんという人物が、ある時、えびす亭に来て、兵さんのことを話したことがある。
 「兵さんの野菜の知識はすごいよ。うちは十年来、兵さんとこの野菜しか使っていないが、あの知識は普通やない。まるで野菜の学者みたいやねん」
 定やんが驚くのも無理はなかった。兵さんは仕入れに来た人たちに、時によって野菜の薀蓄を語り、産地の特性を語り、栄養やカロリーについても詳しく話して聞かせた。ただ、その場合も、聞かれて初めて答えるわけで、聞かれなければ何も言わない。兵さんは、自慢したり、知識をひけらかすような人ではなかった。
 ある時、マスターが兵さんに質問をしたことがある。
 「兵さん、大根の原産地は日本でっか?」
 すると、普段は店でも寡黙な兵さんが、流暢に説明し始めたのでみんな驚いた。
 「大根の原産地は地中海地方、中東です。日本には弥生時代に伝わって、江戸時代には、江戸近郊の板橋や練馬、浦和、三浦半島などが特産地となり、特にその中でも、練馬大根が有名でした。世界一大きくて重たいのが桜島大根、世界一長い大根が守口大根で、栄養分で言いますと、大根の葉には、ビタミンAが多く含まれていて、大根の汁にはビタミンCやジアスターゼが多く含まれています。大根には、消化酵素を持ち、出血防止作用や解毒作用があることでもよく知られています」
 話し始めたら止まらない。マスターも含め、聞く者はみな呆気に取られている。
 やがて喋りすぎたことに気が付いた兵さんは、
 「あっ……、すみません。喋りすぎて」
 と言って、マスターに頭をペコペコ下げる。
 「いえいえ、それにしても兵さんはよう知ってまんなあ」
 マスターが感心して言うと、兵さんは、頭をペコペコ下げて、
 「とんでもないです」
 を繰り返して、再び頭をペコペコ下げる。マスターも客の多くも、そんな兵さんを見て、一体、この人はどういった人生を過ごしてきた人なんだろう、と誰もが思った。
 
 季節が移り変わり、それと共にえびす亭の客の一部が入れ替わる。転勤や引っ越しでこの地を去る者もおれば、新しくこの地にやって来て、えびす亭の客になる者もいた。また、えびす亭を離れて別の店の常連になる者もおれば、別の店の常連からえびす亭の常連になる者もいた。
 札幌から単身赴任で大阪へやって来た、清水源一郎という人物がいた。えびす亭に来はじめてまだ日が浅かったが、えびす亭が気に入ったらしく、毎日のように顔を出していた。
 「この年になって住み慣れた札幌から大阪へ来るとは思ってもみなかったですよ」
 清水さんはえびす亭にやって来ると、酒を呑むたびにそんなふうにぼやいた。
 外資系の保険会社の札幌支店の課長だったが、成績が認められて、大阪へ転勤になったという。年齢は五十代半ばだったから、定年まで残すところわずか、札幌で家を購入したばかりということもあって、妻と娘を残して単身赴任したのだと、いつも侘しげな表情で語っていた。
 清水さんがやって来るのは午後八時台、兵さんは七時ぐらいに帰るから顔を合わせたことがなかったが、ある時、珍しく早い時間に清水さんがやって来て、兵さんと遭遇した。
 「高橋さん! 高橋さんじゃないですか」
 午後六時半、店に現れた清水さんが、カウンターで呑んでいた兵さんを見つけて大声を上げた。
 驚いたのは兵さんだ。清水さんを見て、思わず顔を伏せた。
 「やっぱり高橋さんだ。こんなところで会えるなんて、いやあ、奇遇です」
 兵さんは何も言わず、じっと黙って焼酎グラスを傾けている。
 「何年ぶりですかねえ……。懐かしいなあ」
 兵さんの隣に立った清水さんは、ビールを注文すると、マジマジと兵さんを見つめた。
 「大阪へ来ておられたんですね。高橋さんが札幌を出てもう十年以上になりますかね。いやあ、元気そうでよかった。その節は本当にお世話になりました」
 饒舌に語る清水さんを後目に、兵さんは何も語らない。そのうち、兵さんは、
 「マスター、すみません。お愛想お願いします」
 と言って金を払うと、なおも語りかける清水さんに、ペコリと一つ、頭を下げて、さっさと店を出て行った。
 ポカンとした顔をして兵さんを見送る清水さんにマスターが話しかけた。
 「清水さん、兵さんを知っているんですか?」
 清水さんは、当然といった顔をして答えた。
 「高橋さんは私の恩人のような人ですから……」
 「恩人でっか?」
 「そうなんです。高橋さんは私にとって恩人です」
 清水さんは、マスターに兵さんとのいきさつを話して聞かせた。

 ――札幌の外資系の保険会社で働いていた私は、ある時、高額な保険を掛けられた女性が交通事故で亡くなり、その女性の愛人である受取人の田端靖男という男に支払いを迫られておりました。会社が支払いを保留していたのは、女性の死に疑問が生じたからで、交通事故で即死ではあったものの、ひき逃げであったことと、犯人が逃亡していること、受取人が元暴力団組員であることなどが理由で、もしかすると保険金詐欺ではないかという疑いが出て、ひそかに調査をしていました。
 しかし、受取人の田端は納得しませんでした。早く払えと矢のような催促が来て、そのたびに担当者だった私は田端に執拗な脅しを受けていました。警察もひき逃げ犯人を逮捕するために捜査していましたが、一カ月経っても犯人逮捕には至らず、どうしようもなくなった時、助けてくれたのが高橋さんでした。
 その頃、高橋さんは札幌で弁護士をしていました。とても面倒見のいい人だと聞いていまして、私もそれまでに何度か会ったことがありましたので、相談に伺いました。
 どうやって納得させたのかわかりませんでしたが、しばらくして、田端が警察へ自首し、愛人を車で轢き殺したことを自供したことを知りました。警察に拘留され、刑が確定したことで保険金の支払いをストップさせることができました。
 高橋さんが札幌から姿を消したのはそれから間もなくのことです。どんな事情があったかわかりませんでしたが、噂では、粗暴な男を戒めようとして喧嘩になり、相手を死なせてしまい、逃亡したと、まことしやかに語られていました――。

 「兵さんは弁護士だったんでっかァ」
 マスターが驚くのも無理はなかった。今の兵さんには弁護士の面影など微塵もない。八百屋のおっちゃん、そういったイメージがすっかり定着していた。マスターが、
 「清水さん、兵さんは今、八百屋の大将ですよ」
 と話すと、清水は腰を抜かさんばかりに驚いた。
 「あんな頭の切れる弁護士さんがなんで八百屋を……」
 八百屋の仕事をけなすわけではなかったが、清水には過去の仕事と現在の仕事のギャップの差が信じられなかった。
 「高橋さんには美人で評判の若い奥さんと子供が二人いたんですけど、今も一緒に暮らしているんでしょうか」
 清水の質問に答えられる者は誰もいなかった。兵さんの私生活を覗いたものや聞いたものは誰もいない。兵さんは自分のことを話したことが一度もなかったからだ。ただ、わかっていることは、中央市場で八百屋をやって野菜を売っているということだけだった。
 
 しばらく兵さんはえびす亭に顔を見せなかった。清水は、店に来るたびに、
「高橋さんは来ていませんか?」
と聞いた。兵さんのことが心配でならなかったのだ。
 ある時、その清水が札幌の自宅へ休暇を利用して帰ることになった。彼はその休暇を利用して、兵さんがなぜ、弁護士を辞めて大阪へ来なければならなかったのか、調べてくるとマスターに約束をした。
 「繁盛していた弁護士事務所を閉じて弁護士の仕事までやめて大阪へ来たからには、きっと何かのっぴきならない理由があったと思うんです。それを調べてきます。そして、私にできることがあれば、高橋さんの力になりたい。そう思っています」

 四日後、清水がえびす亭にやってきた。待ちかねていたマスターが清水に聞いた。
 「清水さん、どないでした? 何かわかりましたか」
 清水はビールを一本注文すると、マスターの質問には答えず、
 「高橋さんにどうしても伝えたいことがあります。最近、店に来ていますか?」
 と逆にマスターに聞いた。
 「それが全然、来てはりまへんのや」
 「そうですか……。高橋さんのやられている八百屋の場所、わかりますか?」
 「わかりまっけど……」
 「教えていただけますか」
 マスターは、兵さんの八百屋のある中央市場へのアクセスを紙に書いて清水に手渡した。
 清水は、それをポケットに入れると、
 「明日にでも訪ねてみます」
 とマスターに言い、その日はそれ以上、何も話さずに帰った。
 
 えびす亭に来る客には、いわくつきの客もたまにはいる。安くて入り易い立ち呑みの店だ。どんな客が来てもおかしくない。いいやつも悪いやつも、えびす亭の中ではそんなことなど関係ない。楽しく酒を呑めればそれでいい。えびす亭はそんな店だった。
 一期一会といいながらも、中には気になる客がいる。過去に何かあったのだろう。そんなことを感じさせる客がいて、そんな時、マスターは、その客の背中に陰を見る。
 消しようのない陰を背負って、えびす亭で酒を呑む、そんな客の一人が兵さんだった。必要以上に寡黙で、不必要なほどに人にペコペコする。実直で逞しい背中を見たら、卑屈なほどにペコペコする理由など何も見当たらない。だからマスターはいつも不思議に思ってきた。
 二日後清水がやって来た。清水はビールを注文すると、一気に呑んでマスターに話した。
 「マスター、高橋さんの店に行ってきました。彼は私が訪ねてくるだろうことを予測していたようで、店に顔を出すと、やっぱり来たか、と笑顔を見せてくれました」
 喧騒としたえびす亭の中で、マスターは、客の注文に忙しく対応しながら、清水の話に耳を傾けた。
 「高橋さんに言いました。十年少し前、高橋さんが起こした事件の顛末を知っていますか、と。すると、高橋さんは、じっと黙って私を見て、首を振りました」
 
 ――事件。それは、十年少し前のことだ。兵さんの弁護士事務所に殴り込んできた原田という若い男がいた。清水の一件で、警察に自首させた田端の元舎弟で、田端を実の兄貴のように慕っていた原田が、逆恨みをして、兵さんを襲ったのだ。
 兵さんは、事務所にやって来た原田に説明をしようとした。田端が自首したのは、本人の意志であることを。撥ねた車の車種が割り出され、警察の追跡調査の末、田端が逮捕されることは時間の問題だった。そのことを知った兵さんは、田端を諭し、自首を勧めた。田端は最初、兵さんの説得に応じなかった。しかし、殺された愛人が田端を愛し、田端のために多額の貯金をしていたことを知らせると、頑なだった田端の心に動揺が走った。
 また、兵さんは、愛人が殺されるかも知れないと覚悟していたことを告げ、遺書が残されていたことを教えると、田端はさらに動揺した。田端は、愛人に内緒で多額の借金をしていた。その借金の対応を自分が片づけると田端に告げ、きみの弁護も引き受けると約束したことで、田端は罪を償う決心がつき、警察に自首をした。
 だが、元舎弟の原田は、それを知らず、兵さんの陰謀で自首させられたと勘違いをした。そのため、兵さんを恨み、殴り込みを謀った。兵さんがどのように説明しても原田は治まらず、もみ合ううちに兵さんは、原田の持っていたナイフで逆に原田を刺してしまった。
 兵さんはすぐに警察に連絡をし、救急車を呼んだが、その後、深い自責の念にかられたのか現場から逃走した。
 しかし、兵さんが殺害したと思っていた原田は、重傷でこそあったが一命を取り留め、警察に自分が兵さんを襲ったことを自供した。
 兵さんは逃走する必要など何もなかったが、弁護士という職業に就いている者が人に危害を加えたことで、かなりのショックを受け、そのショックから立ち直れないまま、人知れず札幌を去った。
 清水は兵さんに原田が無事でいることを告げ、札幌へ帰るよう伝えた。兵さんは少し安心した顔を見せたが、清水に「ありがとう」とだけ伝えてそのまま何も言わなかったという。

 「そうでっか。そんなことがおましたんでっか」
 マスターは腕を組んでため息を一つ洩らすと、清水に向かって言った。
 「そやけど、その原田という男が助かったことは、調べればニュースかなんかですぐにわかったんと違いますの?」
 「殺害したかどうか、ということよりも、高橋さんにとって、どのような理由があったにせよ、人を刺したという事実が重かったんでしょうね。自分を許せなかったのだと思います。高橋さんは、人一倍、人を愛した人情弁護士でしたから」
 「でも、逃げるやなんて、兵さんらしゅうおまへんわな」
 マスターがそう言うと、清水は頷きながらマスターに言葉を返した。
 「確かにそうです。私もそう思っていました。高橋さんは、警察に連絡をし、救急車を呼んだ後、自首しようと思ったと思います。でも、そうできなかった事情があったんです。今回、札幌に帰ってそれがわかりました」
 「そうできなかった事情……?」
 「原田を刺し、警察と救急車を呼んだ高橋さんは、警察が来るまでの間、奥さんに事情を話しています。奥さんは事件を知らされて卒倒し、高橋さんに札幌から離れて逃げようと言ったのだと思います。奥さんは、高橋さんに頼り切りの人でした。だから、高橋さんがもし警察に収監されたらどうしていいかわからなかったのでしょう。気も動転していたのだと思います。それで、高橋さんに子供と一緒に逃げよう、多分、そう言ったのでしょう。高橋さんは奥さんや子供をとても大切にする人でした。そのため、家族を選んで逃げることを決断したのだと思います。もっともこれらのことはすべて私の推測ですが、今回、札幌に帰って周囲の人の話を聞いて、初めてわかったことでもあります」
 「じゃ、今、兵さんは家族と一緒にいるんですか?」
 「ええ、奥さんも一緒に働いていました。働く奥さんの表情が輝いていることを見て、納得がいきました。弁護士の生活もよかったでしょうが、市場の八百屋で高橋さんと共に一緒に働くことの方が、奥さんにとってきっと何倍も楽しいことなんだなと――」
 清水は、そう説明をして、
 「高橋さんは、もう札幌には帰らないし、弁護士にも戻らないでしょう」
 と言った。
 マスターは清水の話を聞いていて思った。兵さんが必要以上にペコペコするのは、自身の背負った罪の償いのようなものではなかったかと――。
 人は誰しも罪を背負っている。その罪をどのように償っていくかはすべて、その人の度量であり、器量なのだ。兵さんは、たとえ、自分が犯罪者にならなかったとしても、ペコペコすることは一生変えないだろう。人にどう言われようと、それは兵さんの信念であり、生き方なのだとマスターは思った。
 「清水さん、兵さんはまたうちの店に来てくれはりますやろか?」
 マスターが聞くと、清水さんは、
 「今日あたり、そろそろ来るのと違いますか。そんな顔をしていましたよ」
 と笑って言った。
<了>


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