ドケチの留さんと豪気な大納言

高瀬 甚太

 「マスター、湯豆腐、半分ちょうだい」
 グラスに入った酒を一滴もこぼすまいと慎重に呑みながら、留さんが言った。
 「半分なんてできまへんがな」
 マスターが呆れたような口調で答えた。
 すると万さん、今度はおでんを指さして言う。
 「ちくわを半分」
 「留さん、半分なんてできませんて」
 「マスターのケチ」
 
 留さんのケチは、えびす亭でも一、二を争うほど徹底したものだ。とにかく財布からお金を出すことを極端に嫌がる。一日に使うお金が三百円を超えたことがないらしいと噂するものまでいる始末だ。
 ただ、ケチにありがちな、人にたかるということを留さんはしない。奢ってやると言われても留さんはまず受けない。それもまた徹底している。ご馳走になったり、奢ってもらうと、奢り返さなければならない、そう思っているようだ。
 えびす亭に来ても、留さんはとてもつつましい。一杯の酒を大事に呑んで、酒の肴も一品以上は頼まない。えびす亭にとっては儲からない客の一人であった。
 それほどお金を使うのが嫌なら、えびす亭に来なければいいのにとみんなは思うのだが、留さんはえびす亭の雰囲気が好きなようで、二日に一回は必ず顔を出す。

 えびす亭の客の一人に大納言というニックネームのおばちゃんがいる。おばちゃんといっても三十六歳だからそれほどの年ではない。だが、ニックネームの大納言でもわかるように、太くてでかくて、お尻がむちゃくちゃ大きい。顔も大仏そっくりだ。だから女性というよりもおばちゃんといった方がよく似合う。その大納言が留さんにめったやたらと絡む。
 「あんた、男やろ。みみっちすぎるわ。男やったらもっとバーンといかんかい、バーンと」
 留さんのケチぶりに怒り心頭なのだ。
 「放っといてくれ。あんたに言われる理由がない」
 留さんが怒るのも無理はなかった。大納言と留さんには何のつながりもない。親戚でもなければ兄弟でもない。嫁でなければ友だちでもない。えびす亭の客というだけのつながりだ。それなのに大納言は留さんのケチを罵倒して絡みまくる。留さんにしてみれば腹立たしいことこの上ない。大納言がえびす亭にいるのを見つけると、入口で入るのをためらうぐらい嫌っている。だから二人が並ぶと壮絶な口喧嘩が始まる。えびす亭の客たちはそれをニヤニヤ笑いながら見ている。二人の言い争いは、えびす亭の名物の一つに数えられるほどだ。
 マスターは、執拗に留さんに絡む大納言を見て、もしかしたら、と思ったことがある。留さんは小柄だが、三十三歳とは思えないほどの童顔で、ケチを除けば性格は悪くない。しかも独身だ。大納言も独身だったから、留さんに絡みまくる大納言を見て、留さんに気があるのでは、と思ったようだ。大柄でおばちゃん顔の大納言と小柄で坊ちゃん顔の留さん、よく見ると凸凹ながら釣り合っているような気がしないでもなかった。
 それである時、マスターが大納言に聞いた。
 「大納言、あんた、留さんに気があるん違うんか?」
 すると、大納言が鼻で笑って言った。
 「わたしはこの世の中でケチが一番嫌いなんです。みみっちい男が大嫌いなんですよ。だから男のくせにケチでみみっちい留さんを見ると腹が立って仕方がない。気があるやなんて、マスターもよう言いますわ」
 大納言の性格は大雑把で、お金のある時などは大盤振る舞いするほど豪気で男のようなところがある。逆に留さんは女々しくて大人しくて、決して人には奢らない。よく考えてみると、真逆な二人だ。どう考えてもうまくいきそうにない。マスターは大納言の話を聞いて納得した。

 留さんは東大阪にある「千元」という線香の会社で事務員として働いていた。景気はあまりよくない。昇給もここ三年ほど止まったままだし、ボーナスも五年ほど出ていない。最近は残業も少なくて、手取りがずいぶん少なくなっている。家には六十五歳になる母がいて、病院の食堂で働いているが、最近、めっきり年老いてきた。留さんは母のことが心配でならない。もう少し給料が上がったら仕事をやめさせてゆっくりさせてやりたいと思っているが、肝心の給料が上がらない現状では何ともし難い。爪に火を灯すような生活をしなければとてもやっていけない。留さんがケチになるのも無理のないところだった。
 「留吉や、お母ちゃん、食堂の仕事をやめようと思うてるんやけど……」
 留さんが母親から相談を受けたのはつい最近のことだ。
 「からだ、しんどいんか?」
 留さんが聞くと、母親は首を振った。
 「違うねん。病院で知り合ったお客さんに、今度ランチの店を開くさかい、手伝ってくれへんかと言われたんや」
 「ランチの店? 昼のランチか」
 「そうやねん。若いけどしっかりした人で、午前十一時から午後三時まで、ランチだけの店を開くのが夢やったらしいんやわ。仕込みもあるから午前八時には店に行かなあかんけど、午後四時には終わる。給料も今より少し多めに払ってくれるらしい」
 「条件は悪くないわな。そやけど病院の方はやめることできるんか?」
 「実はもう退職届を出してるねん。今週の木曜からその店で働くことになってるんや。言うのが遅うなってごめんな」
 「なんや、それやったら相談やないやないか。まあ、お母ちゃんがやりたいようにやったらええよ。ほんまは仕事させんとゆっくりさせてやりたいんやけどな」
 「ごめんな、留吉。おまえも結婚せなあかん年やのに」
 「心配せんでもええで。おれみたいな男、女の方が相手にしよらへん」
 留さんが自嘲して言うと、母親は顔を曇らせ俯いた。
 新しい職場に就いた母親は、めっきり明るくなった。今の職場が楽しくて仕方がないと言って、仕事の話を留さんに話して聞かせることが多くなった。
 「山崎ひとみさんという人がオーナーやねんけどな。よう働くええ人やねん。明るくて気前がようて、料理がうまい。お母ちゃんとそのひとみさんと二人で店をやっているんやけど、ボリュームがあって美味しい、安いで大評判やねん。おまえもいっぺん食べにおいで。土曜日もやってるから、ひとみさん紹介するわ。ごっつうええ人やねんで。しかもな留吉、ちょっと耳を貸し」
 そう言って留さんの耳元へ近づくと、
 「これがあんた独身やねん。あんなええ人が残ってるやなんて、お母ちゃん、信じられへんかったわ。ひとみさんにあんたのこと、たんと売り込んどいたで。ひとみさんも何やしらん興味を持ったみたいやし」
 留さんの母はそう言って留さんの肩をこづいて大笑いした。
 「山崎ひとみ……、ええ名前やな」
 留さんは、母が言ったその名前をそっと復唱して、「会いたいもんやな」とつぶやいた。

 留さんはえびす亭の雰囲気が好きで、できることなら毎日でも通いたいと思っているほどだ。線香の会社で一日中、事務ばかりやっていると変化に乏しい。ストレスもたまる。気分を変えるためにもえびす亭は大いに役だった。ただ、問題といえば大納言と顔を合わせることだ。大納言は、留さんがえびす亭に入ると、必ずそばへ来て、あれこれ文句を言う。ケチや、みいみっちい、女々しい、男らしくない……。そんなこと言われなくても留さんにはその自覚があった。俺だって、もっと呑みたい、もっと食べたい。もっと豪気にやりたい。でも、それができない。今の給料では贅沢はできない。仕方なくケチでいるんや。そのことを大納言に言ってやりたかった。腹の立つ女や。すぐに俺を怒らせて……。俺に構わんでくれ、何度もあいつに言ったけれど、あいつは平気で絡んでくる。
 でも……、留さんは思う。でも、あいつが店にいないと、何やしらん近頃は寂しく思える。うるさくて、ぶさいくで、太って、腹の立つ女のはずなのに――。
 「留吉、あんた、今度の土曜日、会社休みなんやろ」
 夜食を食べている時、留さんの母親が言った。
 「ああ、休みや」
 「何ぞ、用でもあるんか?」
 「いや、別にないわ」
 「それやったら、お母ちゃんが働いている店へいっぺん来てみいへんか」
 「ランチの店かいな。美味しいてお母ちゃん言うとったから味見に行ってもええけど」
 「味見のついでに、ひとみさんに会うてみいへんか? ひとみさんもいっぺん会いたいて言うてんね」
 「見合いかいな」
 「見合い違う。会うてみるだけや。男女の仲は縁のもんや。縁があったらうまいこと行くし、なかったらそれまでや」
 「わかった。どうせあかんと思うけど、土曜日行くわ」
 「よかった。ひとみさんに言うとくわ。三時ちょっと前に来るんやで。遅れへんようにしてや」
 母親は上機嫌で後片付けを始めた。その後ろ姿を眺めながら留さんは、ひとみさんに会える。だめでもいいや。会えるだけでもええやん。自分に言いきかせ、歌でも奏でるように「ひとみちゃん~」と小さな声でつぶやいた。

 土曜日の前日、えびす亭にやって来た留さんは上機嫌だった。
 「マスター、湯豆腐」
 「留さん、半分はおまへんで」
 「湯豆腐一丁、お願いします」
 「あいよ、留さん湯豆腐一丁!」
 マスターが復唱して言うと、えびす亭がどっと沸いた。
 「どないしたんや、留さん。雨が降ったらどないすんね」
 客の一人が冷やかした。と、そんなところへ大納言が入ってきた。大納言は店に入ると、すかさず留さんを見つけて、いつものようにそばに寄って来た。
 「マスター、おでんのちくわもお願いします」
 「あいよ、留さん、おでんのちくわ一本!」
 えびす亭が再びどよめいた。
 「留さん、どないしたんや? 頭、おかしなったん違うか」
 客が留さんを冷やかす。それを見た大納言が、留さんに文句を言う。
 「なんで今日はケチらへんねんな」
 と不満の声を上げる。
 「明日、嬉しいことあん」のや。今日はその前祝いちゅうこっちゃ」
 「嬉しいこと? 何やその嬉しいことって?」
 「言わん。大納言には死んでも言わん」
 「男やろ、あんた。聞かれたらはっきり答えなはれ」
 「言わんと言ったら死んでも言わん。明日、べっぴんさんと会うやなんて死んでも言わん」
 「明日、べっぴんさんと会う? デートかいな。物好きもおるもんや。こんなケチとデートして何が楽しいんやろ」
 「放っておいてくれ。デートというわけやないけど、わし、こんな気持ちになるの初めてやねん。嬉しゅうて嬉しゅうて、今晩眠れそうにないわ」
 「ふん、どケチの短足! あんたなんか、相手にしてくれへんわ。泣きをみるのが落ちやねんから」
 「ええねん。それでもええねん。俺、こんなに楽しい気持ち初めてや。それだけでもめっちゃ嬉しい」
 留さんは、いつもはちびちび飲む酒をこの日は一気に呑んで、なんとお代わりまでした。
 それを見た大納言、留さんへの攻撃を中断して言った。
 「マスター、お勘定。何や知らん、気分が悪いから帰りますわ」
 「もう帰るんかいな。今来たばっかしやないか」
 マスターが引き留めたが、大納言は、グラスに残っていた酒を一気に空けると、
 「ほな、皆さんさいなら。留さん、明日、どじらんように頑張りや。女はケチが嫌いやで」と言い残して店を去った。
 「何や、今日の喧嘩はこれで終いかいや。おもろない」
 客の一人が、大納言が出て行くのを見て、残念そうに言った。それは留さんも同様だった。もっと攻撃をしかけてくると思ったが。今日はそうでもなかった。何か物足りなさを感じながらも、留さんはその夜、三杯目の酒を口にして店を出た。

 「留吉、一張羅を着ておいでや。散髪せんでもええか? 歯は磨いたか」
 母は家を出る瞬間まで、留さんに注意をして出て行った。
 一人になった部屋の中で留さんは、三時少し前か――。高鳴る胸を抑えながら時計の針を見つめていた。
 母の勤めるランチの店は、京橋から少し離れた蒲生四丁目付近にあった。早すぎるかなと思いながらも昼ごろ家を出た留さんは、JR京橋駅で電車を降りると、国道一号線沿いに東に向かって歩みを進めた。この調子では一時過ぎに店に着いてしまう。どこかで時間を潰さなあかん。そう思いながら車の往来の激しい道を歩いた。
 この年になるまで恋をするなど経験したことがなかった。中学で一度、高校で二度振られたのがトラウマになっているようだ。
 コンプレックスがあった。背が低い、顔が童顔、理屈を付ければきりがないほど嫌なところが目立った。働き始めてからは女性と知り合う機会さえなくなってしまい、そのうち、結婚などはるか遠い夢のように思えるまでになっていた。
 あきらめてしまうと、努力することをしなくなり、せっかくチャンスをもらっても、それをものにする意欲が消え失せてしまっていることに気が付いた。このまま年老いて、ひっそりと消えてしまうのか、そんな侘しさが常に付きまとい、悩み苦しみながら三十三歳を迎えた。
 しかし、この日は違っていた。久々に気持ちが盛り上がってくるのを感じ、何とか頑張ってみたい、そんな心境になっていた。だが、嫌がられたらどうしよう、などと考え始めると、それはとめどなく留さんを襲い、いつもの弱気が顔を覗かせて、そのたびに何度も足を止め、引き返そうか、などと考えていた。
 途中、時間が早すぎたので国道沿いの喫茶店に入った。四〇〇円か、もったいないなぁ、メニュー表を見て思ったが、他に時間を潰す場所がない。一杯のホットコーヒーを味わいながらちびちび飲んだ。
 そんな中で考えることは一つ、ひとみさんはどんな女性なんやろか、ということだった。あれこれイメージしたがなかなか難しい。母の話では元気でしっかりした、気のいい人ということだった。女にうるさい母親が気に入っている女性だ。悪いはずがない。問題は気に入ってもらえるかどうかだ。それを考えると陰鬱な気分になった。やっぱり帰ろうか、何度も思ってきたことを、留さんは時間が近づいてきたこの時もまだ思っていた。
 ランチの店が近づくにつれて、なぜか、留さんは喧嘩相手の大納言を思い出し、不思議な思いでいた。酔ってもいないのにいつも留さんに絡んでくる大納言だったが、何度も喧嘩をするうちに、何となく大納言の気性がわかってきて、今では大納言が店にいないと寂しく感じるほどまでになっていた。なんでそれを今、思い出すのか……、留さんは苦笑しながら、店に向かって足取りを速めた。
 午後二時四十五分。留さんは店の前にやって来た。小さな店だった。看板に『ランチの店 大納言』と書いてあった。大納言……? 留さんはその名称を見て、思わずえびす亭の仇敵、大納言のことを思い出した。もしかしたら、とふと思ったが、すぐに打ち消した。そんなはずがない。絶対そんなことはありえない。一笑に伏した。
 のれんをくぐって店内に入ると、ランチの時間はとうに過ぎているのに、客が五、六人、ランチを食べていた。甘酸っぱい匂いがした。ああ、今日は中華の酢豚がランチメニューなのか、留さんは急激に空腹を覚えてお腹を押さえた。そういえば今日は昼ご飯を食べずにここへ来たことにその時、初めて気が付いた。
「留吉、そこへ座って待っといて。ひとみちゃん、今、厨房であんたのために料理作ってくれてるから」
 胸がジーンとした。自分のためにひとみさんが料理を作ってくれている……、留さんは胸がいっぱいになってご飯が喉を通るかどうか、それを心配をした。緊張感はクライマックスに達していた。
 食べ終えた客が勘定を払い、一人、また一人と店を出て行く。レジで母に、「おばちゃん、美味しかったわ、ありがとう」。そう言って出て行く客もいた。
 客が誰もいなくなった店内で、留さんはひとみさんが出てくるのを待っていた。清潔できれいな店内、テーブルは五席、カウンターも入れると三〇人ほどは入れそうな大きさの店だった。
 「今日もお客さん、よう来てくれたわ」
 母はほくほく顔で留さんにお茶を出した。
 「お待たせしましたー」
 明るく元気のいい声が厨房から聞こえてきた。ひとみさんの声だと思うと、胸がひとりでに高鳴った。
 留さんはテーブルの席に座ったまま、顔を合わせるのが恥ずかしくて下を向いていた。
 「留吉、ひとみさんが料理を持ってきてくれはったよ」
 母の声で顔を上げた。顔を上げた途端、ひとみさんと目が合った。
 「えーっ!」
 両方同時に声を上げた。

 テーブルを挟んで、留さんはひとみさんと向かい合って座っていた。酢豚の匂いにつられて、留さんはガツガツとひとみさんを前にしているにも関わらず、一心に食べた。母はキョトンとした顔をして留さんとひとみさんを見つめている。
 「なんや、あんたら知り合いやったんかいな……」
 母の驚きはひと通りではなかった。それは留さんとひとみさんにも言えた。
 「おばちゃんの息子さんが留さんやったなんて、ほんま、驚いたわ」
 ひとみさんは留さんが食事をしているさまを眺めながらしみじみと言った。
 「俺かて驚いたわ。大納言がひとみさんやったなんて」
 「昨日、あんなに張り切っていたのに、がっかりさせて悪かったね」
 留さんは、料理の手を止めて言った。
 「大納言の作る料理、おいしいわ。お袋の料理もおいしいけど、勝るとも劣らん」
 「料理だけは褒めてくれるんやね。でも、あんたに褒めてもらうと嬉しいわ」
 ひとみさんは、やさしげで温かなまなざしを留さんに向けてそう言った。
 留さんもまた、食べかけのご飯を手に持ってひとみさんに言った。
 「大納言、俺、ちっともがっかりしてへんで。ひとみさんが大納言でほんま、よかったと思てるぐらいや」
 「留さん、上手言わんでもええで。うち、こんなん慣れてるさかいに」
 ランチを食べ終えた留さんは、ティッシュで口を拭くと、ひとみさんを見つめて言った。
 「ほんまやねん。俺……、ほんまに大納言でよかったって思うてる。ホッとしてるんや」
 留さんは正直に今の気持ちを打ち明けた。それを聞いたひとみさんの目から大粒の涙がこぼれ出て、一筋の線になってふっくらとした頬をゆっくりと伝っていった。
 留さんの母は、そんな二人を見て、そそくさと厨房へ向かい、洗い物を始めた。二人になった留さんは、ひとみさんに向かって言った。
 「大納言……、いや、ひとみさん」
 「言いなおさんでも大納言でええて」
 「これも何かの縁や。俺と結婚を前提に付き合うてくれへんか」
 「おっ、ケチの留さんにしては珍しい。はっきりしたこと言うやないか」
 「俺、大納言のこと好きやったて、ここへ来て気が付いた」
 大納言の顔が朱に染まり、涙の粒が一つ、二つ、また、頬を流れ落ちた。
 「遅すぎるがな。ほんまにこの人は……。うちもはっきり言うわ。あんたのこと大好きや」
 留さんが聞いた。
 「ケチでもええんか? 女々しいけど我慢できるんか?」
 ひとみさんが面倒臭そうに言ってのけた。
 「かまへん。腹立つけどかまへん。あんたのこと全部好きや」
 「俺かて、俺かて好きや」
 今度は留さんが涙と鼻水を一緒に垂らして泣いた。その涙と鼻水をひとみさんがハンカチで拭いてやり、
 「男のくせに泣きなはんなや。鼻水まで垂らしてからに」
 留さんの頭をこづいて言った。

 えびす亭でちびちび酒を呑んでいる留さんのそばへ遅れて入って来た大納言が近づいた。えびす亭の客は、みんな興味津津。今夜はどんな喧嘩をするんやろ。そう思って眺めていた。
 「ちびちび呑まんと一気に呑まんかい。このドケチ!」
 「酒はゆっくり味わって呑むもんや。それが酒の神様に対する礼儀というもんや」
 「酒のあてかて、ちゃんと取ったらんかいな。マスター、儲からんてこぼしてるやないか」
 「取ってるわい。マスター、湯豆腐半分!」
 「アホちやうか、このドケチ」
 えびす亭の客がそんな二人を見て、ドッと笑う。でも、みんなは知らない。カウンターの下で二人がしっかり手をつなぎ合っていることを――。
<了>


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