創作は書き手(私)を救うのか?

 創作は書き手を救うのか?
 わからない。

 私は今、とある個人的過去について書いていて、それを思い出してぐるぐると嫌な気分になっている。
 墓まで持っていくつもりのことだった。誰にも言わずに黙っているつもりのことだった。
 しかし、放置するにはあまりにも大きくなりすぎて、何らかの形で外に出す必要があった。
 今回別名義で書いて出したものはその一環だった。

 ここ数年、色々な名義で色々なことについて書いてきた。精神のこと、感情のこと、ずっと引きずっているトラウマのこと、消えない嫌な記憶のこと。各種織り交ぜて書いてきた。それを「作り事」だと言い張って、自分がそこにないふりをして書いてきた。
 最近、別名義の一つで「作り事」と言うのをやめた。ここに書かれているのは自分のことだと言うようになった。
 実際問題、私の書くものは完全な作り事ではないし、かといって完全な実体験でもない。せいぜい半々だ。けれども、今まで完全な作り事だと言っていたものを、その嘘をやめることで、精神的には楽になった。その名義だけでは嘘を吐かなくてもよくなったのだから。

 色々な名義で色々なことについて書いてきて、私の精神は少しだけよくなった。それは会社を辞めたせいかもしれないし、書くことによって「救われた」のかもしれないし、優しい友人たちが支え続けてくれたからかもしれないし、全部かもしれない。

 それで、私がなぜ創作が書き手を救うのかなんて話を持ち出したのかというと、そうやって色々なことについて書いて精神がよくなった事実と、今、とあることを書いてぐるぐるとつらくなっている事実のどちらを重んじるべきかわからなくなっているからだ。
 書いて、思い出して、そこから悪化してしまうのならば、書かない方が良い。
 書いて、処理できて、そこから良くなっていくならば、書いた方が良い。
 程度問題だとは思う。
 だが今回、私が書いたものは、私の中ではおそらく最も厄介なものであり、下手に扱うと精神が崩壊しかねないマターであるため、どうしても慎重になってしまうのだ。
 それで、創作は書き手を救うのかなんて問題を持ち出して、明解な答えを求めている。

 救われるために創作をやっているわけではないし、楽になるために創作をやっているわけでもない。
 救われる、とか、楽になる、とかはあくまでも副次的な効果にすぎず、創作のメイン目標ではない。
 とはいえ別に、救われるために創作をやったり、楽になるために創作をやったりしたって悪くはない。良いのだ。
 しかし私は、創作は創作のためだけに成されるべきであり、自分がどうなりたいからという目的でされてはいけないと、そう思っているらしい。
 それはこの国特有の職人主義の産物かもしれないし、はたまた何か、私個人の累積トラウマの産物なのかもしれないし、両方かもしれない。
 純粋主義はおそらく「正しく」はある。「正しい」が故に色々な人を傷つける。無論、私自身のことも。
 救われるためとか楽になるために創作をやったっていいと思うのも「正しい」とは思う。そう思うと、二つの「正しさ」に挟まれて息ができなくなる。どちらが本当に「正しい」のか、わからなくなる。どちらも正しいから。
 ……判断のつかないことを考えても仕方がない。話を戻そう。

 創作は書き手を救うのか。
 どうなのだろう。答えを求めてはいけないのかもしれないし、救われるつもりで創作をやった結果、駄作か名作かはともかく作品数が増えるのならそれはまあいいことなのかもしれない。
 こういうのはきちんと専門家、医者やカウンセラーなどに相談した上で進めていくのが一番良いのだろう。それはわかっている。けれども私は私のこの案件をどうしても他人に話す気になれない。話した場合の相手の反応を無限に考え続けてしまって、怖くて言い出せないのだ。
 だからこうして一人でこっそりやっている。
 他人に言えない、そう思ってしまっている以上、「取るべき道」はともかく「取れる道」は一つしかない。
 ただ書き続けることしか。
 それで楽になれるならいい。悪化したらそのときはそのとき。危ないと思ったら引き返せばいい。
 そう思って、書き続けることが、できればいいのだが。

 結果はまだわからない。
 何かあればまた記事を書くかもしれないし、書かないかもしれない。
 今回はそういう個人的な思考の整理だった。

 読んでくれたことに感謝する。
 また会おう。

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