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東京タワーの下で〜後編

「先輩、中織先輩ですよね?杉並中の」…思い出した。一度だけ雨の日に傘を貸したことのある女の子。山下…山下美咲。

僕はあの日の思い出に吸い込まれていった。

その日は雨がたくさん降っていた。
僕は1時間目から教室のガラスに当たる雨の音を聴いていた。授業の内容は全く頭に入って来なかった。もともと授業を馬鹿にしていたし、聴く気もなかったのだけれど。

僕は中学受験に失敗し、公立の中学に通っていた。多少荒れてはいたが,目立たなければ問題は起きなかった。僕は身長も普通で髪もボサボサだったからその辺はうまく隠せていた。

ただ、受験をしたおかげで中学のテストはほぼ100点だった。目立つといけないので、すぐにそのテストの紙は隠すようにしまっていた。

僕の中学は学年に関係なく、補習があって、たまに先生の手が足りない時に上級生が下級生に教える手伝いをすることがあった。

山下は補習に来ていた下級生の1人として僕は会ったのだった。僕は教える側として補習に参加していた。確か数学だった。

山下は公式を覚えるのに苦労していた。
「あまり難しく考えなくて大丈夫だよ」
「はい、でも何がなんだか…」
困った顔を見て僕は吹き出してしまった。彼女も笑った。
それから僕は彼女を教えることに決めた。補習に来る生徒の数も少なかったから、特に問題はなかった。

週に一度、僕は彼女を教えることが多くなった。彼女の自然体の明るさに触れているとなんだかホッとするような、そんな気持ちになり、段々と補習が楽しみになった。


その日、補修に来たのは彼女だけだった。先生もなんとなく手持ち無沙汰になって、僕だけが残ることになり、教室には二人が残された。

なんとなく恥ずかしいような、悪巧みを共有しているような、そんな気持ちになった。


「先輩、私たちはいつまで勉強するんでしょう?」
「え?」
「中学卒業して、高校行って、大学まで、とりあえず8年ぐらいあるじゃないですか」
「そうだね、それぐらいあるね。大学院に行ったらもっとだね」
「やだなぁ」
「やだね」
「先輩も嫌なんですね。頭いいのに」
「もちろんやだよ」
「はぁ。今日はもう帰りません?」
「まぁ四時だし、帰ろっか。気分が大切だから」
「やった!先輩、ちょっと付き合ってもらえませんか帰り道」
「え、まぁいいけど」
内心僕はドキドキしていた。

彼女は傘を持っていなかった。朝は大した雨じゃなかったからそれもありそうだった。

彼女はクラスのこと、部活のことをいろいろ喋ってくれた。僕はそれに相槌を打つ。それの繰り返しだった。カラカラと笑う彼女はなんだか眩しく見えた。でも、一言も家族の話はしなかった。それがちょっと気になったけど、敢えて尋ねなかった。尋ねてはいけない気がした。

途中僕たちは彼女がたまに立ち寄る喫茶店に入った。そこで彼女が大好きなクリームソーダパフェを二人で頼んだ。

カラカラと笑う彼女に真夏のようなクリームソーダと緑色がよく似合った。なんだか来週も再来週も、もしかして毎週それが続くような予感がして、僕は内心舞い上がった。初めての彼女になるのかもしれない。そんな想像をした。

店を出ると、雨が強くなっていた。僕はここからバスに乗るからと言って、傘を彼女に貸した。

「え、先輩濡れちゃうからいいですよ。今日は付き合ってもくれて、勉強も付き合ってくれて、このままどこまで付き合ってもらえるのか期待しちゃうから…」
「え、あ、いや…でも、僕は全然気にしないから」
「優しいですよね。ほんと、困ります」
彼女は頬を膨らませて怒るようなふりをした。そのあと、一瞬とても辛そうな顔をした。

「じゃぁ、借りていきます!」
「うん」
僕は傘を渡した。

彼女はそれを受け取ってぺこりと一礼して帰って行った。僕はそれを見送った。


それ以来、僕は久しぶりに彼女を思い出していた。


「忘れちゃいましたか?」
「いや、覚えているよ。それと…」
「傘を貸しっぱなしなことも」
「…」
黙る彼女。
「あれ、冗談だよ、覚えてないよね、はは」
鼻を啜る音が聞こえる。

「え?」
「忘れてません。覚えててくれたんですね…」
「うん、ちょっと忘れかけたけど…」
「傘、返さないといけないから、今からやっぱり行きます。どこにいるんですか?」
「え、いや、東京タワー…はは、なんか綺麗で」
「私も好き!絶対待っててくださいね!」
そう言うと彼女は電話を切った。


僕は、この急な展開にただぼんやりとする他なかった。

ただ、もしかしたら、僕の人生はまだまだこれからが本番なのかもしれない。
東京タワーを見上げ、やはり美しいと思った。あの日の彼女の笑顔のように。


しばらくぼおっとしていただろうか…遠くでタクシーの止まる音がした。

そこに目を向けると、倒れていた時には気が付かなかったあの時のようにカラカラと笑う女性がそのタクシーから降りてくるところだった。

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