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東京タワーの下で〜前編

「来週までに例の企画に似た他社事例を複数比較して、20個位でいいから自分の案を出してくれ」
上司は軽々しく言った。金曜日の夕方にだ。自動的に休みが無くなる。そもそも20案なんて無謀だ。僕は途方に暮れた。毎週この調子だ。

その日上司が退勤したのを見計らって、僕はすぐにパソコンを閉じた。
やってられない。

なぜ僕だけがこんな目に遭うのだ?他の同僚は楽しそうに花金を楽しみに帰る中、僕だけが憂鬱の海に飲み込まれていた。

会社のIDケースを持ってセンサーにつけて、ゲートを潜った。なんだかその行為すら重く感じられた。とにかく今夜はもういい。気持ちが切れていた。

ビルを出て、目の前の大通りに向かう。横断歩道を渡る時、いっそ信号無視の車が入ってきてくれれば楽になれるのか…そんな考えがよぎった。やばい、これが鬱ってやつなんじゃないか。まさかな。俺が鬱?ありえない。

しかし、そういうところから始まるようなことがYouTubeで誰が言っていた。とにかく気晴らしだ。僕は横断歩道を渡り、遠くに光って見えた東京タワーに向かった。特に理由などなかった。蛾が電灯に惹きつけられるように、僕も光に惹きつけられた。

東京タワーは昔から好きだった。社会人になりたての頃、新たな世界を知った僕は、東京タワーの見えるレストランなんかを探して、合コンで意気投合した女の子を連れて行ったりした。一気に大人になったようで、毎日がキラキラしていた…ような気がする。

人間は過去を美化する生き物だけど、だから、今の僕が情けなく思った。どうしたらこの状況を打開できるのだろう。

何かの本で苦労をした分だけ成長できる。逆境こそが成長への入口だ。などと書いてあった。

そうだったらいいけど…今の自分にはそんなものは見えなかった。もう若手でもなくいい歳だ。今更成長なんて…。

東京タワーはさっきより大きく見える。赤と白の光のコントラストか深い闇にぼぅっと浮き上がって、なんだか蠱惑的に見える。

「どんっ」
「きゃっ」
可愛い女の子が走りながら僕の背中にぶつかり、鞄を落とした。中身が道に広がる。僕はそれを拾って彼女に渡す。

「ありがとうございました、すみません」
「いえ、怪我はなかった?」
「はい、すみません本当に」
「いえいえ、お急ぎのようですね」
「はい、これから仕事で待ち合わせなのですが、遅れてしまっていて」
「場所は?」
「虎ノ門ヒルズです」
「あ、じゃあタクシー乗ります?」
「いえ、近いから走ります」
「僕はその先まで行くのでよかったら乗ってください」
「え、でも…ありがとうございます!」


こんな風に恋が始まる出来事でも起こらないか、僕は後ろを振り返った。勿論誰もいない。浮浪者めいたお爺さんがとぼとぼと歩いているだけだ。

そりゃそうだ。そもそもそんな展開になったとして、僕はきっと、謝られた女性に、「いえ」と言うくらいしかできないだろう。

つくづく嫌になった。そう思っているうちに東京タワーはどんどん大きくなる。そろそろ芝公園が見えそうだ。

僕はポケットにあった携帯を見た。何のメッセージもない。もういい歳だ。仲のいい同僚は皆結婚していた。いまさら花金に僕と付き合う隙間はない。

「ふぅ」
僕は深いため息をついた。

結局向いていないということか…いや、能力の問題か…このまま人生が終わっていくのは耐えられそうもない。世間で言う名の通った大学に行けたこと、それなりの会社に入ったところまでが僕の奇跡だ。やはり、背伸びして入った世界はそんなに甘…

「どんっ」
後ろからが何かが強く当たって、僕は倒れた。
「痛てて…」
かなりの衝撃に頭がクラクラした。
当たってきたものからは何の音も聞こえない。
痛みが少し治まって後ろを見ると人が倒れていた。

え、気を失っている?
まずいじゃないか、これは!
僕は慌てて、それにふらふらと駆け寄る。
20代半ばの美しい女性だった。綺麗な格好をしている。パーティーにでも行く格好だ。

僕は彼女の口のそばに手をあて、息をしているか確かめた。虫の息というやつだ。
「大丈夫ですか?、大丈夫ですか?」
何かの訓練で習ったように大きな声を掛けた。
「うう、うう…」
良かった、意識があった。
僕は携帯で救急車を呼んだ。

ほどなくして救急車がやってきた。消防隊員に事情を尋ねられる。いきなりぶつかられただけだから何も分けらないと言うと、消防隊員は残念な顔をした。そんな顔されても困る。

「では、よろしくお願いします」
僕は救急車に彼女が載せられるのを確認すると引き上げようとした。僕は東京タワーに行かなくちゃならないんだ。
「あの、一緒に来れますか?」
「え、いや知り合いじゃないので」
彼女が誰かを呼んでいるようなので、あなたではないですか?」
「いや、そんなはずないです」
「病院まででいいので、よろしければ」
特にやることはないが…仕方ないから僕は救急車に同乗した。

車内で、見れば見るほど彼女は美しかった。僕なんかがそばにいてはいけない気がしてむずむずした。
救急車が走りだすと、東京タワーがどんどん小さくなっていく。少しがっかりした。

今日は東京タワーに行きたかったのに…。

「うう、う」
彼女が目を瞑りながら手を伸ばしてきた。僕は迷ったが、隣の消防隊員が頷くので、その手を取った。まるで恋人のように。そう思っているのは僕だけだけれど。たまにはこんなことがあったってバチは当たらないだろう。なんとなくそう思った。


病院に着く頃には東京タワーは見えなくなっていた。

僕は病室に運ばれる彼女を見送り、もう帰っていいか、消防隊員に話しかけた。

消防隊員は、意識も大分もどってきたので、お急ぎであればと言うので、特段急いでなかったが、僕は病院を後にすることにした。

「もし、何かあれば…まぁもともと知り合いじゃないし、ないと思いますけど」
そう言って名刺を消防隊員に渡した。

病院を出るとタクシーが停まっていたので、僕は花金なので奮発してそれに乗り込んだ。
「東京タワーまで」


タクシーは静かに走り出した。
しばらくすると今度は東京タワーが見えて来た。グングン近づいていく。相変わらず蠱惑的に輝いている。僕はそれを後部座席から身を乗り出して見た。先程の出来事を含めて、夢を見ているようだった。

東京タワーにはあっけなく着いた。正確にいうと芝公園に着いた。僕はタクシーに2500円を払い降りた。
着いたといっても特段やることもなかったので、僕は東京タワーの真下に向かった。

東京タワーは近くまで来るとぼんやりとはしておらず、割とハッキリと輝いていた。
正体見たり枯れ薄。なんだか興醒めした。あの道中の興奮はなんだったのだろう。考えても何も浮かばなかった。しばらく見上げていたが、それにも飽きて途方にくれた。腹も少し減った。

ポケットで携帯電話が鳴る。知らない番号だ。まさか先輩じゃないだろうな。電話に出るのが嫌だった。僕は無視する勇気もなく通話ボタンを押した。

「はい」
「あ、あの、先輩ですよね?」
「は?」
間の抜けた声を出す自分。
「先程助けていただいた山下です。通りで」
「え?あ、ああ」
僕は声に聞き覚えがあるようには思えなかったし、山下と聞いてもピンと来なかった。
「ええ、気になさらず」
「お礼をさせていただけないかと」
「いいですよ、そんなの。気にしないでください」
「先輩、中織先輩ですよね?杉並中の」

…思い出した。一度だけ雨の日に傘を貸したことのある女の子。山下…山下美咲。

僕はあの日の思い出に吸い込まれていった。


続く。


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