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小説を書きたい


気が付けばたくさんのエッセイなのか戯言なのかわからないものを書いているわけだが、小説を書きたいと思ったことが幾度となくある。
それはだいたい小説を読んでいる最中か読み終わった後のタイミングにその衝動を感じることが多い。きっとこの衝動に駆られる人は僕だけではないはずだ。過去の自分の体験から着想してイメージを膨らませていき、”完”という文字を打つまでストーリーを描く。そのための準備段階として登場人物の特徴をしっかりと明確にすることや、この物語のピーク・盛り上げをどこに持ってくるのか等の様々な仕掛けや流れを作らねばいけない。
でも、僕が書くこの戯言は全く違う。”こんなことを書いてみよう”とか”このオチは使わなきゃな”のような、友達と明日ご飯食べに行くのに時間も場所も決まってないけど当日決めればいいか、的な感覚で僕はいつもキーボードを叩いている。
お陰で当初予想していた戯言とは違う戯言を披露しているだけである。
以前に投稿した”note”でも書いたように僕は読んでくださっている皆様に対して何も有益な情報を与えられない。
僕はそんな立派な人間ではない。むしろ僕が”有益だ”と思っていることは皆様にとって”無益”なことかもしれない。そんな悲しい・虚しい事態になりたくないので僕は戯言を文字に起こすだけである。
そんな観点からも小説とエッセイは全く異なるもので、小説はちゃんとしたストーリー、背景、人物の設定や物語の終わり方などなど様々な点を気にして執筆作業に入らなければならない。
ただ実は、僕はこのエッセイを更新する中でいくつか短編小説というのかただの文字なのかなんと表現したらよいのか分からないものを作ったことがある。それはそれは駄作でありこのnoteに公開したのであれば、公開したことを後悔するが目に見えている。そのため未だに僕の視線だけしか浴びてないものがある。そして挑戦してみてわかる。
小説は難しい。
登場人物をハッキリ描くことも難しいが何よりもその情景を連想させることが何よりも難しい。例えばシリアスなシーンを描こうとした場合、やはり天気は晴れよりも曇りや小雨、季節は暑いよりも寒くて、太陽の紫外線よりも月明かりの方がこのシリアスなシーンには持って来いというか容易に想像ができる。読んでいる文字の何処かに陰陽を反映させることがとても大切なわけだが僕はこれができない。そこまで思考を巡らすことが僕には難しいと感じてしまう。だから小説は書けないと思ってしまう。
でも、小説は基本的にフィクションである。小説はエッセイよりもフィクション要素が濃い。つまり架空の世界の話である。架空の世界の話であれば僕が書いているエッセイもフィクションであるため”なんとなく小説”をかけるかもしれない。つまるところ上手におもしろく何度も読み返したくなるような小説はできなくても自分がこれだ!と思う小説を書くことは容易なのかもしれない。
でも、そんな架空の世界の小説を書いたところで滑空な小説であることに変わりはない。歌丸です。

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