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デヴィッドボウイと季節

――夢だから、猶生きたいのです。
  あの夢のさめたように、
  この夢もさめる時が来るでしょう。
  その時が来るまでの間、
  私は真に生きたと云える程
  生きたいのです。
  あなたはそう思いませんか。
  (芥川龍之介「黄梁夢」1917.10)


――僕の右の目はもう一度
  半透明の歯車を感じ出した。
  歯車はやはりまわりながら、
  次第に数を殖やして行った。
  僕は頭痛がはじまることを恐れ、
  枕元に本を置いたまま、
  0.8グラムのヴェロナァルをのみ、
  とにかくぐっすり眠ることにした。
  (芥川龍之介「歯車」1927.3)


――平凡に涙をおとす耶蘇兵士
  あかきじゃけつを着つつ来にけり
  (斉藤茂吉「赤光」)




借りてきたデヴィッドボウイは、
歳時記と照らし合わせるまでもなく、
季語ではない。
ただし、ジギー・スターダストは、
ひとつの季節である。


「過ぎ去った事だ」、
ランボーが不感症を装いながら
うそぶいて吐き捨てた、あの季節と同じ、
字余りの季節である。
そして、デヴィッドボウイもまた、
季節である。


こんな結論に辿り着くまでの
ぼくもまた、季節であり、
たくさんの季語を集めながら、
たくさんの季節を巡った。
それでいてひとつだった。


そしてこの文章を打ち始めた途端、ぼくは、
もはや季節でもなければ、ひとつでもない、
ぼくは季語になっている、
そんな実感に駆られている。


ひとつになっていた季節たち、
その時間も場所もまた、
もとあった場所へ、ぞろぞろと帰っていく。


追想の形式が、ひとつだったぼくをまた、
傍観者と体験者、
その他いつもの口うるさき外野、云々、
二つ以上にバラしてしまう。
(ここに、この形式に関する
 困難な課題がある)


季節の終わりには、感傷が振り返り、
こちらに笑いかける。
(感傷の皮を被る女は、女神か、ビッチか。)


週末の騒がしい店内、目の前に、
カールのチーズ味と、
うまい棒のチーズ味と、
その比較論を、形態と味覚における
現象学的観点からではなく、
形而上学的観点から語り尽くそうと
試みる知人がいる。
彼の口癖は、「おれ」である。


彼の右手元にあるMサイズのコーラが、
愚息を恥じる我慢強い保護者のように
全身から玉のような汗を吹き出している。


白地に走る赤と黄色のライン、
ぼくのストローが下卑た音を立てながら、
薄茶に汚れた屑氷の底をかき混ぜる。


沈黙の内に枯渇したMC Cafe、
アイスコーヒーのMサイズが底をついても、
その饒舌に底はなさそうで、
それにつけても
指が衛生的でいられるうまい棒では
決して得られない決定的な体験、
右手の親指と人差し指についてとれない
あのチーズの匂いが恋しくなるような、
カール推しな弁証法は、
小腹の空いてきたぼくにとって、
思考に値せず、嗜好を刺激する
生態学的、パブロフと犬。


お菓子におけるチーズ風味は、
パティ上の本物のチーズでは
決して代替が効かないように、
ある苦悩を抱えた一人物の体験談、
その一部始終は、
「おれ」たちには味わい尽くせない、
彼はふと、そんな話を持ち出してくる。


なんだ急に。
そんな視線をよこすぼくに、吹き出す彼。


カールの、カールによる、カールのための、
それまでの弁論、言葉の連呼から、
きつめの天然パーマが、
その混沌とした内面を表象しているような
彼の悩める知人のビジュアル、
その真剣なまなざしを、
ふと思い出したらしい。


「あいつ、長々と語るんだよ。おれに」
ぼくのストローは、下卑た音を立てて笑う。
饒舌なるブルータス、お前もだ。ただ、
おやつはカール、カールするパーマは天然、
マジカルバナナみたいな、
そう、バナナの身も皮も悪戯の一形式、
そんな境界を飛び越えていく言葉と発想、
素直におもしろいなと思う。
気怠くこぼしたベルベッドの襞の下、
黄色く膨張せる世界、みたいな。


外面は内面、内面は外面、この循環は
単純だが滋味のある哲学の一到達点、
ヘーゲル論理学、時系列に加えるなら、
「命懸けの跳躍」とは、
ダス・キャピタル、もう一人のカール・
マルクスの至言、これもまた、
内面から外面への運動系、
季語のにおいを感じるからこそ、
ここに記しておく。


笑えるがしかし、彼の話、
また長くなるだろう。


身を引き締め、
それにつけても腹ごしらえ、
ぼくは毅然と一旦席を外し、
週末の混み合うレジに
代替のおやつを探しに行く。




※以下に記す彼の聞いたという
 悩める知人の体験談は、
 「おれ」の口から語られることにより、
 彼自身の興味に応じ、描写の濃淡が
 適宜加えられていたため、
 内容を分かりやすく、読者の関心が
 途中で事切れぬよう、
 ぼくの事後調査と想像とで、
 主題を損なわない程度に、
 多少潤色を加え、小説風に均してある。


 「切り取る日常EFFECTを少々」とは、
 「偶然のアルバム」で告白された
 アニの手法である。


 そして「偶然のアルバム」とは、
 もしかしたらこの文章のサブタイトルに
 ふさわしい言葉なのかもしれない。

―――――――――――――――――――――


【悩める知人の体験談】
 夕刻の伸びきった吊革に捕まり、
 くぐもった走行音とともに
 黒い壁をさらさらと流していく地下鉄、
 (この路線はぼくもよく利用する
  黄色い車両の地下鉄線である)
 車窓に映る冴えない自分の姿を、
 見ず知らずの他人であるかのように
 ぼうっと見つめていると、
 「次の停車駅は」
 アナウンスに押し出されたかのように
 手前の中年女性が立ち上がり、
 そのせっかちな動作に気圧され、
 うっかり空いた席に座ってしまうと
 視界は彼の外側に広がり、
 次の停車駅、開いたドアから
 いつもの裏表のないあの調子をひっさげ
 あの人が、
 彼がそのとき一番会いたくないあの人が、
 飄々と乗ってきたりする――
 そんなことが頻繁にある気がするので、
 停車駅から乗ってくる人々の顔を、
 おそるおそる探ってみる――
 やはり、あの人が同じ車両に乗ってくる。
 (そう、芥川の歯車みたいに――
  話者の興味深い注釈が入る)


 育ちがよく、小さな頃から
 この世界を疑うことも知らずに
 おのずと従ってきた倫理感を
 生来の優しさとともにその目尻に滲ませ、
 隠し事をしているような自分みたいな
 存在を映らせるのに、
 後ろめたさとともに無言の責めを感じさせ、
 そのまなざしが与える影響をかえりみない
 その無意識さに思わず嫉妬と憎悪を
 感じてしまっている自分の醜さを
 同時に見いださせるような、
 そんな瞳をもった人が、
 どの街の中にも少数ではあるが、
 確実にいる――
 屈折した解釈の積み重ねに
 削られ磨かれた先細りの観念、それが
 おそらく、彼にそう語らせるのだろう。
 (そいつ、昔から自意識過剰なんだって、
  いつも言ってやってんだけどさ――
  話者の余計な注釈が入る)


 生活がまわり、知人が増え、顔は馴染み、
 彼もそれなりに年をとったせいか、
 その街に馴染んだ分だけ
 そこらにある道徳心や倫理感、それは
 平凡で、かつ正論すぎて、
 それゆえに残忍に思われて、
 彼の頭の中、街のいたるところ、
 どこにいようと、どれもこれも
 底のないぬかるみのように
 いよいよ深まっていくばかりで、
 そうは分かってはいても
 踏み外してしまう足、いや、
 吸い込まれているのかもしれない、
 悪いことに、汚れの少ない方の足ばかり
 容赦なく引きずり込まれてしまう。


 彼自身の弱さと、街の優しさ、
 居心地の良さに甘んじているとかえって
 居場所のない街になってしまう、
 彼独自の説明のつかない
 逆説的な実感を拭うべく、
 彼は手持ちの文庫本を掲げ、顔を隠す。
 (その髪、言うなれば半月状の
  黒焦げジャンボクロワッサンは、
  それがA4見開きであろうと、
  すべては覆えなかっただろうに――
  話者の余計な誘い笑いが入る)


 隣に座る、見た目はおとなしそうな
 若い女性、
 その街の清潔感に裏打ちされたような
 サラサラした長い黒髪の奥、
 隠れたイヤホンから
 おさまりきらずに溢れてきている
 尖ったプラスチックのような音が
 容赦なく、彼の左耳を刺し続ける。


 耳穴のにこ毛に障るようなその音が、
 妙に気になりだした彼は、
 目の前の活字も拾えず、
 そもそも拾えていなかったくせに、
 うるせえなぁ、
 騒音と解釈したらなおのこと、
 イライラとしてくる。


 平成最後の年末、
 彼は、あるつまらない嘘をつくために
 わざわざ出掛けていった。


 彼が格好をつけて言うことに、
 「平衡点を求める平凡な方程式を
  満足させるための虚数を演じ」終えた
 そのせいなのか、
 浮ついた年末の市街地を歩いてきた
 そのせいなのか、
 自宅アパートへの帰路、
 乗り込んだ地下鉄の車内、
 彼自身がつくりあげた虚構の副作用で、
 彼の神経はいつになく鋭敏になっている。


 自分が包まれている優しさのようなものに
 嫌気がさし、うんざりさせられたとき、
 彼はかりそめの「虚数」を置いて
 その場をしのぐ性向にある、らしい。


 だが、不幸な彼の意識は、
 あの嘘をついてきた部屋にじっと残る。


 いかにも彼の嘘はつまらないものであった
 とは言え、誰よりも彼自身を、
 (本人は詳しくは語らなかったらしいが)
 彼が少年の頃から抱いていたきれいなものに、
 最も深く、傷をつけてしまったらしい。


 地下を走る車両の走行音が、
 当てつけの虚数と
 括弧をつけられない実数の差、
 演じた舞台と今いる場所、そして
 彼が生まれ育った故郷との距離を
 いじらしく広げていく。


 彼が埋めなければいけない空間、
 (この空間は、ものを書くための
  何よりも得がたく貴重な空間だと
  ぼくは信じている)
 それが復路の物理的な移動に比例して
 どんどん広がっていくような気がする。


 暖気の滲むエンジ色の座席、
 その時そこに安んじている
 彼だけの手に負えなくなり、
 文庫本の見開きの影で彼は彼をバラし、
 手分けして埋めようとしたり、
 あの部屋ごと、自分を切り離そうと
 したりしてひとり足掻く――
 そんな心境だからこそ、
 途轍もなく大きく、
 途轍もなく憎らしく見える、
 会いたくなかったあの人の背中。


 おのずと手が震え、
 所狭しと見開きの世界の中、
 ミジンコの大群のようにハネる活字。


 家に近づくほど何かがスカスカになり、
 膨張していく空間に
 ブラウン運動のような自己増殖を
 余儀なくされ、
 自分が薄まっていくようで、
 そんな孤独な実感から逃れようと
 本能的にバラされた彼の神経、
 その痙攣する触手は、
 車両内にあるいろんなものに怯え、
 いら立ちながらも、何でもいい、
 何でもいいから必死に触れようとし、
 必死に抱き寄せようと
 していたのかもしれない。




 「それってのり弁が季語なんだろ?」、
 彼の右耳に、すっと入ってくる福音、
 やや押しつけがましいような、
 自信たっぷりの中年らしい男の言葉が
 ふと、車両内から聞こえてきた。


 その一言に、思わずふっと吹き出すと、
 バラバラになっていた彼の意識が
 ふいにひとつになる。


 一息、取り戻した空気、
 足りなかった空気を、一息、
 のり弁って季語なのか?
 なんとなく、考えはじめると、
 なぜか、のりの上のちくわの
 磯辺揚げの香りが最初に鼻をつく。


 夕刻の空きっ腹、食べたいなと思う半ば、
 のり弁って季語なのか?、考えていると、
 顔の前から自然と下りていく文庫本、
 その見開きの先に開かれた視界、
 光でぬめっとしたクリーム色、
 塩ビの車両の床上を、
 うすぼやけた右の端からすうっと、
 黄金色した透明の液体が、ぬるりと
 蛇行しながら進むミミズの早回しのように
 そのやわらかい頭をつんのめらせながら
 足の林を縫って走り抜ける。


 エナジードリンク?、リアルゴールド、
 レッドブル――「翼をさずける」、
 ふと思い浮かんだ売りの文句に
 神経質な聴覚も弛緩しはじめたのか、
 彼の左のこめかみを刺し続けていた
 鋭利なプラスチック群が
 いたずらな騒音から、
 徐々にひとつの音楽に変容し、
 蜜のように流れ込む耳の奥の奥、
 思わず聴き入るそのメロディライン――
 床を這っていたまなざしはいつの間にか、
 吊革と吊り広告のゆらめく
 逆さの明るい水底を泳いでいる。


 ビジネススクールの輝かしい実績、
 入会費無料のエステサロン、
 展覧会の告知、ダダ ダダ ダダ ダダダ、
 挿し絵から連想されたエゴンシーレ――
 (この連想を皮切りに、彼自身も驚くほど
  それまで干からびていたいろんな想念が
  水を得て、渦を巻きはじめたらしい)


 右手のないエゴンシーレ、
 傲慢な自信をのぞかせたあの表情から
 聞こえてくる歌詞、
 「He played it left hand」、
 彼の頭の中に流れ出す、伸びきったテープ、
 ジギースターダスト、押し寄せる諦念に
 「Should we crush his sweet hands?」。


 早回しに巡るアルバム、そして最後を飾る
 「Rock'n'Roll Suicide」、
 DVDに収録された伝説のライブ映像
 (詳しくは知らないが、そうらしい)が
 自動再生をはじめたとき、
 彼がまだ生まれてもいなかった
 あの日の観客たちのように、
 その時間のその車両の
 その席に座っているという
 確かな実感とともに、
 なぜか感動して、ひとり、
 涙を流してしまっていた。


 ふいに、車内がぱっと明るくなった。


 向かいの窓に、雑然とした町並みが
 流れだす。
 正面に座る人々の視線が、
 スマートフォンの間に間に
 彼の顔を遠慮がちにのぞきこむ。
 会いたくなかったあの人は、
 いなくなっている。


 「次の停車駅は」
 彼が降りるべき駅から、
 3つ向こうの駅名が告げられた。
 その地下鉄線は、地下から地上に抜け、
 彼が乗り過ごし、慌てて降りた駅から
 地上駅が続くのであった。


―――――――――――――――――――――



 「どうでもいいことを考え出したときに、
  ばらばらになっていた自分が
  ひとつになっていて、
  ひとつになったときに、
  外から、いろんなものが
  不思議と吸い寄せられるように、いや、
  自分が辿り着きたい何ものかに向かって
  レールが敷かれていくように、
  でたらめに見えて数珠つながり、そして
  なにかひとつの、思いがけない
  救済めいた相にぶち当たる。


  辿り着いたものに感動しているときは、
  自分というものすらない状態で、
  また別のかたちのひとつになってる、
  そんな気がした、って。


  感極まって、長々とそいつ、
  そんなことしゃべりまくって、
  こいつ案外ファナティックだったんだ、
  へえって、おもしろいなって
  聴いている半ば、
  のり弁は季語じゃない?、って、
  おれまで考えだして。そしたら、
  のりの上で、海千山千が
  「ひとつ」になっているのり弁をさ、
  (彼はたまに、こんなうまいことを言う)
  おれは久しぶりに食べたくなって、
  そっちにもってかれちゃって、
  おれにはあいつの感動が、あいつの
  半分くらいしか伝わってこなかった。


  花よりだんご、禅より煩悩、
  パーマよりカール、それ、
  おれの本能、なんて。
  で、さ、でさよ。
  のり弁、ってのはさ、
  食べたい、って思ったその時、
  その時が季語だって、おれ、
  そのとき思いついたんだけど
  そうじゃない?」


そう語り終えた彼、
最後はやや興奮したのか、
妙な語尾上がりになってしまった
だけど、からの、「そうじゃない?」。
これががいい意味で年不相応で、
とても愛くるしく、本人も、
その長話の思いがけない締めの変調に
フッと鼻笑い、スンと鼻啜り。


彼の語ってくれたある知人の体験談は、
やっぱり「おれ」に着地する。


ホットアップルパイを前歯に囓りながら
「そうだね、うん、そうかな」、
ホットモットの人たちに聞いてみたら?
やや本気ながらも浅薄にも
受け取られかねない提案を
薄茶色の氷水とともに呑み、
彼の話を聞きながら
深いもの思いにふけってしまったせいか、
つながらない思索の断片のように、
口の端からぽろぽろとこぼれてしまった
茶色いパイ生地を、
積み藁を描くモネの筆致さながら
優しくトントンと、
人差し指の腹で丁寧に拾いながら
やれ昏昏(こんこん)と、
なおも続く「おれ」の話を半分、
聞いている。
(ほんとうにぼくが聞きたいのは、
 「2019年、彼の今」である)


「のり弁の上に配されたバランほど、
 美しく見える緑ってなくない?
 後期印象派の画家たちも
 息を呑み、よだれを啜るような、
 えもいわれぬ色彩感覚、おれ、
 …あ、わるい。電話だわ」


ふと、死角から浮かんできた
ひとつの命題について、
ぼくは考えはじめている。



――「デヴィッドボウイは季語か?」



これもまた、きっと
「おれ」たちの好物である。
そしてその命題を考えるのに、
「おれ」のほうが、考える材料を
おそらく豊富に持ってる。
(ぼくの中には、この命題の核となる
 はっきりしたデヴィッドボウイの
 ビジュアルや音楽や言葉がない)


それ以上に、これ以上の対話の延長戦、
カフェと「おれ」はめんどくさい。
コメダのエンジのソファと異なり、
長居を拒むマックの椅子は非情なほど硬く、
お尻と腰と、痛むフィジカル。


トイレから戻ってくる彼に、
「じゃあ、そろそろ」
「え?もう、『そろそろ』?」


知人には内緒の、彼の大好物の持ち帰り。
その命題だけは、やはり
「おれ」たちで消費したくない。いや、
消費してはいけない、ぼくにとって
大事な何かが凝縮されているような
そんな予感のするこの方程式を
満足させるための、
虚数ではなく、いかにも実数らしい
ひとつの動かぬ実数を考えはじめるぼくは、
彼の言うとおり、ひとつになっている。




後日、知人から「ジギースターダスト」の
CD、DVDを借りる。


学生時代のあの頃に経験した
"又借り"に忍ぶ奇妙な罪悪感を、
梅雨の時期に訪れるしっとりした嗅覚に――
自分の生活圏とは異質な匂いに、
久しぶりに感じいる。


英詩に和訳、歌詞カードを手に、
プレイヤーで流し、一時停止、
ハレときどきネガ、間に間にググる。


最後に例のライブ映像を見てみると、
その映像のさらに奥、光の届かない
ライブ会場の闇の奥に、
何か胸の裏側から燃えたつような、
激しく渦巻く異様な景色が見えはじめる。


コロナにつままれているような
焼けちぎれそうな感覚に誘われ、
本棚に向かい、随分昔に買っておいた
エゴンシーレの画集を探す。


おそらくこれだろうという、「右手のない」
無数の赤い傷と青痣と壊疽に汚れた自画像、
これを下地に、ジギースターダストの語り、
寛斎の布地、火星人の化粧を上塗りすると、
そのキャッチーなグラムロックにのせて、
システィナ礼拝堂に描かれた聖人たちに
こっそり混じるミケランジェロのように、
不思議と、その図像は神々しく脱皮しはじめる。
――あの属格の抜け殻となったミケランジェロ、
その一連の行為が画家の
あの季節を象徴していたように。


描写の蠢きに魅せられつつ、
ぼくはおのずとぼくの中に想起された
ある未完の景色を凝視する。


神経だけになった芥川と兼業医師の茂吉、
芥川の右の瞼の裏にひそむ宿命、
「結局だれも、あなたを殺しはしない」、
あの半透明の歯車の運動を、試みに重ねてみる。


耶蘇士官の復活を祈願し、
あかきじゃけつをもう一度
羽織らせるために処方される
0.8グラムのヴェロナァル、
5日分を茂吉のデスクからくすね、
ぼくの頭の中で響くマーラーの6番、
イ短調は「悲劇的」、
作曲家の生前に下ろされることのなかった
第三の宿命の鎚、重く鈍い音と同時に
ぶつかる二頭のレッドブル、
赤い角と赤い額、弾けて、
中空に舞い上がる白い砂塵、それは
死に至る4グラムのヴェロナァル。


他力を請う芥川の宿命色、
闘牛の背景に輝く黄色い大きな日の丸、
生よりも強く渇望した黄色く膨張した
消失点を、「何か」、「唯ぼんやりと」、
ぼくは甘いクリーム色に霞んでいく。


猛牛どうし、ぶつかった衝撃とともに
青と銀の市松が反転し、

「或阿呆の一生」が、ある阿呆の半生に
もよおさせた暗い季節がネガとなり、

185ml缶がコト、と倒れる。



開いた飲み口から、飲みさしの
黄金色した透明の液体がこぼれ出す。


そしてぼくの右瞼の裏、半透明の歯車は、
水路の流れに従う水車のように、
芥川が望んだ運動とは逆方向に
ゆっくりと回り出す。


犠牲の牡牛を屠り損ねた司祭ラオコーンと
その二人の子供、
遊ぶように絞め殺した二匹の蛇のように
うねり這い出す黄金色した透明の液体は、
本棚の前に佇むぼくの脚に絡み、
胴を巻き腕をつたい、
ひとつの本の背表紙に触れようとする
ぼくの左の人差し指から
伸びていく二つのプネウマが鎌首、


「狂気には二つの種類があって」、


ひとつの鎌首が、大理石に朽ちた
ソクラテスの舌を潤す。


もう一つの鎌首は、
傍観者パイドロスの右耳から左の耳へと貫通し、
ぼくの左耳の鼓膜を食むと、ぼくは、
盛りのついた雄犬のような
前のめりのパイドロスになっている。


「ひとつは
 人間的な病いによって生じるもの、
 もう一方は、
 神に憑かれ、規則にはまった慣習的な事柄、
 それをすっかり変えてしまうことによって
 生じるものであった」


心象を染める色調もまた、風に晒された
アルバムのようにパラパラと巡り、
「黄色いキリスト」、「緑のキリスト」、
痛みの先に、はなやいだ「赤い花と乳房」


戯れのために歌われた歌や、
脚色を交えて語られた物語、
劇画的バロックな絵画に、
編集しすぎた映画、そして、
くんずほつれつを繰り返す対話、


「そのとき来なかったあなたとは、
 もう会えない。
 だから、
 そのときに来てくれたきみには
 言いたい。
 ありがとう。
 さようなら。もう二度と、
 同じきみに会えないから。」、


それらがぼくの内側で
妙な感傷とともに一緒くたに煮えたぎり、
永久歯が生えはじめたばかりのときの
口内ように、盛り上がった歯茎に感じる、
あのいら立ちを交えたむずがゆさを、
あかいじゃけつに隠された
両の肩甲骨あたりに感じはじめると、
じわじわと、
脱皮を繰り返したその中から、
本質めいたやわらかく粘っこい
無二のペルソナがあらわれてくる。


偶然に出会った曲と物語をまたぎ、
フレーズがつながっていく。


片隅にうっちゃられた習作に、
内外の動画と心象が流れる色水のように
マッピングされ、巡りめく、
季節と思い出をまたぎ、
さまざまな季語が世界をつなげていく。


みんなが争うように集まってきて、
そしてひとつになったかと思うと、
ふいに爆発して、もう元に戻せないくらい
バラバラに飛び散ってしまう。




――デヴィッドボウイは季節である。
  そのお尻にエスのついてまわる、
  複数形の季節である。




この字足らずで傍観者めいた総括に疑問が残り、
ぼくは文章を読み直す。


湧かない感興を尻目に、
中盤に湧き立つ磯辺焼きの香り――
のり弁が食べたくなる。


曰く、「食べたいときが季語」、か。
雨音、ぬるく湿った隙間風とともに、
語尾上がりの「そうじゃない?」、
やっぱりそうかもしれない。


でも、あきらめてはいけない。
そういった共有とか共感とか、
「おれ」とかぼくとか、
そういったことに関わることじゃない。


それらはすべて、
特定の季節しか言い表せない季語と
同じ地平にあるものであって、
デヴィッドボウイとは、
きっとそういうことじゃない。


デヴィッドボウイはきっと、
自身を含めた個々人の奢った季節には
決して奉仕しようとはしなかったはずだ。


デビッドボウイはおそらく、
体験談を語ったあの彼のような
孤独な自意識の群像に、
属格とは無縁の、かたちに残る
純粋で無粋なひとつの季節を
もよおさせるような季節に
季節そのものになりたかった。
ただ、そこに意識はなかったかもしれない。


ジギースターダストは、
デヴィッドボウイのひとつの季節であり、
デヴィッドボウイ自身に訪れたひとつの季節に
けりをつけるためにつくられた、
自愛に満ち、それでいて、
他愛もなく破壊されるべき
ひとつの記念すべき偶像であった、
と、思いたい。


彼が涙したというライブ映像を、
ぼくはもう一度見つめる。


ジギースターダストは、いや、
デヴィッドボウイは、涙を必要とする、
いかにも、人々の涙を強く要求する。


傍観者であったはずのぼくの涙の流跡もまた
黄金色に染まり、最期の導きの蛇となる。


ぼくとは関わりがないと思っていた
誰かのおののきが、ヘビの喉を借り、
おごそかに語り出す。



「アブラハムには嘆きの歌がない。
 嘆くのは人間らしいことである、
 泣く者とともに泣くのは、
 人間らしいことである。
 アブラハムには哀歌がない。
 時の過ぎゆく一日一日をもの悲しげに数える、
 彼の指は、そんなことに奉仕しなかった。」



デヴィッドボウイには嘆きの歌がある。
哀歌がある。
ジギースターダストという、
夜闇に瞬く星屑どもの季節がそれである。


衣替えの季節には皆、
ハンガーと防虫剤が必要になる。
いつの世にも湧いてくる傍観者の虫たちは、
人生に一度きりの衣装、あかいじゃけつに
大きな舌つづみを打つ。


ハンガーにかけず、
そこに防虫剤を効かせないところに、
ぼくはデヴィッドボウイの人間性を感じる。
(この感覚は、先人たちに対する解釈と
 ぼくの甘え方の一例をあらわしている。)


そのじゃけつが輝きを損なわぬように、
「食べたいとき」に身を削り、心を砕き、
時が満ちていない、なんて、
そんな偽りの空腹感を遠ざけ、
おそれおののきながら、
食べさせてもらっている。


できることはきっと、それだけしかない。


「過ぎ去った事だ」、
この言葉の内に宿る強がりが
消えてしまわないように、
子供たちのくだらない遊びのように、
この季節は何度も繰り返す。




「なんであんなふうになれないんだろう」
「なんでこんなこと、はじめたんだろう」


いずれも、自分の可能性に対する感傷がもよおす
いかにも人間らしい愚問には違いないけれど、
後者が呼び起こす季節の創造と反復だけが、
また新しい季節を、少しずつ、
きっと「今」に運んできている。




ライブ終了後、
ライブスタジオの屋上でひとり、
ジギースターダストの抜け殻を放り、
裸のデヴィッドボウイが独り、
大の字に寝そべり、観客の悲鳴と啜り泣き、
それらを背中に感じながら、
見上げる夜空、屈折した星屑たちが放つ光は、
宿命の鎚を合図に中空に舞い上がった
5日分のヴェロナァルと
同じ輝きをしていたはずだ。


嘆きの歌が終わり、
全く違ったように見えていた季節が
ほぼ同じ季節に見えるとき、そこに、
自分だけの、それぎりの、
懐かしい景色が聞こえてくる。

それを哀歌と呼ぶならば、
デヴィッドボウイには哀歌がない。
季節も、人の耳も、
哀歌をおさめるには耐え難いほど
儚い。


デヴィッドボウイばかりじゃないけど、
芥川ばかりでもない。
ただだれも、
アブラハムになんてなれない、
「眩しすぎる夢の途中で目を醒まし」、
そんな諦めの地点から、
ぼくもまた新たな季節をはじめたい。




お腹がすいた、のり弁が食べたい。
ちゃんと食べたあとじゃないと、
あかいじゃけつはつくれない。


ひとつ、言い忘れていた。
緑のバランについては、
彼の言うとおりだ。

ただ、
美しいけど食べられないところからは、
哀歌が聞こえてくるようなことはないと
信じたい。

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