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【昭和怪ブームの真相】不幸の手紙〜ニッポンを震撼させた呪いの書〜その1

70年代、一大ブームを巻き起こした不幸の手紙。いつ自分のところに送られてくるか──。恐怖で眠れぬ夜を過ごした方もいたことだろう。そんな不幸の手紙は時代の変遷と共に姿を変え、いまも人々に恐怖を与え続けていた

不幸の手紙の元祖は大正時代

 四十八時間以内に、同じ文面で五人の人にハガキを出さないと、必ず不幸が訪れる――。もしそんな発送元不明のハガキが突然家に送られてきたら、あなたは一笑に付すことが出来るだろうか? 1970年代に頻繁に起こり、社会問題となった「不幸の手紙」は、受け取ったことによる不安から、ネズミ算的に受取人および発送者を増やし、日本列島を不安に陥れた。
 その源流を辿っていくと、実は意外と古い。関東大震災の前年の1922(大正11)年頃には、世相風俗研究家として名高い宮武外骨が、早くもその著書(「奇態流行史」)で報じている。もっとも当時は、「不幸の手紙」ではなく「幸運の手紙」と名付けられており、ハガキの指示に従って誰かに出せば幸運が訪れるが、出さなければ不幸になるというのがパターンだった。1926(大正15)年には、新聞の社会面を賑わす事件となっている。ある大蔵官僚の元にアメリカの軍関係者を名乗る人物経由で「親友9人にこの手紙を出しなさい」との英文による「幸運の手紙」が届き、彼が手紙を翻訳して指示通り友人に出したところ、受け取った彼ら(いずれも大企業社長などの名士)も、次々と同じように手紙を出し、警察が調査に乗り出す騒ぎになった。参加者の中には、東京市長だった後藤新平もいたという。事件は、結局発信元の大蔵官僚の娘のいたずらとしてカタが付いたが、この年がラジオ放送開始の翌年であり、発信者の一人である後藤新平が、ほかならぬ東京放送局(現・NHK)総裁だったことから、政治的に行われた情報操作の実験ではなかったかということさえ疑われた。
 この「幸運の手紙」は、戦禍と物資不足の1945 (昭和20)年頃には「朝、らっきょうだけで飯を食うと爆弾があたらない。それを実行したら、知り合いにまた教えてやらないとききめがない」(「高見順日記」による)というように、手紙ではなく口伝に形を変えたという。しかし、終戦直後の1946 (昭和21)年にはすぐまたハガキによる「幸福の手紙」が復活。事態を重く見た警察が捜査に乗り出したことが、毎日新聞紙上で報じられている。
(その2に続く)

取材・文=ロザムンド黒酢