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「魏志倭人伝」の国々 まとめ その2

前回は、なんとも怪しい臭いのする文献「諸系譜」と、そこに登場する、春秋時代の呉の王族の末裔であると言う川上梟師(かわかみのたける)という人物を紹介した所で終わりましたので、今回はその続きから始めたいと思っています。


補足3 呉の末裔(続き)

「倭人伝」が伝える熊襲の気風?

川上梟師もしくは熊曾健(くまそたける)に関する物語は、「日本書紀」と「古事記」の双方に出て来くるのですが、その前段の物語など幾つかの違いが有ります。

「日本書紀」では、前日譚として、日本武尊(やまとたけるのみこと)の父である景行天皇の業績を記した「景行記」中に、熊襲に厚鹿文(あつかや)と迮鹿文(さかや)という二人の勇者が居て、彼らの下に集まった八十梟師(やそたける)と呼ばれる猛者達には誰も敵わないと聞くが、多勢を率いての戦いになれば民が犠牲と成るので、違うやり方で熊襲を平定出来ないものかと、天皇が問う場面があります。

そこで臣下の一人が提案したのが、梟師の二人の娘、市乾鹿文(いちふかや)と市鹿文(いちかや)を利用して梟師の様子を探り、不意を突くと言う案でした。提案に乗った天皇は、姉の市乾鹿文を召して寵愛したのですが、なんと市乾鹿文は、天皇の兵を借りた上で、父を酒に酔わせ、その兵に父を討ち取らせてしまったのでした。

自らの手で父を暗殺した市乾鹿文を憎んだ天皇は、市乾鹿文を殺すよう命じ、かわりに妹の市鹿文を火国造(ひのくにのみやつこ)にしたとのことです("ひのくに" は、肥前国・肥後国に分かれる前の区分で、現在の長崎・佐賀・熊本を合わせた地域に相当します)。

「諸系譜」を見ると、「景行記」に出て来る厚鹿文と迮鹿文という人物は、共に例の金印を授かったという熊鹿文(くまかや)の子で、厚鹿文の二人の娘が市乾鹿文と市鹿文であるとされています。そして、迮鹿文には、取石鹿文(とろしかや)と弟石鹿文(おとしかや?)という二人の息子がいたと記されているのです。

取石鹿文のことは、川上梟師という別名を持っていたという事実も含め、「日本書紀」に記載があるものの、弟の弟石鹿文に関しては、一切記述が有りません。一方、「古事記」の方には、熊曾健は兄弟として登場して来ますので、その点では「諸系譜」と一致していると言えます。

その「古事記」では、熊曾健と弟健(おとたける)という名称が使われていますので、弟石鹿文という名前や、彼等が共に迮鹿文の子供であったという事実は、「諸系譜」にのみ記された固有情報であると思われます。

伯父である厚鹿文を、景行天皇の策略により殺された川上梟師ですが、自身も又、景行天皇の皇子である日本武尊の手で殺されてしまいます。しかも、この時も正面きっての戦いではなく、女装して宴会に潜り込んだ日本武尊の手により、酩酊した状態で刺殺されているのです。

もしかしたら、勇猛だが酒と女に弱いという性格は、一族共通だったのかも知れませんね。何だか「魏志倭人伝」の、”其會同坐起 父子男女無別 人性嗜酒” という記述を思い出させるようで、宴会での老若男女入り乱れた無礼講の中で、どさくさに紛れて暗殺された様子が目に見えるようです。

川上梟師と與止日女

川上梟師に関しては、佐賀平野の西の方、佐賀大和(佐賀県佐賀市大和町)と呼ばれている辺りに多く伝説が残っているようです。ここは吉野ヶ里遺跡の西隣に当たる場所です。地元では、元々は筑紫の辺りを拠点としていた梟師が、大和朝廷の勢力が侵入して来たために、こちらへ逃れて来たと言い伝えられているそうです。

この辺りを南北に流れている喜瀬川という川があって、その中流の川上狭と呼ばれている辺りが、川上梟師の物語の舞台のようです。その中心地(大和町大字川上)には、與止日女(よどひめ)神社という神社があります。淀姫神社とも書き、川上神社という別名もあるようです。

御祭神は與止日女命(よどひめのみこと)で、神社の公式サイトによると、"神功皇后の妹君とされ、また一説には神武天皇の祖母神である豊玉姫様と同一神であるとも伝わります。" とのこと(参照:ホーム - yodohime-jinja ページ! (jimdofree.com))。

建立は六世紀(564年)ということなので、邪馬台国の時代からは遠く離れており、川上梟師との関係も謎ですが、この辺りに川上梟師と與止日女という女性に関係する伝承が多くあったがために、それが、この神社の建立という形で昇華した可能性が有ります。当地には、與止日女と川上梟師は兄妹であったという伝承があるのです。
(追記:上記のように書きましたが、個人の研究としてそういう説を唱えている方が居ると言うのが正しくて、具体的にそういう伝承があるという訳ではないようです)

また、「延喜式神名帳」という文献に引用された「肥前国風土記」の逸文の中に、"與止日女は亦の名を豊姫、淀姫という" と書かれていることを取り上げて、與止日女を、卑弥呼の宗族で、その後を継いだという台与(とよ)に比定することもあるようです。

その又一方で、長崎県の松浦郡にある淀姫神社のサイトによると、豊姫というお姫様は、神功皇后の三韓出兵の際に竜宮城へ赴き、魔力を持つ二つの宝珠、干珠と満珠を得、皇后の戦いを助けたとされています(参照:淀姫神社WEB (yodohimejinja.com))。 

この時竜宮へのお供をしたとされる磯良(しら)という人物には、金印の見付かった場所として有名な、博多湾の志賀島(しかのしま)を拠点とする阿曇(あずみ)という海洋部族との関係が指摘されているのですが、その志賀島にある志賀海(しかうみ)神社では、代々阿曇族が、綿津見(わたつみ)三神と呼ばれる海洋神を祀っており、この神は、阿曇族の祖神であるとされています。

この志賀海神社のホームページに載っている社史を見ると、色々と面白いことが書いてあって、神代の頃から「海神の総本社」「龍の都」と称えられていたとか、神功皇后が三韓出兵の際に、志賀島から阿曇磯良(あずみしら)という人物を召したとか、その故事にちなんだ地名が島のあちこちに残っているといったようなことが書かれています。

それに加えて、志賀海神社の社前に在る遙拝所(対岸に在る大嶽神社・小嶽神社、及び東の方向に在る伊勢神宮などを拝むためのもの)に置かれた亀石という石は、阿曇磯良が勝利祈願をした際に現れたという、雌雄の黄金の亀を池に放した所、後に石と成って、金印の発見地である現在の金印公園近くに現れたもの、という伝承があるというようなことも書かれています(参照:【公式】志賀海神社ホームページ (shikaumi-jinja.jp))。この石は実は、金印が封じられていた遺跡の残骸ではないのか、という説もあるようです。

こうしてみると、全く荒唐無稽に思えた、佐賀の一氏族と "漢委奴国王" の金印との関係が、何となく繋がって来そうにも見えて来るから不思議です。但し、志賀海神社の社史には豊姫のことは一切書かれておらず、豊姫が行ったとされている竜宮行きは、全て阿曇磯良が単独で行ったかのように記されているのが、謎の一つです。

更に又一方で、"豊姫" の古訓(昔の読み方)は、"とよひめ" ではなく "ゆたひめ" で、事実、與止日女には、"世田姫" という漢字が当てられている例があるという指摘もあり、これが、與止日女神社のサイトにあった、"また一説には(與止日女は)神武天皇の祖母神である豊玉姫様と同一神であるとも伝わります" という伝承の元になっているようです。豊玉姫は、竜宮城の乙姫(おとひめ)に当たるとされる人物で、「古事記」・「日本書紀」の「海幸彦・山幸彦」の条に登場します(ここで自分の悪い癖で、“ゆた姫?……ユタ?……あの沖縄のっ?!”、何て考えたりもしてしまうのですが、さすがに今回はスルーしておきます😅)。

豊玉姫は、神武天皇の祖母に当たり、神武天皇の父である鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を出産する際に、その本当の正体を、夫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に見られた為に、嘆き悲しんで竜宮に帰ったとされている人物です。

その本当の正体とは、龍であったとも、鰐であったとも言われています(「日本書紀」では "龍"、「日本書紀」の 一書〔あるふみ〕では "八尋大熊鰐〔やひろのおおわに〕" 、「古事記」では "八尋和邇〔やひろのわに〕" と記述されています)が、自分的にはこれは、豊玉姫が、"蛟龍" の刺青をする習慣のある部族の出身だったことを意味するのではないかと思う訳です。

以前別の記事で紹介した民俗学者の柳田国男は、"竜宮" という名前について疑問を抱いていました。

今でも気がつくのは、日本の昔話の竜宮に竜はいない。そうしてしばしば乙姫様という美しい一人娘がいる。

"海神宮考" 「海上の道」 柳田国男

何故竜のいない海中の宮が竜宮と呼ばれるのか、柳田は仏教法話のようなものの影響ではないかと考えていたようですが、その謎の答えは、海の向こうの倭人の故郷の地には、蛟龍=鰐が生息していて、そこの人々には、その模様を模した刺青をする習慣があった(乙姫様も?)と考えれば、竜宮="根の国(ネノクニ)" という柳田の説とも矛盾すること無く説明することが出来ます。

北部九州には、阿曇族の他にも、宗像(むなかた)三女神で有名な宗像大社の辺りを拠点としていた、宗像氏という海洋部族が居ましたが、彼等は古い文献では、"胸形" という漢字を当てられており、これは彼等が胸に刺青を入れていたからだと考えられています。

その他関連のありそうな話としては、数ある與止日女の言い伝えの中に、與止日女が銅鏡の神であるというものが含まれているという事実も、何とも意味深に感じます。

それと、志賀海神社について書いた所で、豊姫に関する伝承は無いと書きましたが、志賀海神社の主祭神である綿津見三神を祭る三殿(左殿:仲津〔なかつ〕綿津見神・中殿:底津〔そこつ〕綿津見神・右殿:表津〔うわつ〕綿津見神)は、相殿(あいでん)と成っていて、夫々、主神の他に、神功皇后・玉依姫命(たまよりひめのみこと)・応仁天皇(神功皇后の息子)という面々が(ひっそりと?)祀られているのですが、この内の玉依姫というのは、実は豊玉姫の妹なのです。

玉依姫は、豊玉姫が海神宮に帰ってしまった後にやって来て、残された鵜葺草葺不合命の育児をし、命が長じた後に命と結婚したとされています。つまり、初代神武天皇の母親に当たる人なのです。

神功皇后の妹であると言う伝承のある與止日女/豊姫に比定される人物である豊玉姫の更に妹が、同じ神社内に神功皇后と共にひっそりと祀られている。何ともややこしい話ですが、何らかの歴史的事実があった所に、伝承の伝達ミス、或いは故意の隠蔽・捏造のようなことが起きた結果、現在こうしてややこしく成ってしまっていることは、まず間違いないでしょう。

(追記:どうすればこの話をスッキリ整理出来るか、よくよく考えてみたのですが、與止日女/豊姫という九州王朝の首長であった女性の業績を、万世一系の天皇家が日本全体を統治して来たという歴史観に組み込む為に、與止日女/豊姫とは、実は神功皇后の妹だったのだという神話の造り替えを行った、と考えれば良いのではないかという気がしています。

あくまでも地元の人間を納得させる為の作り話だったので、「古事記」・「日本書紀」の方には、いっさい與止日女/豊姫に関する記述が無い訳です。ちょうど、小碓尊(おうすのみこと)が、川上梟師(かわかみたける)を倒して後、名前を譲られて日本武尊(やまとたけるのみこと)と名乗るように成ったとする話と同じで、地元の人間の忠誠心が、すんなりと大和朝廷の方へ向くように図ったという訳です。実際の與止日女は、より皇祖に近い、豊玉姫/玉依姫に相当するような人物だったのだとしたら、随分と無茶な作り話だったということに成りますが……。

まぁ、以上は個人の妄想に過ぎませんが、一つ確実に言えることは、九州のこの辺りには、女性の首長が活躍した時代が有ったということで、現にこの記事の冒頭に書いた景行天皇のエピソードでは、市鹿文という女性が、火国造〔ひのくにのみやつこ〕と成ったと明記されている訳です)

と、話せば本当にきりが無いのが、與止日女に関する言い伝えで、興味は尽きないのですが、残念ながら「諸系譜」には、川上梟師の妹に関する記述はないし、台与に該当しそうな人物も載っていないようです。

ですが、川上の地には、川上梟師の一族が、邪馬台国と深く関係していたことの記憶が残っていて、そこから、台与である可能性があるとされる與止日女と、川上梟師が兄妹だったというような伝承が生まれたのだとも考えられます。
(追記:ここも、上で述べたように、與止日女と川上梟師が兄妹だったというような伝承が実際にある訳ではなく、そういう説があるという話です。だから、両者の関係は依然として謎のままな訳ですが、ダジャレおじさんが無理矢理に関連を探してみますと、豊姫が干珠と満珠を受け取りに行った際の竜宮の主の名が、どうやら沙迦羅龍王(さからりゅうおう)というらしいのです(参照:淀姫神社詳細の項 | 淀姫神社WEB (yodohimejinja.com))。この沙迦羅という名は、「諸系譜」上で川上梟師こと取石鹿文の父であるとされていた、迮鹿文に似てると思いませんか?😅)

與止日女は「日本書紀」「古事記」には一切登場しませんが、北部九州各地に神社があって、その数は、喜瀬川の流域だけで六社もあるそうです。これも、與止日女が熊襲の女神であったと考えれば、説明が付きます。逆に、何らかの歴史的事実の存在無しに、これだけの遺物・伝承だけが残ることがあり得るのだろうかと思ってしまいます。

補足4 「諸系譜」について

ここまで何となく、「諸系譜」の内容(言い分)に全面的に沿った考証を述べて来ましたが、ここらで、果たしてこの「諸系譜」という文献は、一体何者なのかという点について触れておかないとならないでしょう。

「諸系譜」というのは、何かと謎の多い書物らしいのですが、鈴木真年(まとし)という、江戸の神田生まれで、系譜学を学び、紀州和歌山藩の系譜編集事業などに関わっていたという人物が著者であり、編集に協力していた中田憲信という人物が、真年の死後も編集を続けて出版されたもの、ということのようです。

二人は平田鉄胤(かねたね)という、幕末から明治に掛けて活動した国学者の門下生で、共に禅正台という明治初期の裁判所のような組織に勤務し、仕事の傍らで系譜学の研究を行っていたようです。

彼等の手で、膨大な数の貴重な家系図が集められた一方、入手経路に関する情報を欠いていたために、系譜に書かれた注釈に関しても、元の家系図にあったものなのか、筆写の際に、彼等が研究メモのようなものを書き加えたのか、判らないようです。

また、平田派神道の門下生であるという彼等の経歴(中田憲信は、南朝の村上天皇の十八代孫を名乗っていたそうです)を考えると、天皇家の祖先が、中国の王朝に朝貢していたというような考えは全く受け入れられなかっただろうと思われ、その点でバイアスが掛かっている恐れも有ります。

ただ、それらのことを差し引いても、単なるインチキ家系図と言うだけでは済まされないような、巧みに構成された部分があるのも確かで、これがもし捏造されたものだとしたら、造ったのは、最新の情報を持った現代の研究者に匹敵する程深く、古代中国や北部九州の事情に精通していた人物ということに成るだろうと思われます。実は、鈴木真年や中田憲信が関った系譜の中には、非常に巧妙に捏造された偽物であると判明しているものもあるそうなので、厄介です。

自分が紹介した国会図書館デジタルオンラインの「諸系譜」も、実は二種類出回っている松野連の系図のうちの、第二系譜と呼ばれているものの方らしく、第一系譜には、そのものずばり卑弥呼に相当するのではないかと思われる卑弥鹿文という人物や、「魏志倭人伝」に出て来る最初の使節団員である難升米、二回目の使節団員として伊声耆と同行した掖邪狗が、兄弟として登場して来たりするのです。こうなるともう出来過ぎていて、却って偽書の疑いが強まる感じさえします。

結局、どこまでが本物の系図で、何処からが創作なのか不明で、その意味では、学問的には無価値と言って良いのかも知れません。

ただ、第一第二の両系譜に共通しているのが、松野連の家系が、卑弥呼の使節に関係していると同時に、奴国(委奴国?)の朝貢にも関係しているらしいという点で、これは松野家の各家系に、漫然とながらもそういう事実が言い伝えられていたためという可能性は、捨て切れないと思います。

結局、邪馬台国は何処に?

さて、ここまでとりとめも無く色々な事を書いてきましたが、そろそろ本当にまとめに入らないとまずいと思われます😅

で、邪馬台国って結局何処に在ったと思ってるの? という話に戻るのですが、その前に一つだけ。

自分は今では、中国の正史が指摘して来た、春秋時代の越の国と倭人との関係は、ほぼ確定的であると思っています。

これは "倭人" というキーワードで Wikipedia を検索すれば直ぐに出て来るような話なのですが、1999年に行われた "江南人骨日中調査団" というグループによる調査で、中国の春秋時代人と前漢時代人のDNAは、日本の弥生人のDNAと酷似しているという結果が出ているのです。この時の中国人のDNAは、江蘇省に在る墓から採取されたもので、日本人のDNAは、福岡と山口の弥生遺跡から採取されたものだとの事です。

特に、長江河口(揚子江)付近の江蘇省徐州近郊にある梁王城遺跡という遺跡から出た人骨の歯と、福岡県太宰府の隈・西小田遺跡の人骨が、ミトコンドリアDNAの塩基配列の一部一致を示したとの事で、これは、同じ母系統に属した遠戚関係にあったことを意味しているのだと思われます。

春秋時代の呉・越は、共に百越と呼ばれる、長江周辺からベトナム北部の広い範囲に渡って居住していた民族集団に含まれ、国は違えど、その習俗は似通っていたようです。滇王国も又、百越の一員であると考えられ、それを知っていたからこそ中国王朝は、滇王印と漢委奴国王印に同じ鈕のデザインを採用したのではないかと思います。自分はこの二つの金印の鈕は、"蛇鈕" ではなく、鱗の有る龍、則ち "蛟龍" をイメージした鈕なのではないかと疑っています。


さて、以上述べて来たようなことから考えると、自分的にはやはり、邪馬台国というのは、九州島の何処かに存在していたと考えるのが、一番自然なのではないかなと感じています。

川上梟師に関する情報の中に、元は筑紫の辺りを拠点としていたというものがありましたが、これは、西の朝廷と呼ばれた太宰府の在った、現在の筑紫野市辺りを指していると思われます。筑紫(ちくし)の語源は、この辺りに昔、荒ぶる神が住んで居て、周囲の人間を皆殺し(逐死)にしてしまったことに由来するとされています。

これは、弥生時代の後期に、福岡平野に住む勢力と、筑後川流域の佐賀平野などに住む勢力との間に、激しい戦いの在った事に由来するのではないかと思われ、八十梟師と呼ばれるような猛者達が活躍したのも、この頃だったのではないでしょうか?

両勢力の中間地点に当たるのが、太宰府政庁の在った場所であり、ミトコンドリアDNAの一致する人骨が発見されたという隈・西小田遺跡も、この辺りにある訳です。

卑弥呼という女帝が登場して、福岡と佐賀の熊襲の勢力が共立するような形で都を置いたとしたら、この辺り以外には考えられないという気もします。

実は、この近くには、津古生掛(つこしょうがけ)古墳という古墳が在りました。この古墳の何が重要かと言うと、出現期の前方後円墳の特徴であるとされる、ホタテ貝型の形状をした古墳であったということと、もう一つは、これは、"生掛" という名のつく古墳に共通する特徴のようなのですが、古墳の周辺部に、殉葬者のものと見られる円形/方形の周構墓が幾つも見付かって居るという事実です。

つまり、卑弥呼の墓の特徴である、初めて個人向けに作られた大いなる冢(塚)であること、奴婢百人が殉葬者として一緒に埋葬されたという二点に合致する可能性が在る訳です。

そして、この墓の朱塗りの木棺墓から見付かったのが、方角規矩鳥文鏡という中国製の鏡なのですが、これが京都府(といっても、日本海に面した舞鶴にほど近い京丹後市)の大田南5号墳という古墳から出た、方角規矩四神鏡という鏡と良く似た形であるとのことで、この大田南5号墳の鏡はなんと、魏の年号である青龍三年が記された記年鏡なのです。青龍三年は、卑弥呼の最初の朝貢である景初三年(西暦239年)の四年前に当たります。卑弥呼が、朝貢の返礼に魏から授かったという百枚の銅鏡の中に、これらの鏡が含まれていたのではないかと思わせるようなタイプの鏡である訳です。

残念ながらこの古墳は、宅地造成のため取り壊されてしまっており、現在では見ることが出来ません。また全長が33メートルと、径百余歩と伝えられる卑弥呼の墓にしては、小さ過ぎるとも言えます。また埋葬物の内容からは、近畿の勢力との関係が強く示唆されるとのことで、これ又しっくり来ません(尤も、景行天王と市乾鹿文の寵愛関係の例を考えてみれば、敵対関係には在っても、畿内と九州とで、交易や人々の交流は、盛んに行われていたのかも知れませんが)。

注目すべきは、古墳の周溝などから、当時としては非常に写実的なデザインの鶏型の土器(極初期の古墳なので、埴輪などはまだ無く、壺型の土器に装飾として鶏の頭部の像が取り付けられた物)が三点見付かっているとのことで、朝日の到来を告げるように鳴くというこの鳥の習性からは、やはり太陽信仰に関係する人物が埋葬されていたという可能性を感じさせます。

ところで、こうしてもし自分が思うように、筑紫野市の近辺に邪馬台国があったのだとしても、それは日本全体を統べるような王国ではなく、北部九州を統べる熊襲の国だったということに成ります。

いままで何となく熊襲と聞けば、土着の縄文人のような人達を想像していたかと思いますが、物事はもう少し複雑で、当時の日本には、縄文人、熊襲系弥生人、大和系弥生人といった面々が闊歩して勢力争いをしていたのではないでしょうか。

その熊襲系弥生人の内、福岡と佐賀に居た勢力が、卑弥呼を共立してまとまった後も、熊本に居た勢力は服属せず、畿内からは大和朝廷の勢力が九州平定を狙っている、というような複雑な状況の中、後ろ楯を求めた卑弥呼が、魏に朝貢したというシナリオは、十分に考えられると思います。

で、その卑弥呼の正体は誰なのかと聞かれれば、元は福岡の太宰府の辺りを拠点としていた "姫子" という氏族に属し、長崎・佐賀・熊本を合わせた地域の国造に成ったともいう市鹿文なんて、有力な候補なのではないでしょうか?

と、これでようやく、現時点での自説を、ある程度まとめることが出来たのではないかと思ったのですが、良く考えたら、前々回の記事で触れると約束した、「翰苑」オリジナルの記述の部分や、「翰苑」に残る「広志」の逸文の紹介が抜けたままでした。

ということで、それらは又次回、補足としてまとめたいと思います。

以上、ここまで長々とお付き合い頂き、誠に有り難う御座いました。

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