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「魏志倭人伝」の国々 その4

今回の記事では、前回予告したように、或る程度の纏めと言うか、自分なりの仮説みたいなものを書きたいと思っています。

本当に、そう思っています。

思ってはいるのですが……果たして(笑)

そもそも前回の記事からして、投稿した後に次々と書き直してしまって、結局予定外の方向に書き進んでしまったというか、自分的には、久しぶりに、趣味で古代史の勉強を始めた頃のことを思い出しました。

その頃は、一冊新しい本を読んでは、コロコロ意見が変わってしまうというか、その本を読んでいる間は、その本の説が正しいと思えてしまうと言う、完全にブレブレの状態で学習していました。それはそれで楽しかったのですけどね。

今では、相手の言うことを一度は疑ってみる姿勢、自分の意見をしっかりと持つ大人な態度が、多少は身に付いた気がしているのですが……果たして(笑)

これから自分の仮説を述べる前に、もう一度だけ前回お話しした、邪馬台国所在地論争の根本原因と成っている、"水行二十日" と "水行十日陸行一月" という行程の距離感について考えてみたいと思います。

両方を足すと、丁度陸行30日と水行30日と成るのですが、調べてみたら、江戸時代の街道のような、ある程度整備された道を歩く場合の目安が、1日30キロくらいだったらしいです。食事や休憩、宿泊等の時間も考慮した数字とのことです。

律令の時代に成ると、ある程度主要な街道が整理されて、"駅制" というものが敷かれていたという話も聞きますが、さすがに弥生時代だと、集落と集落の間は、原野のままか、在ったとしても獣道程度のものだったのだろうと思われます。

そんな弥生時代の悪路のせいで、1日にせいぜい10~20キロ程度しか進めなかったと仮定すると、30日で300~600キロ程度進むことになります。

水行の場合、櫂で漕ぐような舟だと、歩くスピードと差ほど変わらず、時速5キロ程度のようです。効率の良い現代の小型ヨットでも、巡航速度は時速10キロ弱のようです。

波風の具合にもよるのでしょうが、1日に徒歩の倍の20~40キロ程度行けたとして、30日で600~1200キロ程です。船旅なら宿泊の必要も無いし、もう少し行けるのでは? という考え方も出来そうですが、灯台も整備されて居ないような夜の海を、陸地沿いに航海するのは、座礁の危険が有りますので、夜は停泊したのではないかと考えます。

古代の航海のペースが一体どの程度のものだったかを考えてみるに、例えば、投馬国の比定地の一つである、広島県に在る鞆の浦などは、瀬戸内海の複雑な潮の流れに対応するための "潮待ちの港" として知られていたりします。

自分は現地にも行ったことがあるのですが、万葉集の時代、太宰府の長として赴任する旅の、往きと帰りの両方に鞆の浦に立ち寄ったという、大伴旅人(おおとものたびと)という人の詠んだ歌が、石碑で紹介されていました。

旅人はここで、太宰府で亡くした妻のことを偲んで幾つかの歌を詠んでいます。

吾妹子(わぎもこ)が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき

大伴旅人 万葉集 巻三(四四六)

(太宰府へ赴任する旅の途中で)我が妻が見た、鞆の浦のむろの木は、ずっと変わらぬままここにあるけれど、その木を見た人はもう居ない

旅人(たびと)が太宰府に滞在したのは、三年程の間ですが、到着して直ぐに妻を失くした旅人にとっては、往きに立ち寄った時と全く変わらぬ鞆の浦の自然の様子と、大きく変わってしまった自分の境遇とを比べて、思うところがあったのでしょう。この時旅人は、晩年の六十七歳、高齢で独り身と成った悲しみからか、都に戻って間も無く、病を得て亡くなっています。

鞆の浦は、江戸時代に作られたという常夜燈がそのまま残って居たりと、時が止まって居るような場所の一つとして今では人気な訳ですが、江戸時代といっても、その常夜燈が作られたのは1859年、ペリー来航から5~6年後の事です。或いは、その頃望まれていたのは、"潮待ちの港" ではなく、夜通し運航する蒸気船の為の灯台、という事だったのかも知れません。

というのは、過ぎた妄想かも知れませんが、ともかく鞆の浦は、動力機関の無かった時代に、海上交通の要衝だったことが偲ばれる素敵な場所です。

↓鞆の浦の常夜燈の Google Maps 情報


そんな訳で、以上のような考察を元に、水行30日と陸行30日だと、合わせて900~1800キロくらいの距離を進んだのではないかと言うのが、自分の予想です。

福岡~奈良は、直線距離でも約500キロ程度はあるので、弥生時代の長距離移動が、想像以上に難儀(潮待ちの間に、辺りを散策したり歌を詠んだりする時間が出来る程の、悠長で自然任せのもの)だったとしたら、北部九州から畿内への移動に、水行30日+陸行30日くらい要したとしても、不思議では無いのかも知れません。逆にこの距離を、九州島内部に納めようとすると、さすがに無理がありそうです(福岡から南の果ての鹿児島まで行っても、直線距離では250キロ以下)。

ですので、 ”南至” の二文字さえ無ければ、皆、邪馬台国とは、畿内の大和朝廷のことだと考えて、なんの問題も無かったのかも知れません。

本当に、つくづく悩ましい最後の2行程なんだよな~と思っているうちに、自分は面白いことに気付きました(と言っても、どうせ例によって他の誰かが、とっくのまに気付いていることなのかも知れませんが……)。

前回の記事で取り上げた「魏略」の逸文ですが、今に伝わっている部分の大半は、「翰苑」という文献に引用されたものが占めています。「翰苑」も又、ほとんどの原典は失われているのですが、中国周辺の異民族について書かれた巻三十の写本のみが、菅原道真で有名な九州の太宰府天満宮に現存しており、今では国宝に指定されています。

その「翰苑」の中に残された「魏略」の逸文にも、実は邪馬台国に至る行程の記事が記載されているのですが、そちらの行程は、伊都国の所で途切れていて、不弥国投馬国はおろか、奴国への行程さえ記載されて居ないのです。

「魏志倭人伝」に記載されている各国の戸数が省略されている上に、行程表も伊都国で途切れているため、資料的価値が低いと言うか、何となく雑だなとさえ感じられる文献なのですが、もしかしたら、「魏略」や「魏志」が参照した元々の文献では、最初からこういう形だったのではないかと、ふと思ったのです。

「魏志倭人伝」には、伊都国について、"郡使往来常所駐" という注釈があり、魏の使者は、伊都国まで行ってそこに駐留したのみで、邪馬台国までは行っていないというのが通説と成っています。ですので、もし「魏略」「魏志」が共に参照した第三の文献があって、それが魏の使者の航海日記のようなものであったとしたら、行程は伊都国までで終わってしかるべきで、奴国から先の行程は、陳寿が自分で得た情報を元に後から付け加えたことに成るのではないでしょうか? そう考えて、奴国から先の行程を記述した部分と、里程や戸数といった詳細が判らない「女王国より北の国」について書かれている部分を省いてみると、その次の文章への繋がりが良く成ったのです。

その次の文章では、"次有斯馬国 次有巳百支国 ……" という具合に、詳細が判らないという、30余国中の残りの国の一覧が続くのですが、伊都国が在った辺りは、現在の糸島半島という地名にその名残がみられ、この半島には、筑前国志摩郡(しまのこおり)が置かれていました。つまり、伊都国の次に斯馬(しま)国が来るのは、丁度ピッタリな訳です。

それともう一つ、残りの国の一覧の記述の末尾には "次有奴国 此女王境界所盡" という一文があるのですが、これは、行程表の途中に出て来る奴国が、詳細の判らない国の一覧の最後にも出て来るために、奴国の重出問題として知られています。同名の違う国だという説も有りますが、元と成った文献の行程表には、奴国は含まれていなかったと考えれば、スッキリします。

とは言え、奴国伊都国の直ぐ隣に在るのも確かで、斯馬国の次に奴国の記述があってもおかしくない位置関係です。それが何故一覧の最後に登場するのかという謎は残ります。しかも、"此女王境界所盡" という注釈付きで、あたかも一番端っこに在る国であるかのような扱いです。

奴国は、ご存知のように、「魏志」に描かれた三国時代より前の時代である後漢の光武帝の代に中国に使者を送り、"漢委奴国王" の金印を授かったことで有名な国ですが、そのことについて記述された「後漢書」の記事でも、"倭国極南界" であるという風に表現されています。

ですが、最初の記事で述べたように、実際の所は、「後漢書」の方が「魏志」より後に書かれており、逆に「魏志」を参考にして書いている部分があるために、狗邪韓国が倭の "西北界" であると記述されたりしていました。

同様にして、"此女王境界所盡" という「魏志」の記述に引っ張られて、奴国が "倭国極南界" であると記述された可能性がある訳です。

「魏志倭人伝」で奴国を "此女王境界所盡" と表現した部分の次に来る文章は、"其南有狗奴国(中略)不属女王" で、奴国の南に狗奴国という国があって、これは女王に属さないとなっています。だから、女王の権威が及ぶ範囲の最南端が、奴国であると解釈されるわけです。

でもそう成ると、奴国より南に投馬国邪馬台国を持って来ることが出来なくなります。「魏志倭人伝」の中だけでも論理矛盾を起こしてしまうのです。

こう成ると、もう何がなんだか良く分からなくなったという感じを持たれる方も居るかと思いますが、記事を書いている本人も良くわかっていないので、無理も有りません(笑)

飽くまでも自分が受けた印象として言わせて貰えば、自己矛盾を起こしている以上、「倭人伝」だけに特徴的な、伊都国から先の国々の方位や里程・日程の部分には、何処かに何かの思い違いが有るのだろうと思われます。

この記事も少し長く成りすぎたので、まとめは次回に繰り越させて頂きたいと思っています。他に、今まで触れなかった「翰苑」オリジナルの記述の部分や、「翰苑」に残る「広志」の逸文などについても紹介する予定です。

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