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「魏志倭人伝」の国々 その3

何だか、展開が早いといいますか、「吉野ヶ里遺跡の発掘作業に進展があって、石棺の大きさが、長辺180センチ、短辺36センチで、幅が一定だったとのこと。つまりは、成人した女性のお墓である可能性が高まったようです(参考:NHK NEWS WEB の記事 吉野ヶ里遺跡 ひつぎの幅が36センチ 女性埋葬の可能性|NHK 佐賀県のニュース)」……なんて書き出しで記事を書いていたら、早くも昨日には、棺の中に遺骨や副葬品は見つからなかったという報道が……(参考:NHK NEWS WEB の記事 佐賀 吉野ヶ里遺跡 発掘調査 石棺墓から副葬品は見つからず | NHK | 佐賀県)。

残念なことではありますが、逆にホッとしている人達も大勢いるかと思います。

これで邪馬台国の所在地論争は今後も続く訳で、吉野ヶ里遺跡の側にしても、邪馬台国時代のものでは無いことを立証するような遺物は、何も出て来なかったとも言える訳で、「謎のエリア」の残り部分の調査は、今後もまだ続けられるようです。

調べてみたら、今回石棺墓の見つかった場所の少し北の方では、過去にも、甕棺に埋葬された女性のお墓が見付かっているようです。棺内は、やはり朱で塗られており、絹織物を纏い、腕には合計で36個もの貝製の腕輪をつけていたとのこと。

このゴホウラという貝で作られた腕輪のことは、自分が見に行った企画展でも一つの見所にされていた記憶があります。吉野ヶ里遺跡の在る有明海周辺では採れない物で、分析の結果、奄美や沖縄地方産であることがわかったとのこと。弥生時代から、有明海周辺の集落と、南西諸島の人々との間で交易が行われていた証拠だと考えられているようです。

更に、甕棺とその上に載せられた石蓋の間の目張り粘土の中から、小さな銅鏡(直径7.4センチの連弧文鏡〈内行花文鏡〉と呼ばれるもの)が一つ見つかっていて、これが、前漢時代に中国で作られたものだと考えられているようです。しかもこの銅鏡は、いわゆる銘鏡と呼ばれるもので、その刻まれていた銘文が次のようなものらしいのです(参照:吉野ヶ里公園内に展示されている、レプリカの銅鏡に関する解説文)。

「久不相見、長毋相忘」 (長く会わなくても、お互い忘れないようにしましょう)

これを自分的に分析すると、遠く旅立つ人に向けて、自分の事を忘れないでいて欲しいと願いを込めて作った物に思えます。中国で作られた鏡ということですから、元々は日本という遠い海の向こうの国へと旅立つ人に贈った物を、その人自身か、或いはその人の子孫に当たる人が、死出の旅路に赴くに際して、鏡を贈った人と同じ想いを抱いていた遺族が、副葬品として埋めたのではないでしょうか。

何だか、昔の人は皆詩人だなぁ、と思ってしまいますね。


さて、今回の記事では、前回予告したように、不彌國投馬國と、最終目的地の邪馬壹國とのつながりについて考えてみたいと思っています。

邪馬台国の所在地論争が迷走する理由の一つに、「魏志倭人伝」に書かれた里程の問題が有ります。どういうことかと言うと、「魏志倭人伝」では、国と国との間の距離と、位置関係が、次の様に記載されているのです。

帯方郡から狗邪韓国 → 水行        七千餘里

狗邪韓国から對馬  → 海を渡る    千餘里

對馬から一支    → 南に海を渡る  千餘里

一支から末盧    → 海を渡る    千餘里

末盧から伊都    → 東南に陸行   五百里

伊都から奴     → 東南至     百里

奴から不彌     → 東行      百里

上に挙げた里程を全部合計すると、"一万七百余里" と成りますが、「魏志倭人伝」では、里程や戸数のわからない残りの国々を列記したあと、締めくくりに、"帯方郡から女王国までは、一万ニ千余里" である、と明記しているのです。これを単純に引き算すると、残りは千三百里余りと成る訳で、不彌國から投馬國を経て邪馬壹國に至るまでの距離は、千三百里程度で、対馬と壱岐の間の距離より若干遠い程度であると考えられる訳です。

ところが、不彌國から邪馬壹國までの道筋が、実際にはどう記述されているのかと言うと、

不彌から投馬   → 南至投馬國  水行二十日

投馬から邪馬台国 → 南至邪馬壹國 水行十日陸行一月

と、成っているのです。今まで里程で記載されていた国と国との距離が、突然 "所要日数" に変わってしまっています。

問題はそれだけでは無くて、水行で二十日という距離は、常識的に考えれば、相当遠い距離ということに成ります。

不彌國までは、九州の北部を細かく刻んで移動しており、おおよその距離感が掴める伊都國奴國の間で言えば、直線距離で恐らく25キロ程度で、たとえ獣道のような悪路を歩いたとしても、一日もあれば着く距離ではないかと思われます。

それが水行で二十日かかると成ると、一気に畿内近辺まで行けそうな訳ですが、その場合は "南至" が問題と成り、畿内が九州より南に在るということに成ってしまうのです。

邪馬壹國に至っては、そこから更に南に、水行十日と陸行一月する訳で、邪馬台国ジャワ島説とかが出て来る原因に成っています。

不彌國に関しては、奴國から東百里に在るということから、福岡市の東隣に在る宇美(うみ)町という所に比定する説が有力なのですが、ここは完全に内陸に在る場所なので、そこから投馬國に向けて "水行する" とは、一体どういうことなのかという問題が出て来ます。

有明海周辺を邪馬台国に比定する場合、この水行の多さがネックに成ると思われ、河川を伝って移動したと考えるか、長崎・島原半島沿いに船で迂回して有明海に入るコースを想定するかのいずれかに成ると思いますが、どちらにせよ、どことなく不自然さが残ります。

と言う訳で、邪馬台国への道筋の最後の2行程のせいで、どうやってもピタリと嵌まらないパズルが出来上がってしまっているのです。

実は、「魏志倭人伝」の著者である陳寿(ちんじゅ)という人物は、実際に日本を訪れたことが有る訳ではなく、様々な文献等により得た情報を纏めて「魏志倭人伝」を書いたと考えられており、不彌國に至るまでの里程付きの記事と、そこから先の所要日数を記載した記事とでは、情報源が異なるものを繋ぎ合わせた可能性も考えられます。

「魏志倭人伝」では、倭人の男子が、大人も子供も "黥面文身(げいめいぶんしん)"、つまり "入れ墨" をしているという情報を紹介すると同時に、中国の夏王朝の六代皇帝である少康の子が、長江下流域(揚子江)の会稽(かいけい)という所の領主と成った際に、蛟龍(こうりゅう)の害を防ぐために入れ墨をするという習俗を始めたという故事を紹介しています(蛟龍は、鱗の有る龍という架空の生き物らしいのですが、長江下流には、揚子江鰐〈ようすこうわに〉という中国固有のワニがいるらしいので、もしかしたらそれを指しているのかも知れません)。

倭人も潜水漁を行う際に、大魚(鮫のことか?)や水鳥の類いを追い払うために入れ墨をしたのが始まりと言うし、地理的にも倭は会稽の東に在るようだから、何らかの関係が有るのでは、と匂わせるような記述を陳寿も採用しているのです。

一つ不思議なのは、中国に倭人の使者が来ると必ず、自分達は "大夫" だと名乗ったと陳寿が書いている部分があるのですが、同じ内容が、「魏略」と呼ばれる文献の逸文(原典は失われてしまったが、他の文献に引用されていたお陰で現代まで伝わっている文章)では、自分達は "太伯" の子孫であると名乗った、と成っているのです。

陳寿の記述は、前漢時代の出来事について書かれた「漢書地理志」という文献の中に書かれていることを、そのま継承したのだと思われます。

「魏略」は、陳寿が「魏志倭人伝」を書いた際に参考にした文献であると、一般的には理解されているのですが、そうだとすれば、「魏略」において "大夫" が "太伯之後" に訂正されていたのを、陳寿は受け入れなかったことに成ります。

少康の子が領主と成って入れ墨の習俗を始めた後の時代、会稽の辺りでは、北のと、南の(えつ)という国に分かれて激しく争うように成るらしいのですが、太伯というのは、その呉の国の建国者の名前です(この場合の呉は、魏呉蜀の三国時代の呉ではなく、"呉越同舟" という四字熟語にも成っている、春秋時代の呉の国ということらしいのですが……ややこしい~~)。

つまり、「魏略」逸文の文章は、越との戦いに敗れ、国を失ったという呉の王族が、難民として日本に逃れたことを想起させるような文章に成っている訳ですが、この考え方は、陳寿には受け入れられなかったようです。

ちなみに、前回の記事で問題にした、"其の北岸" という表現も「魏略」逸文には無く、陳寿が付け加えた可能性があります(もっとも、「魏略」・「魏志倭人伝」が共に参照している第三の文献のようなものがあって、「魏略」の方が、「其北岸」の部分を省略したという可能性が無い訳では無いですが)。

とにもかくにも、以上のようなことから、陳寿の頭の中では、日本は会稽と関係が深く、その場所も実際より南の、会稽の東、上海の東方海上辺りにあると思い込んでいたフシがあるのです(九州島南端や沖縄地方であればその範囲に入りますが、畿内だと当てはまりません)。

ですので、水行二十日以降の記述も、その認識に合うようにバイアスが掛かっている可能性も有るかと思います。要は、邪馬台国の所在地を知る為の最大の手掛かりである筈の文献が、迷走の根本原因と成ってしまっている訳です。

以上、何の結論もオチも無いような話に成ってしまいましたが、自分が思うに、これこそが邪馬台国所在地論争のらしさと言うか、考えれば何かが分かりそうなのに、考える程に分からなく成るというこのもどかしさが、次々と新たなチャレンジャー達を呼び込む理由であると思っております。

次回の記事では、何か自分なりの纏めのようなことを、書ければ書いてみようかなと思います。

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