むかつく半島

もう随分前のことですが、テレビのクイズ番組を見ていて驚いたことがあります。

確か、3択か4択の選択肢の中から、実在する地名を選んで答えるという問題だったかと思うのですか、どれも実在しそうにない変な名前ばかりでした。

残念ながら、他の選択肢が何だったか今では覚えていないのですが、そのクイズの正解が、“むかつく半島”だったんです。

漢字だと向津具半島と書くようで、山口県にある実在の地名ということでした。

いかにもクイズ番組らしい問題だったのですが、この時の自分は、この人をおちょくったような地名が実在することに驚いたのではなく、“向津”と名のつく地名が、山口県に在るという事実に驚いたのでした。

理由を説明すると少し長くなるのですが、当時自分は、日本の古代史に特に興味を持っていた頃で、きっかけは高木彬光という推理作家の方が書いた「邪馬台国の秘密」という作品でした。

この作品は、ベッド・ディテクティブという形式の作品で、探偵がベッドに寝転がったまま、推理力のみで謎を解いて行くというストーリーになっているのですが、病気で入院した神津恭介という名探偵が、空いた時間に取り組むことになった課題がなんと、“邪馬台国の所在地は何処か?”という壮大なものだったのです。

推理小説と言えば普通、作家自らが創作した謎を、自らが生み出した探偵が解いて行くという、言うなれば、謎は解けて当たり前という前提がある訳ですが、この作品が取り組む謎は、実際の日本の歴史に関わるもので、本当に解けてしまった日には、考古学上の一大事件と成るような内容な訳です。

しかもそんな難題を、ベッド・ディテクティブとして、純粋に頭だけを使って解き明かそうというのですから、そんなこと本当に出来るの? と興奮しながら読んだ覚えがあります。

先に断っておくと、邪馬台国の所在地が何処かというのは、今でも未解決の問題です。大きくは畿内説と九州説とに別れ、徐々に畿内説が有利に成りつつあるという見方もありますが、決定的な物的証拠(例えば邪馬台国の女王“卑弥呼”が貰ったという金印など)は、まだ見つかっていません。

でも「邪馬台国の秘密」を読んだ時の自分は、途中からもう、これだ、これが正解に違いないとか、勝手に思い込みながら読んでいました。

まぁ、何の専門知識も無い理科系人間が興味本位で読んでいる訳ですから、無理も無い訳ですが、それくらい説得力のある内容でした。

実際考古学の専門家の中にも、作品中で神津恭介探偵が出した結論と同じ場所を、既に自説として掲げていた方も居たそうです。興味の湧いた方は、是非ご自分でも読んで確かめてみて下さい。

で、話が長くなってしまったのですが、この邪馬台国の所在地問題と、山口県の向津具半島とが、どう関係するのかと言うと、この手の推理をする時は、必ずと言って良い程、古代の文献に出てくる地名と現存する地名との対応関係を考察するのです。

専門用語だと、文献上の地名を現存の地名に結びつけることを、“比定する”というらしいのですが、アマチュア考古学者(?)の自分などは、それっぽい地名に出会う度に、“これはきっと○○という文献に出てくる✕✕と言う地名に関係するに違いない”とか言って、素人推理を楽しんだりするのです。

ここまで書いたら、自分の言おうとしていることが何となく分かって来たという方も居られるのではないかと思いますが、山口県に“向津”と名のつく地名があるのならば、当然関係が有るのではないかと思わせる古代の文献上の地名があるのです。

それが、「日本書紀」に出てくる向津野大済(むかつののおおわたり)です。

向津野大済は、仲哀(ちゅうあい)天皇という天皇の業績について記述した章に出てくるのですが、この天皇の治世においては、日本はまだ完全に統一されていたとは言えず、地方に遠征しては反抗する勢力を討伐するということを繰り返していたようです。

その仲哀天皇が、九州に居た熊襲(くまそ)の勢力を討伐するために、現在の山口県の辺りまで遠征して来た際に、そこで一旦、穴戸豊浦宮(あなとのとゆらのみや)という行宮を置くことに成りました。

それから数年が経って、仲哀天皇が九州入りしようとした時、岡県主(おかのあがたぬし)の祖先であるという地方豪族の熊鰐(わに)という人物が出迎えにやって来て、天皇に魚や塩を採るための土地を献上しました(岡県は、福岡県に在る遠賀(おんが)川という川の河口辺りを中心とした地域だったようです)。

この時、熊鰐が献上したという土地の範囲が、穴戸(あなと)から向津野大済までを東門とし、名護屋大済(なごやのおおわたり)を西門とするというものだったのです。

名護屋大済は、北九州市の戸畑区にある名護屋崎(なごやさき)という場所に比定されています。

現在は製鉄所の敷地である埋め立て地の一部と成り、名護屋緑地という名の公園として整備されていますので、岬だった頃の面影は無いようですが、昔の地図を見ると、南北に伸びた小さな半島があって、その付け根の辺り一帯を名護屋、先端のハートの形をした島の部分を名護屋崎と呼んでいたようです。

一方、東門であるとされる“穴戸から向津野大済まで”という範囲ですが、穴戸が、福岡県と山口県の間にある“関門海峡”の古名であることは、まず間違い無いと思われます。瀬戸内海への戸口にあたる海峡です。

問題なのは、向津野大済の方で、自分が良く読んでいた岩波文庫版の「日本書紀」の注釈では、現在の大分県の宇佐市の辺りにあった、“宇佐郡向野郷(うさのこおりむくのごう?)”という場所に比定する説が示されていたかと思います。

この説を取ると、関門海峡から大分県宇佐市までに及ぶ広大な土地が献上されたことに成り、天皇の遠征軍の食料確保の為にしては、少し広過ぎないかと、素人ながら疑問に思った記憶が有ります。

ですが、他に比定できそうな地名も近くに見当たりませんし、宇佐市には宇佐神宮という有名な神社があって、その祭神の一人が、仲哀天皇の皇后である神功皇后(じんぐうこうごう)であったりします。

神功皇后は、仲哀天皇の遠征に同行しており、行宮にも一緒に滞在したことが「日本書紀」には記されています。

自分が仲哀天皇の行宮のことを良く覚えていたのも、この人物が関係していて、神功皇后は、実は邪馬台国の卑弥呼なのではないかと言われている人物の内の一人なのです。

そういった事実に加えて、関門海峡から大分県宇佐市までという範囲が、古代の豊前(ぶぜん)の国の沿岸範囲にほぼ一致するという事実もあることから、神功皇后は豊国(とよくに)の女王で、卑弥呼ではなく、その後継者であるとされる台代(とよ)という人物に比定出来るのではないかと言う説もあるのです。

と、ここで、少しばかり話が長く成り過ぎそうな気配に成って来ましたので、邪馬台国のことは、また何か別の機会に書こうかと思います。

とにかく、そういう経緯で、記憶の何処かにあった地名のことが、クイズ番組の答えによって呼び起こされたという話です。

向津具半島の存在を知ってからは、断然こちらが、向津野大済の比定地であると思うように成りました。山口県の日本海側に在る半島で、同じく日本海側に面した名護屋崎からも、それ程遠くない場所に在る(宇佐に比べれば、という話ではありますけど……)ので、条件的にもピッタリです。

今現在ネットで向津野大済を検索してみますと、「日本書紀」以外の幾つかの古文書の記載などを元に、向津具半島が、この向津野大済のあった場所であるという説を述べられている方が、既に居られるようです。

ですから、残念ながら、自分がこの説の一番乗りという訳ではなさそうです😅

なのですが、素人考古学者(?)の自分としては、些細な発見でも満足していますし、現地に足を運ぶ機会が無くとも、ベッド・ディテクティブとして、あれこれ考えるだけでも楽しいなと、常々感じております。

尤も、今振り返って見れば、専門でも何でもない分野に関して、ここまで細かいことを追及しようとして居たのかと思うと、今更ながらですが、自分はもしかしたら、かなり変人の部類に入るのではないかと、多少びびっている次第です😅

と、言いつつも、これに懲りずに、また似たようなことを書こうかなとも思っていますので、どうか、素人が興味本位で適当なことを書いているな、位の軽い気持ちで読んで戴けたら幸いです。

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