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「魏志倭人伝」の国々 まとめ その1

かなり間が開いてしまいましたが、私事ながら、還暦の身でこの暑さの中、週三,四日とバイトしておりまして、さすがに筆も止まっております。どうかご容赦願いたいのと同時に、この暑さの中、世の中が止まらないようにと頑張っておられる皆さま方には、まことにご苦労様と申し上げたい次第です。


今回まとめに入るに当たり、まずはこれまでの記事から漏れた幾つかのことを補足して置きたいと思います。


補足1 狗邪韓国

始めに、「『魏志倭人伝』の国々 その2」の記事の中で書いた狗耶韓国のことについてですが、陳寿の書いた「三国志」の中には、朝鮮半島の状況について書かれた部分(「魏志韓伝」と呼び慣らされているもの)もあることを思い出して調べてみました。

それによると、当時の朝鮮半島には、馬韓・辰韓・弁韓という3つの国(小国家のグループ?)があったようですが、その内の弁韓という国を構成する12の小国家群の中に、弁辰狗耶という国が有りました。

これが恐らく狗耶韓国と同じものだろうと自分は考えます。国名に弁辰と付いていて、弁韓と辰韓が混じったような名に成っていますが、これには複雑な経緯があるようです。

元々馬韓のみが存在していた朝鮮半島に、中国の王朝による万里の長城建設の苦役から逃れて来たという難民が流れ込んで来た際、未開の地だった半島の東部を与えて、新たに国を創らせたのが辰韓の始まりで、辰韓という名には、"秦韓" という意味も込められていたようです。

辰韓は、"辰王" により統治されていましたが、"辰王" は馬韓人であり、王と名が付いてはいても、馬韓の関与無しで自律的に統治は出来ないような存在だったようです。

その辰韓の領域だった朝鮮半島東部に出来た小国家群の中に、言葉と風習は似通っているが、宗教儀式にやや違いがあるグループが存在していて、それが弁韓と呼ばれていたようです。

残念ながら「魏志韓伝」には、どのような経緯で辰韓から弁韓のグループが分かれて行ったのかまでは、記述されておらず、最初に辰韓6ヶ国が在り、それが分れて12ヶ国と成って、弁韓も同じく12ヶ国在るとだけ書かれています。

この24ヶ国は、明確な区分けも無く雑居していたようで、国名の一覧上も、辰韓の国と弁韓の国が入り組んで並んでいます。その一覧上で区別をつけるために、弁韓に属する国には、あえて弁辰という前置詞がつけられたというようにも見えます。

後に辰韓が、斯盧(しら)を中心にして新羅(しらぎ)と成り、弁韓が狗耶国を中心にして金官加羅加耶)という国に成って行くに連れて、北の新羅と南の加羅という住み分けが進んで行ったようで、最初から確と朝鮮半島南岸に、弁辰狗耶或いは狗邪韓国と呼ばれる国が存在していて、それが実は倭人の国だったというような解釈は、少し無理がありそうです。

弁韓に関しては、辰韓と風俗や言葉は似通っていたとありますので、その弁韓の中心的立場の国であった弁辰狗耶が、倭人の国であったとは考えにくいでしょう。

但し、「魏志韓伝」においても、倭人の国が朝鮮半島に在ったと思わせるような記述があるのも確かで、24ヶ国の一覧上、最後から3番目に出て来る弁辰瀆盧(とくろ)という国に関して、"其瀆盧国接界" と、はっきり書かれているのです。もちろん、"接界" が、即地上で国境を接していることを意味するとは限らず、海上で領海を接している場合もあり得る訳ですが、辰韓に関する記述の中には、"國出鐵韓濊倭皆従取之" という記述があって、韓・濊(わい、辰韓の北東に在った国)・倭の3国が、皆同じ様に辰韓で産出する鉄を採取していたというのです。

発掘調査でも、金官加羅の中心地であった金海という場所で見付かった貝塚の下層から、北部九州製の甕棺墓などが見つかったり、洛東江という川の流域の製鉄所跡の遺跡から、倭製土器のみが見つかったりと、朝鮮半島で倭人の暮らしていた痕跡が多数見つかっているようです。

朝鮮半島の南部は、入り組んだ海岸線や、小さな島々から成り立っているので、どうやら、その一部の地域に倭人が住み着いていたと考えられるようです。一つの島から集中して倭人の遺物が出土する例もあるそうですが、周囲4キロ程度の小島ということで、国があったとまでは言い難いかと思います。

弥生時代には、辰韓そのものがまだ小国家に別れ、それぞれ違う宗教儀式を行っているような雑居状態に在った訳で、その中に混じって、交易や製鉄などの活動を行っていた倭人が、朝鮮半島南東部に多数居たために、その何となく曖昧な状態をもって "界を接す" と表現したのかも知れません。

弥生時代から古墳時代へと移り変るにつれ、日本とより深い関係が出来たのが、馬韓伯済国を中心として出来たと考えられる百済(くだら)の国で、日本の前方後円墳と同じ型の墓が大量に見付かったと話題に成ったのも、百済の南、朝鮮半島の南西部に当たる場所です。

恐らく、大和朝廷(或いはそれより前の奴国の頃から?)は、朝鮮半島の鉄を確保し続ける必要に迫られ、空白地帯だった朝鮮半島の南西部を百済(馬韓?)から借り受けるか、割譲させるか何かして、任那(みまな)と呼ばれる進出拠点を作り、徐々に新羅と敵対関係に移って行ったのではないかと考えます。

その後、新羅百済は、その北方に在った高句麗(こうくり)という国に臣従した時期があったようですが、その高句麗の王である広開土王という人物の業績を記述した碑文である「広開土王碑」により知ることが出来るのが、391年に突然、倭が海を越えて攻めて来て、百残(百済)、新羅、加羅を破って臣民としたという事実です。

"破った" という言葉を用いていますので、これより以前に加羅が倭人の支配する国であったのでは、話が合わなくなります。

この時は、新羅の訴えに応じた高句麗が百済を攻め立て(396)、再度の忠誠を誓わせたのですが、言葉を翻して百済が再び倭と結んだ(399)ので、400年に、五万の兵をまずは新羅に送って倭人の勢力を一掃したとされています。

その後404年に、当時高句麗が支配していた、かっての魏の帯方郡に当たる地まで攻め込んで来た倭人を撃退し、407年には、逆に高句麗が百済に攻め入ったようですが、6つの城を落とすに留まり、百済の政権を倒して倭との同盟を解消させるまでには至らなかったようです。

長く成りましたので、この辺りでまとめますと、倭人が朝鮮半島で武力を行使して支配権を得ようとしたのは、卑弥呼の時代から1世紀半も後の事であったと思われます。

補足2 記銘鏡

続いて、「『魏志倭人伝』の国々 その3」の記事の中で紹介した「久不相見 長毋相忘」という銘の入った記銘鏡についてですが、同じ銘の入った同じタイプの鏡が、中国国内の遺跡から見つかっているという話が有ります。

吉野ヶ里遺跡の展示資料によると、鏡が見付かったのは、中国雲南省にある石寨山(せきさいざん)遺跡という所の七号墓からだそうです。石寨山遺跡は、滇池(てんち)と呼ばれる湖の畔にあって、そこの六号墓からは、"滇王之印" と刻まれた金印がみつかっており、滇王の墓だと考えられているそうです。

雲南省は、ベトナム等と国境を接する中国の南西部にある省ですが、ここにかって存在した滇王国は、前漢の武帝により攻め込まれ、降伏してその属国と成ったのだそうです。その冊封(中国皇帝が辺地の統治を委任すること)の証に金印が授けられたと考えられる訳ですが、後に漢を再興した後漢の光武帝は、奴国王に金印を授けています。

これも奴国王が、滇王国の前例を知っていて光武帝に接触した可能性が考えられる訳です。

実は、福岡県の志賀島で見付かった奴国王の金印には、根強いニセモノ説が有りました。江戸時代の、丁度古代史の研究が盛り上がっていた時期に、畑を耕していた農民が偶然見つけたという事実に、疑念がもたれていたのです。

特に、金印の裏面にある、紐を通す為の取っ手である鈕(ちゅう)の部分が、蛇を模したデザインに成っていることが問題視され、中国国内で見付かった印の中に、そんなデザインのものは無いと指摘されていました。

ところが、1955年に見付かったこの滇王之印の鈕も、蛇を模したデザインが使われていることが判り、中国王朝が周辺地の王を冊封する際に用いる共通のデザインではないかと考えられるように成ったのです。

そんな奴国との共通点を持つ滇王国の王墓から、吉野ヶ里遺跡と同じ型・銘の銅鏡が見付かっていると聞けば、やはり何らかの関係を想像したく成ります。

ただどうも、その後調べた所では、残念ながらこの鏡の銘は、"決まり文句" のようなものであった可能性が高いようです。

"遠い未知の国である日本に赴く人に向けた言葉だろう"、なんて偉そうに書いて置いて申し訳ないのですが、例えば、福岡県飯塚市にある立岩遺跡で見付かった弥生時代の甕棺墓列からは、鏡のタイプこそ違えども、同じ「久不相見 長毋相忘」の銘文が入った銅鏡が見付かっています。

また同じく、福岡市西区にある吉武遺跡群の一つである吉武樋渡(よしたけわたし)遺跡の甕棺墓からは、「見日之光 久不相見 長毋相忘」という銘の入った鏡が見付かっています。

いずれの場合も墓に埋葬されていたのは女性と考えられているようです。

立岩遺跡や吉武遺跡群は、同じ北部九州ではあっても、近隣の奴国伊都国程の規模には至らなかった中堅の集落と考えられていますが、立岩遺跡が、筑前国穂波(ほなみ)郡の範囲に含まれることから、ここを不弥国に比定する説が有ります。

また、吉武遺跡群の吉武高木遺跡からは、現時点で最古のものとされている、銅鏡・銅剣・勾玉の、いわゆる "三種の神器" がセットで埋葬された木棺墓が見付かっています。丁度、伊都国奴国の中間地点に当たるような場所に、そういう勢力の居たという事実は、興味深いことに思えます。

吉武遺跡群は、同じ福岡市内でも、東側に集まっている奴国関係の遺跡とは異なり、福岡市西区の、室見(むろみ)川と日向(ひなた)川という二本の川に囲まれた場所に有ります。筑前国早良(さわら)郡の置かれていた場所に当たるため、早良国というふうに呼ばれることも有りますが、30余国の一覧の中には、名前の類似だけで比定できそうなものは見当たらないように思います。

三種の神器のセットは、伊都国の遺跡であると考えられている平原(ひらばる)遺跡などでも見付かっており、甕棺墓同様、北部九州を起源とするもののようです。

こういった遺跡から出て来る遺物の共通性を考えると、福岡平野と佐賀平野とで、同じ文化を共有する一団の居たことは間違いないように思われます。そして又、あちらこちらで、"" というキーワードに関係した女性の有力者の存在が感じられます。女王卑弥呼の死は、そういった文化を共有する国々に混乱と争いをもたらし、男王を擁立しても、それは決して収まらなかったという訳です。

補足3 呉の末裔

補足の最後は、同じく「『魏志倭人伝』の国々 その3」の記事の中で紹介した、呉の国の王族の末裔が、日本にやって来た可能性があるという話についてですが、それを裏付けるような資料があるというような話があります。それが、「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」という文献です。

「新撰姓氏録」は平安時代の紳士録のようなもので、古代史マニアの中でも中級者から上級者向けのものと言って良いものだと思うのですが、他の名の知られた文献に比べて、内容に信憑性が薄いという印象が有ります。

と言っても、いわゆる偽書の類ではなく、平安時代に嵯峨天皇の命で編纂された由緒正しいものという点に疑いは無いのですが、確か、「秦氏(はたうじ)は秦の始皇帝の末裔である」という記述があるのが、この文献だったと記憶しています。
→その後検索して再確認してみたところ、撮影所で有名な京都の太秦(うづまさ)に縁のある、秦太秦公宿祢(はたのうずまさこう すくね)の出自が、"秦始皇帝三世孫孝武王也" と成っており、仲哀天皇八年に、始皇帝の五世孫である融通王(弓月王)が来朝したのが始まりであるというように書かれていました。

その「新撰姓氏録」にて、春秋時代の呉の最後の王である、七代目夫差の末裔であるとされているのが、松野連(まつの むらじ)という氏族なのです。それが事実であるかどうかは、今では確かめようも無いことですが、少なくともそうだと自称している一族が平安時代の日本に居たこと、従って、前漢・後漢・魏の時代に中国に渡った際に、自ら「自分達は呉の太伯の子孫である」と名乗ったという倭人の使者達が、この一族に関係する者達であった可能性は大いにある訳です。

更にマニアックな情報に成りますが、「諸系譜」という幕末から明治にかけて編纂された文献に載っている松野連の家系図によると、夫差の子であるが、孝昭天皇三年に来朝し、”火国山門菊池郡" に住んだのが松野家の始まりとされています。

”火国山門" とは即ち肥後国山門(やまと)郡を指し、九州説で最も一般的な邪馬台国の比定地の一つです。"菊池" という場所もまた一つのポイントで、3番目の記事で取り上げた、奴国の南にあって、女王に帰属しないとされた狗奴国ですが、"其官有狗古智卑狗" という記述が「魏志倭人伝」にあり、"狗古智卑狗" という役人が居たらしいことが判るのですが、それが実は "菊池彦" で、菊池の首長のことではないかという説があるのです。菊池は、熊本に実在する場所で、古くは「久々知」、すなわち "くくち" と呼ばれていたようなのです。

ですので、この夫差の子である忌が住んだという "火国山門菊池郡" という場所は、相当に意味深な場所である訳です。

更に、忌の子であるというは、"居干委奴" と注釈がされており、自分の解釈では、菊池郡のある狗奴国から、北隣の奴国に移って、王のような存在に成ったということになります。

そして、順の六代後の宇閥(伐の部分は、原文では "戈" 〈ほこ〉)が、漢の宣帝に使いを送り、更にその二代後の熊鹿文(くまかや)に至っては、なんと後漢の光武帝に使いを送って、私的に漢と通じ、印綬を得て潜(ひそか)に委奴国王と称したと記述されているのです。

漢の時代の日本についての記述は、先に挙げた「漢書地理志」の中に、"夫れ楽浪海中に倭人あり。分れて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ" という有名な一文がある訳ですが、「諸系譜」ではより具体的に、宣帝の地節二年に遣使したと書かれています。地節二年という年は、宣帝の後ろ盾であった霍光という将軍が亡くなり、宣帝が親政に乗り出す節目の年だったようです。

以上これだけでも十分に衝撃的な内容な訳ですが、更にもう一つの驚きの記述があって、呉の太伯の姓は、"姫" で、つまりは "姫氏" な訳ですが、熊鹿文は、日本では "姫子" という姓(かばね)を用い、位牌の名として卑弥子の字を当てていたということを示唆するような注釈が付いているのです。

参考: 諸系譜 第2冊 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

驚くべき記述は更に続き、熊鹿文の三代後には、ついに伊聲耆が登場します。卑弥呼の最初の朝貢である景初二年(238)から5年後の、正始四年(243)に送られた二回目の使節の一員の中にこの名があります。家系図には、ご丁寧にも、"大夫" という注釈が打たれていますので、「魏志倭人伝」に出て来るのは、この人だよと暗に主張している訳です。

こう成ってしまうと、さすがにこの家系図を全て信じて良いのかという話に成ります。この家系図が正しいとすれば、邪馬台国問題が九州説で決着し、更に勢い余って、金印を貰った奴国王がどういう出自だったかという問題まで解決してしまう訳です。

また話が長く成るので、ここでは深く説明しませんが、中国の史書には登場するが、歴代の天皇の誰に相当するのか不明とされて来た "倭の五王" という人物達が居て、その五人も全て松野連の家系であると、この家系図には記されています。

この家系図は、大和朝廷と並行して、九州に倭国王朝が存在していたことを前提に記述されているのです。そして、その倭国王朝は、大和朝廷側の史書には、"熊襲" として現れるのです。

先に述べた熊鹿文には、もう一つ別の呼称として、"熊津彦" という名前が添えられていますし、二代後の庶流孫に取石鹿文(とろしかや)という人物がいるとされているのですが、この人物の号が "川上梟師(かわかみのたける)" となっていて、これは別名 "熊曾健(くまそたける)" 、すなわち日本武尊(やまとたけるのみこと)と戦って殺されたという熊襲の酋長の名前なのです。

とここまで、何とかこの記事中で纏め上げたいと頑張ってみたのですが、補足を書いている内にこの長さに成ってしまいましたので、「まとめ その2」に続けることにいたします(苦笑) 次で必ず完結させます!……多分(笑)

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