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外国に着いたら深呼吸をするはずだった

「私は海外に到着したんだぞ~!!」
じんわりと海外に来た事実を実感したくて、空港から一歩外に出たら深呼吸をするつもりだった。
これから旅が始まる喜びみたいなものを体の中にいれてみたかった。

わざわざこんな恥ずかしいことをぶっちゃけてしまった理由は単純だ。
出来なかった。そんな余裕は微塵もなく心細さと不安しかなかった。

深夜のケプラビーク空港は恐ろしかった。
放課後の誰もいない学校の廊下と似た感じだ。
人が賑わっているに違いない場所に不自然に人がいないことはとても不気味だった。

「荷物、荷物を受け取らなくては。」
異国のなかで安心感を得るためにとにかく自分の荷物を目にして安心したかった。
「君が一緒に海を越えてくれて嬉しいよ。」とキャリーバッグに一声かけてやりたかった。

こっちの不安感なんて欠片も解ってくれなさそうなパフィンのバルーンがこちらを見ている。
こっちを見るな、私は安心して早く寝たいんだ!
今思えば何と気の小さい女なんだろう。
疲れているとなんでも腹が立ってしまうのだ。

ボトン、ドスン
ボトン、ドスン
という鈍い音がする。
滑り台みたいなところから荷物が落ちて、回転寿司みたいにスーツケースが回っていく。

森美術館で開催される若手アーティストの展示でこんなインスタレーションを見たな。
あのときは黒い粘土の固まりがモッタリと回るやつだったな。
次の「ボトン」が自分の荷物でありますように。

瞳をグッと開いて滑り台を睨んでいるとようやく自分の荷物が落ちてきた。
ひとまず第一関門はクリアだ。びびらせないでよ。

次のステップ。
レイキャビクへ向かうバスに乗らなくてはいけない。
深夜に到着した手前、ここでバスに乗れなかったら?
嫌なことを考えるのはやめよう。

けれども焦りを止められない。
予約したバスのピックアップタイムまであと5分と迫っているのに館内のスペースにスタッフが来ないのだ。
ホテルの関係者やら、ほかのツアーバスのスタッフはにこやかにお迎えをしているのに私のバスだけは何もない。

嘘でしょう、なんで来ないの?5分前よ?
「乗り場は館内を出た駐車場の先です」
無慈悲な一文がバウチャーに記載されていることに気づいたのはそのときだった。
私、もしかしてすごく重大なミスしちゃった?
ああこれはダメ元で外に出てみるしかない。
冷や汗が止まらないまま、なりふり構わず自動ドアを走り抜けた。

深夜のアイスランド、初めての海外第一歩は突然に始まってしまったのだ。
グッバイ記念すべき海外第一歩。

広島の山に上ったときに同じにおいを感じたかもしれない。
澄んでいて何もしなくても肺の奥まで染み込んでしまうようなヒンヤリした空気があたりに満ちていた。あたりは真っ暗で、煙草禁止の看板の横で男女が紙タバコを吸っていた。

ひとりぼっちの寂しさを感じたけれど、清らかな空気が嬉しくてようやく元気が戻ったのだ。
元気が戻ったらなんだか笑えた。
大切な一歩は「バスが来ず慌てふためく一歩」だったのだから。

結局はシンプルな理由だった。
私が時差に気づかなかったのだ。
イギリスで合わせたからいいだろうと余裕をこいていたが、プラス一時間つまり日本との時差は9時間だったのだ。

あらまあ。思わず1時間も余裕ができてしまった。
改めて深呼吸をしてみると静かに澄んだ空気が入ってきたとき、海外に来たんだなあと落ち着くことができたのである。

結局バスは集合時間の25分遅れでやってきた。
別に早起きの必要もないし、宿まで送ってくれるんだから良しとしよう。
五体満足、荷物も無事に私はこうして旅を始めることができたのである。

うっかり呼吸してしまったはじめの一歩の、あの澄みきったキリリとした真夜中の空気を私は一生忘れたくないのだ。

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