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シャシンカイギ(後編)

さて、前編はほぼ写真展そのものについての話になってしまいましたので、後編は「本」の話のほうに少し引き戻したいと思います。

今回の展示のテーマを構想するのにあたって、ひとりだけ写真家・カメラマンではない編集者として、それ以上に文章と本を愛好する人間として、「写真を展示するだけではなく、最終的に何らか文章、そして本のかたちにもっていきたい」という漠然としたイメージを持っていました。

ただ、初めから物語的な要素が念頭にあったわけではなく、今回額装をお願いした方からのアドバイスで、スペースを考えると展示するのは10〜12点程度が適当(A4〜四切くらいで、上下2段の場合)という物理的な条件が、展示テーマを考えるコンセプトの根っこになったのです。

既に粗くセレクトしていた写真と12という数字から、最初に考えたのはシェイクスピアの『十二夜』。でもこれまであまり馴染みがなかったこと、またザッと概要を見てみたものの写真とうまく結びつくイメージが得られなかったことから、さらに考え続けて浮かんできたのが夏目漱石の『夢十夜』です。とても好きな作品で、またその不可思議な世界観を写真のイメージと結びつける、という試みが非常に魅力的に感じられました。そして「夢」を想起させるもの、という観点でこれまでの撮りためた写真を見直す作業を繰り返すなかで、「偶然の光と色彩」というイメージが明確になってきました。

展示する作品を最終的に決定し、そのプリントおよび額装の手配を終えたのは搬入の3日前。一応、展示ができるだけの準備はできたわけですが、『夢十夜』に倣って、それぞれの写真に奇妙な夢の物語を一つずつつける。さらに、それを印刷物、本の形にして展示に添える——それが自分なりに考えた理想の形でした。時間的には厳しく、半ば諦め半ば開き直りつつ、とりあえず一つ、書き始めてみました。

写真はこれまでに訪れた国内外さまざまな場所で撮ったもので、意図せずそれぞれ別々のところに散らばりました。一つ一つ独立した話としながらも、緩やかにつながる感じを持たせつつ、かつ最初と最後が循環するように——そうイメージしてまず並びを決定。そして、それぞれの場所にまつわるいくつかの思い出と、写真そのものから浮かぶ想像を簡単にメモして、あとはそれらを組み合わせながら『夢十夜』ふうに物語を走らせてみる——するとおもしろいことに、想像以上に物語のほうが勝手に進んでいったのです。1話の分量は原稿用紙1枚ほど、いずれもほぼ30分で書き上がり。単純に時間がなかったという事情もありますが、不可思議な物語なので論理的に構築する必要がなく、敢えてほぼ推敲もせずに直感に任せて仕上げました。後付けにはなりますが、自分の意図を超えた偶然の効果に頼った写真とも、何か通じるものがあったのではないかと思います。

残念ながら紙や製本にまでこだわる余裕はなく、ごく普通の両面印刷用マット紙を使い、せめてもの装飾として見返しふうにトレペを1枚、そして表紙を入れて中綴じにしました。ただ、慌てて最後に見つけたものながら、表紙の紙は濃紺に小さな銀の斑点が散らされておりどこか夜空を連想させ、予想外によい仕上がりとなりました。

さて、ようやくここから少しだけ、いつもの「本をつなげる」話をしたいと思います。

既に述べたように、今回の構想の根っこには『夢十夜』があります。「こんな夢を見た」で始まる幻想的な物語10篇の連作で、『三四郎』など他の著名な作品とはやや趣きを胃とする作品ですね。しかし言い様のない理不尽な状況を、口をつぐんで受け入れざるを得ない主人公の在り様、諦観のようなものは、他の作品にも通じて見られるような気もします。

今回、勝手に『夢十夜』ふう、などと称して、辻褄も何も気にせず、むしろ現実的な論理を崩すように物語を組み立ててみたわけですが、現実的なものが破綻した夢のような世界を描いた連作短篇としては、内田百閒『冥途』も大変奇妙でおもしろい作品です(この2つはよく並んで挙げられますね)。ただ、今回文章を書いてみようと思ったこともあり久しぶりに読み直してみると、『冥途』は『夢十夜』以上にかなり不穏な雰囲気に満ち満ちていて、いきなりこの世界に跳躍することは難しいな、と感じました。

今回の展示および連作は、ポルトガル・リスボンの夜の一場面から始まります。時系列的にも一番最初のもので、またまだ全く写真を撮ることに意識的でなかった頃に「撮れてしまった」という側面の最も強い1枚であったので、始めに置きました。リスボンの夜、誰かに導かれるように彷徨う——ということで思い浮かべたのはアントニオ・タブッキの『レクイエム』。しかも、タブッキとも、タブッキと思しき主人公が出会う詩人ペソアとも同じような丸眼鏡を、ちょうど私がかけている、という偶然がまた想像力を刺激しました。今回の連作中には他にも数人、丸眼鏡の人物が登場するのですが、おもしろいことに、モデルとした実在の人たちもまた、実際に丸眼鏡をかけていたのです。

誰かの後を追いかけていく人物と追われる側の人物とが、溶け合ってしまうようにその存在自体が不確かになっていく。そんな物語を組み立てながらイメージに浮かんできたのは、同じくタブッキの『インド夜想曲』です。物語にはっきりと分かりやすい筋道があるわけではなく、暗示的な要素の断片が絶妙なバランスで綴られていく、そんなタブッキの作品の数々に、改めて惚れ惚れとしました。また、今回はそこまではっきりとは表現に込めなかったものの、もうここにはいない人との対話、というモチーフが頭の中にあって、そこにも確実に、タブッキの作品が大きく影響しているのだと思います。

そして先程も述べたように、今回の連作は、始めと終わりがぼんやりと循環するような構成になっています。そこだけは初めから意図していたこともあり、ややあからさまに感じられるかもしれませんが……技法の稚拙さはさておき、始めと終わりが循環する、というモチーフは、ミヒャエル・エンデ『鏡のなかの鏡』から多大な影響を受けています。幻想的な、そしていずれもどこか哀しみをたたえた短篇の連作、その始まりと終わり地点で重なる姉と弟の存在。そしてこの作品がエンデの文章と父エトガー・エンデの絵が交錯する地点で成り立っている、という事実が、この作品の循環的なイメージをより一層深めるように感じます。

短い物語同士が連環し、渦を巻くように絡まり合い、終わりからまたループする、というものとしては、イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』がとにかく秀逸な作品です。一つ一つはかなり奇妙な物語たちを、どのようにすれば複雑かつ精緻なパズルのように構築できるのか。今回、ほぼ初めて創作に手をつけてみたわけですが、『冬の夜ひとりの旅人が』はその究極の地点にある、見果てぬ夢のような存在です。

ただ、今回の展示にあたって、自分が撮った1枚の写真を起点に、そこから浮かぶイメージに現実の記憶をいくつか組み合わせ、それを『夢十夜』ふうの文体にアレンジする、という方法を試してみたところ、思っていた以上に物語が出てきた、自然と引き出されてきた、という実感がありました。元々この方法は、人物を撮った写真でできないだろうか、と考えていたことなのですが、今回の展示では敢えて人物写真を一切出していません。では、人物の写真ならば、またおもしろい展開があるのではないか——もちろん、逆に全くうまくいかない可能性もあるわけですが、少なくとも、まだ新たに試みる余地は十分に残っています。熱が冷めないうちに、次なる一手を打ってみたいものです。

本当は、最後に述べてきたような「本のつながり」にまつわる話を、展示の場にも用意したいという気持ちがあったのですが、写真展という空間を考え、物語の冊子を置くのみに留めました(まとめる時間がなかった、というのも事実ですが)。それは結果的に正解で、やはり写真を観に訪れる場所であり、またそれをきっかけに話の輪が広がることを想定していた場だったので、冊子でさえ、ゆっくり見ていただくのは難しかったようです。この点は、展示の構成の仕方・準備としてやや見込みが甘かったな、とも思っています。次に何か企画するときにはぜひ生かしたいです。

(前編から)シャシンカイギという展示の概要に、それについての自分の雑感、さらには本来の当ブログで記しているような本の話。それぞれバラバラの話をひとまとめにしてしまったので、妙に長ったらしくまとまらない記事になってしまったこと、どうかご容赦ください。ただ、この度のシャシンカイギという企画を通して率直に感じ、考えたことの主たる部分を取り出すと、およそこのようになります。その感じが、少しでも伝われば幸いです。

(了)

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