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少年だった僕が大きな風を起こそうとする話

『ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきは、巡り巡ってアメリカ・テキサス州のハリケーンの原因となりうるでしょうか。』

これは、僕が最近感銘を受けた、桐朋高校の卒業式で読まれた卒業生答辞の冒頭部分だ。

小さな偶然が数奇な因果を導くこともあるという意味で使われるこの『バタフライエフェクト』。

日本の慣用句を使えば、ちょうど『風が吹けば桶屋が儲かる』に相当するのだろうが、同じような内容であっても伝え方一つで相手に与える印象はここまで変わるのか、ということを若者から教えてもらったような気分である。

リンクを貼っておくのでよければ答辞本文も読んでほしい。

きっと世の中には至るところにあらゆるものの"きっかけの種"が眠っており、時にそれが芽吹くことで風を起こすこともあるのだとそう思ってやまない。

僕は音楽がとても好きであり、それが人生においての大きな心の拠り所となっているが、そもそも僕が音楽を始めるきっかけとなった蝶の羽ばたきはどこにあったのだろうか。

先日ふと、そんな疑問が頭をもたげた。

せっかくなので、今日はそんな僕の思い出話にお付き合いいただければ幸甚である。


僕が音楽を始めたきっかけは、小4の頃の音楽の先生から受けた音楽クラブへの勧誘である。

人にきっかけを聞かれた時はそう答えていたし、もちろん僕自身もそうだと思っていた。だが、そもそもその音楽の先生はなぜ僕を勧誘してくれたのだろうか。

その理由を考えるため、当時の状況をいくつか振り返ってみたい。

僕は9歳まで千葉の小学校に通っていたが、親の仕事の都合により、小学校4年に進級するタイミングで転校することを余儀なくされた。

千葉の片田舎から東京の学校へ転校した当時の僕は、周りの生徒の質の高さにただただ驚かされるばかりだった。

授業中に私語をする人はおらず、背中に定規でも入れているのかと思うくらい真っ直ぐに背筋を伸ばして座る同級生達。

急に立ち歩いたり、同級生を殴って泣かせる子もいない。

生徒の統率がよく執れているため、同じ教科書を使っているのに授業の進度がまるで違うのも印象的だった。

だが、何よりも驚いたのは音楽の授業だった。
おそらく長い時間をかけて訓練してきたのだろう。いわゆる基礎練習的なレパートリー曲を沢山持っており、教師の指示に合わせてメロディを奏で、綺麗なハモリを入れるのだった。

転校先の小学校では音楽活動にかなり力を入れており、音楽クラブでは過去にコンテストでの受賞歴もあったほどだった。

前の学校では比較的優等生であった僕だが、転校後の学校では全く歯が立たなかったこと。そして、僕がもともと引っ込み思案な性格であったことが災いし、全く友達を作ることができないでいた。

まるで、精神の成長が十分でないまま飛び級で中学に入学させられ、相応しい振る舞いを求められ続ける。そんな心境で毎日を過ごしていた。

この後僕は、音楽の先生にリコーダーを褒められたのをきっかけに音楽クラブへ入り、友達を作ることができたわけなのだが、そもそもなぜリコーダーを褒められるに至ったのかについてもう少し考えてみたい。


既にお察しかとは思うが、僕が転校前にいた千葉の小学校はとても荒れた学校だった。

明らかに虐待を受けているであろう子や、児童養護施設から通ってきている子。外国人の両親を持ちスペイン語しか分からない子まで、さまざまな家庭環境の子が一つのクラスにいた。

毎日殴り合い・蹴り合いの喧嘩は当たり前、授業を進めることさえままならない、いわゆる学級崩壊が起きているクラスに僕はいた。

そして、そんな学級の担任を任されたのは、新任の若い女の先生であった。

ベテランですら手を焼くであろうそんな学級を受け持つ事になったその先生は、ニコニコと明るい笑顔のよく似合う人だった。

クラスのみんなが好きな曲を学級活動時に流して一緒に踊ったり、オリジナルのキャラを描いた学級通信を毎日のように作り、その日あった良い出来事を皆に共有したりと、少しでもクラスが良くなるよう様々な工夫をしてくれていた。

だが、そんな先生の想いもどこ吹く風と、子どもたちは荒れ放題であった。
先生は学級崩壊を食い止めることができず、堪えきれない涙を流しながらも必死で授業をしてくれていたことを覚えている。

ある日、クラスに1人の転校生がやってきた。

その子は外国人で、スペイン語しか話すことができず、自己防衛の手段として暴力をよく振るう子だった。

だがその先生は決して諦めず、独学でスペイン語を勉強し、本を片手にカタコトのスペイン語でコミュニケーションを図ろうと努力していた。

「今日から教室での挨拶は"ブエノスディアス"にしましょう!」

みんなが覚えられそうな簡単なスペイン語を選びながら、少しずつクラスの中にその転校生の居場所を作れるよう模索していた。

正直僕はその転校生に全く興味がなかったので、彼がその後どうやってクラスに馴染んでいったのか。そもそも馴染むことができたのかさえ覚えていない。

だが、その先生は決して諦めない努力の人だったということは強く記憶に刻まれている。

ある時僕は、フィリピンパブにハマっていた近所のおじさんにこんなお願いをされた。

「おい、お前の先生に"不定詞"ってなんなのか聞いてこい!」

どうやら、パブで働いているお気に入りの女の子ともっとコミュニケーションを取るため、英語を勉強し始めたおじさんは、不定詞が理解できずに悩んでいたらしい。

僕は言っている意味がよく分からないまま、翌日その先生に質問をした。

「先生。"ふていし"って何ですか?」

すると先生は少し驚いた様子を見せた後に、

「うーん…ごめんね。ちょっといきなりは説明できないから調べてきてもいい?」

と言った。
その翌日、もはや質問したことさえ忘れていた僕のもとに先生はやってきて一枚のメモを渡してくれた。

そのメモには不定詞の説明が書いてあり、少しでもイメージしやすくなるようにと具体的な例をイラストとともに幾つも書き込んでくれていた。

意味はほとんど分からなかったが、きっと大人ならこれを読めばわかるのだろうと思い、僕は先生にお礼を告げた。

正直不定詞について全く興味はなかったが、教科書に登場するのが大分先であろう事柄について知れたことは、なんだか少し早く大人になれたような気がして嬉しい気分になった。

そして、「中学校に入ったらやる難しい内容だからそれまで待とうね。」そう答える教師が多いであろう問いに対して真摯に向き合ってくれたことが何よりも嬉しかった。

その日の夜、僕は近所のおじさんに不定詞のメモを渡しに行った。

「ふーん、よく分かんねぇな。」

メモを一読するや否や、そのおじさんはそう言い放った。

どうやらそのおじさんはフィリピンパブの女の子とより仲良くなるため、今度はタガログ語を勉強し始めたらしかった。

これだからエロいことばかり考えているオヤジはダメだ。
僕は心の中でそう思い、もうコイツと口をきくのはやめようと決意をした。

ある日、僕は学校に一枚のCDを持って行った。

転校前の小学校では給食の時間に校内放送で音楽を流しており、CDを持っていくことで流したい曲をリクエストする事が出来るのだった。

当時の僕は平原綾香のJupiterにハマっており、給食の時間にこの曲を流したいと思い至ったのである。

給食の時間。

ガヤガヤとした教室の中に放送委員の言葉が響き渡った。

『今日の曲は、3年1組◯◯君のリクエストで"Jupiter"です。』

クラスの人がお昼の曲をリクエストしたのは初めてだったこともあり、それまでの騒々しさが嘘のようにシーンと静まり返った。

『every day. I listen to my heart.』

歌が流れ始めた瞬間、教室は大爆笑の渦にのまれた。

顔から火が出るのではないかと思うほどの恥ずかしい思いをしたと同時に、この曲を流す事は変わっているのだということを子どもながらに理解した。

それ以降、僕はその曲を聴くのをやめてしまった。

そして、自分が好きなものを人に伝える事を怖いと思うようになってしまった。

それからしばらく経った頃、音楽の授業でリコーダーを本格的に扱うようになった。

僕は元々楽器に対して少し憧れがあったので、リコーダーを扱う授業の時は特に熱を入れて参加するようになった。

ドレミを読めるようになるのはもちろん、授業で出てくる指遣いは完璧に覚え、教科書に載っている他の曲にもチャレンジしたりしていた。

おそらく先生はこの一連の流れをしっかり見てくれていたのだと思う。

ある日突然、先生はリコーダーを使ってJupiterを奏でてくれたのだ。

リコーダーで吹くには少々難しいその曲は、吹きやすいようにキーこそ変えてありながらも、教科書には載っていない指遣いを使って演奏する必要があったため、それに気付いた僕はとても興奮してしまった。

「先生!それどうやってやるの!?」

僕は放課後足繁く先生の下を訪れるようになり、しつこく先生に教えを乞いながら遂にJupiterを演奏できるようになった。

この経験のおかげで、僕は嫌いになりかけていたこの曲をまた好きになる事ができ、まだ習っていない内容を自ら学びに行く事の高揚感を思い出す事が出来たのだった。

僕の転校が決まった時、その先生はとても寂しそうにしながら僕に手紙を書いてくれた。

何か困った事があったらいつでも相談してね。と、いつものお手製のキャラクターとともに言葉が添えてあった。

僕は変に現実的なところがあったので、東京からどうやって相談すればいいのだろうと疑問に思ったが、そう言ってもらえる事に自体に対して悪い気はしなかった。

そして、転校先での音楽の授業にまで話は戻る。

自分が得意だと思っていたリコーダーでさえ周りの人には及ばない、そんな状況で僕は休み時間に、あの日先生に教えてもらったJupiterを吹いた。

「every day. I listen to my heart. ひとりじゃない。深い胸の奥で つながってる。」

あの時どんな気持ちでこれを吹いたのかよく覚えていない。何も考えていなかったかもしれないし、もしかしたら自分はこんな曲を吹けるんだとアピールしたかったのかもしれない。

ただ、先生から教えてもらったこの曲は、まだ習ってない難しい指を使うんだ、という想いが心の支えになっていたことだけは確かだった。

すると音楽の先生が僕のところにやってきてこう言った。

「君、リコーダー上手だね。音楽クラブに入らないかい?」

…これが、僕が音楽を始める事になったきっかけである。

ここから現在に至るまで、僕は音楽をきっかけに様々な出会いを経験し、多くの仲間を作ってきたと言っても過言ではない。

決して一つではない様々なきっかけがあり、色んな人に支えられて僕はここまで来れたのだと思う。

ブラジルの蝶の羽ばたきがハリケーンに至るまでには、一匹の、たった一回の羽ばたきだけではきっと十分ではなかっただろう。

それでも、僕が千葉で経験したあの小さなきっかけは、僕の人生において確実に大きな風を巻き起こしてくれたとそう思っている。

唐突だが、ここで僕の好きな歌を一つ紹介させてほしい。

『東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな』

これは菅原道真が太宰府に左遷させられる時に、京都にある家の梅を見て詠んだ歌だそうだ。

直接目で見る事はできなくとも、風の便りでお前の成長を知らせておくれ。

そんな想いが込められていると僕は解釈している。

あの先生にこの感謝を伝える機会はきっとなかなか訪れないと思う。

でもせめて、先生のように目の前のことにきちんと向き合い、風を起こせるように一生懸命に生きていこうと思う。

僕の頑張りがいつか先生に届くことを願って。

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