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ボーカリストのボクのルーツ

今までのエッセイでもたびたび書いてきたが、ボクの趣味はバンド活動だ。40歳を過ぎてから始めて15年。これまで8つのバンドで演奏してきたが、すべてのバンドでボクはボーカルを担当してきた。

ボクにとってバンド活動はもはやライフワークだ。歌うことが生きがいになっている。大切な家族との生活を別にしたら、バンド仲間と一緒にステージに立って歌っているときが一番幸せで充実感がある。演奏の終わりに歓声に包まれてメンバー全員でお辞儀をするときの感動は何にも代えがたい。

ボクはいつからボーカリストになることを意識していたのだろう。ふと振り返ってみたくなった。

ボクが始めて人前で歌ったのは、中学1年生の時だ。当時、ボクは宮崎私立檍(あおき)中学校に通っていた。『檍』の文字は珍しい。校庭に古墳があり、宮崎に遺る古代の歴史を肌で感じることのできる学校だった。

入学してすぐ、授業時間内のクラブ活動として合唱クラブに入った。ボクはなぜ合唱クラブを選択したのだろう。

詳しくは覚えてないが、潜在的にあった歌いたいという気持ちが、少しずつあらわれてきていたのではないだろうか。

『レモン色の霧よ』という合唱曲をよく覚えている。とても繊細で透明感のある奇麗な曲だった。

合唱クラブでは、先生の指導で、腹式呼吸を使った発声練習を毎週行った。息をお腹いっぱいに吸い込んで、腹の底から息と一緒に声を出す。この時の習慣が今も残っていて、ボーカル担当として役立っている。大きな声でシャウトを繰り返してもさほど喉を傷めないのは、腹式呼吸で歌っているからだ。この歌い方なら、地声の限界を超える高音を出すこともできる。腹式呼吸を身につけさせて頂いたことに、本当に感謝している。

中学2年生の4月、ボクは千葉県佐倉市立臼井中学校に転校する。この学校には合唱クラブはなかった。もう、しばらく合唱曲を人前で歌う機会はないのかな、と思っていたとき、クラス対抗の合唱コンクール開催が決まった。その年の臼井中学区は創立2年目だった。初めての試みだったのではないだろうか。ボクはいいタイミングで転校したものだ。

音楽の先生のご指導で、ボク達のクラスは、『流浪の民』という曲を合唱することになった。この曲には、ソプラノ・アルト・テノール・バスと、それぞれのソロパートがある。ボクはテノールのソロパートを担当することになった。最初決まっていた友達が辞退して、代わりを探すときボクにも声がかかった。みんなの前で少し歌ってみたら『いいじゃないか』と言われボクに決定。その瞬間、ボクは飛び上がるほど嬉しかった。

本番はとても緊張した。体育館のステージにクラス全員で上がり、ソロの4人が前に出る。ピアノ伴奏も同級生。ボクは声が裏返ることもなく、音程も外さず、大きな声でしっかり歌えた。『眠りを誘う夜の風』という歌詞は今も覚えている。クラスのみんなも力いっぱい最後まで無時歌い切った。優勝は逃したが、練習を重ねた成果を発揮できてみんな満足だった。音楽の先生からも『よかったよ』と褒めていただいた。

コンクールが終わったあとで、音楽の先生はボクを呼び止めた。『マツユキくん、声が出ていてとてもよく歌えたね。録音したからおうちで聴いてね。』先生はそう言ってボクにカセットテープを下さった。『アリガトウゴザイマス!!』ボクは凄い勢いでお礼を言った。感激していた。

ボクはとても気持ちが昂っていた。観客の前で自分の力をすべて出して歌うこと、仲間と声を合わせてハーモニーを作ること、観客から拍手と歓声を貰うこと、尊敬する人から評価されること、生きている実感を味わうこと。歌うことがこれら全てをボクに与えてくれた。歌うことが更に好きになった。そして、もっと上手く歌えるようになりたい、また大勢の聴衆の前で歌ってみたい、と強く思った。

このことが、ボクがボーカリストを意識するきっかけになったのだと思う。そうだ、ボクのボーカリストのルーツは、合唱にあるんだ。『流浪の民』を歌い上げたときにボクが得たもの。それが今もボクを突き動かしている。

今まで思ってもいなかったが、確かに合唱がボクをボーカリストに導いてくれたのだ。凄い発見だ。中学生以来、合唱曲は歌っていない。久しぶりに合唱曲を歌ってみたくなった。


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