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透明な世界

こんにちは、じょーくんです。

いきなりですが、僕は普段生きている世界の事を、『透明』と形容します。

世界が透明だと知る事は、自分を変える為の一つの手段である、と考えています。絵を描くとき、新しい真っ白なキャンバスに描きますか?それとも見知らぬ誰かが描いた古いキャンバスの隅っこに、ちょこっと描きますか?

とまあこれぐらいにして、以下、本文です。


世界とは、文字通り''世界'''でしかない。

世界には、全てがある。というより、全てがある領域を包括したものが、まさに''世界''という概念そのものだ。
世界を、『喜びと悲しみ、希望と絶望』みたいに二元論的に語るのは、実はナンセンスだ。
そういう二元論的な一本の軸で世界を見るという事は、世界を自ら限定的に見る事に他ならない。本来の世界とは、ただ全てがある領域であり、それ以上でも以下でもない。

ただそこに存在する世界。僕たちに知覚される前の世界は透明である。

ここで問題なのが、

僕たちは透明な世界に色をつけずにはいられない。

という事だ。

ある人は暗い赤や黒で、ある人は明度の高いオレンジ色で。これは、人によって、世界を知覚する際のフィルターの色が違う故だ。つまり、僕たちが見ている喜びや絶望みたいなものも、実の所、僕たち自身が、フィルター越しに見ている''色''なのだ。

ちなみに僕は、この固有のフィルター、色眼鏡の事を、ドクサと呼ぶ。

このドクサは、物心ついた頃には、固有の''クセ''が既に出来上がっている。このクセは、あなたが見る世界の色をいつも同じようなものにする。ここで、実は

ドクサは自分の意思で、抜け出せるのだ。

と付け加えたい。『世界は透明』だと知る事、言い換えれば、ドクサの存在を知る事が、まず大切になる。

真っ白なキャンバスに自由な色で絵を描くように、僕たちは、生き方も自由に描ける。この場合、僕たちの人生がキャンバスに該当する。

僕の話になるが、僕のキャンバスには、強烈な明るい赤と、ドスのつく黒がある。
黒に対抗するために、強烈な赤を塗らざるを得なかったのだと思う。赤に成りすました僕は、長らく人と衝突しがちであった。別に悪い事はない。
とは言え、今となれば、あの時の赤は、''黒を隠すために、無かったものにするために、黒の上に重ね塗りした''ものだった。僕は赤に成りすました事で、黒から抜け出したと早とちりしていた。

繰り返すが、これは良くも悪くもない。ただ、僕が早とちりしていた、というだけの話だ。
だから僕は、勇気を出して、一度赤を取っ払い、少しずつ黒を解放する道を選んでみた。というのは、黒は僕のルーツであり、かけがえのない僕の一部だからだ。見て見ぬ振りをしていると、ふとした時に、僕の一部が泣き出す事はよくあった。鬱にもなった。だからこそ僕は決めた。黒を赦そう、と。

この道がどうなるかは、今の僕には分からない。黒に向き合うわけだから、以前よりも苦しい。どうしようもない孤独感や無力感。人間関係における物理的な孤独。しかし同時に、僕は痛感している。

**黒のある人を、受け止められるスゴい人が、この世界のどこかに存在するものだ。 **

僕が『世界は絶望的だ』などと言う時、極めて冷静さを欠いている。まるで世界の全てが''黒い''と言わんばかりの、強烈なドクサが発動しているのである。 これ、即捨ててよし。


思い出して欲しい。世界は本来、透明なのだ。


じょーくん
#エッセイ #闇 #内省 #鬱 #人生 #生き方

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