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映画『A』を観て - オウム信者は「普通の人」だった

◆映画『A』について
オウム真理教の広報部副部長、Aこと荒木浩を中心に、オウム事件以後の彼らを追った長篇ドキュメンタリー。森達也監督作品。
(1998年製作/135分/日本)

出典:映画.com

「わからなくない、ああそうか」と思った。

宗教に入信する人は、社会の本質が見えてしまっている、むしろ「正常な人」なのかもしれない。入信後は、宗教に傾倒する、つまりその宗教の教義や教祖に完全に支配されることになるために、最終的には思想に偏りが出てくるという意味で「異常な人」になっていくのかもしれないが。

社会はおかしい。矛盾がある。利害関係があり、忖度も建前もある。家族は頭ごなしに学歴や結婚など、「一般的な幸せ」を押し付けてくる。そういう価値観が、人生にまとわり付いてくる。さらには人間の三大欲求に人生を通じて追い回される。「そんな物事の本質に迫らない、無駄なものに巻かれる人生は嫌だ」と思うのは、至って普通である。

大学入学から3日で退学したという信者の言葉が胸に響いた。

「こんな奴ら(周囲の大学生達)が社会をこれから作って行くのかと思ったら、絶望した。誰かが何かをしなければいけないと思って出家した。」

彼らが入信したきっかけは、社会への課題感や危機感が大きいのかもしれない。だから、社会に対する洞察力のある、所謂「頭がいい」とか「インテリ」とか言われる人が多く入信したのだろうと思った。

私には、今回主人公となっている、広報部の荒木さんが「とばっちりを食らっている」ようにしか見えなかった。彼は恐らく地下鉄サリン事件について、何も聞かされていない。このような何もわからない中で、広報部としてマスメディアの矢面に立たされている彼は、「被害者」のようにさえ映る。きっと、オウム信者全員をいっしょくたにするのは、安易過ぎるのだろう。

この映画の見所は、個人的には、一橋大学法学部の学生たちと荒木さんとの対話であると思う。学生たちが面白い(尖った)質問を、荒木さんに次々と投げかける。「麻原は美味しいものを食べてベンツに乗っているようですが、それの何が欲望や現世からの解脱なんですか?」など。それに対する荒木さんの回答が編集でカットされているのは非常に残念なのだが、とにかく学生達の「尖り具合」が最高であった。私は彼らと勉強したかった、と切に思ったほどだ。

荒木さんは、マスメディアによって世間的に「教団代表者」「悪の象徴」のような存在となり、世間や近所から叩かれ、説明責任を繰り返し問われることとなった。弱冠26, 7歳の若者にはどんなに厳しい体験だっただろうか。

私は、宗教の持つ世界観や教義全てを否定するつもりはない。

人間の命にはいつか終わりが来る。この「死」というものが存在してきたからこそ、そこに得体の知れぬ恐怖が伴うからこそ、人類は「宗教」というものを作ったのだと思う。死への恐怖に向き合うための思想を提供してくれるのが、宗教だということだ。当然、人生を生きる上での大切な教えをくれることもある。

しかし、特に教祖が存命している宗教には「独裁性」や「絶対的な支配性」という危険が孕んでいることを忘れてはならない。信者は、教祖が言うこと全てを鵜呑みにし、疑うことを忘れ、思考停止状態になってしまうことがある。教祖の言う「正しいこと」と「間違っていること」の取捨選択ができなくなり、言われるがままに行動してしまうことがある。

これは正しく、アイヒマンが犯したような「凡庸的な悪」ではないか。

アイヒマンは第二次世界大戦中、ユダヤ人移送局長官として、アウシュヴィッツ強制収容所にユダヤ人を大量に送り込んだ。彼は何も考えず、書類に「承認」のハンコをペタペタと押し続けたのである。彼は戦後15年経ってから戦犯となり、処刑されることとなったが、この裁判を傍聴したドイツ人哲学者のハンナ・アーレントが言った言葉こそが、「凡庸的な悪」という言葉なのである。

「凡庸的な悪」=「誰もが犯し得る悪」

アイヒマンの事例も、地下鉄サリン事件も、状況や環境によって思考停止に陥った人間が起こした事件だ。彼らは、オウム真理教やナチズムを信仰したことで、思考停止になってしまったのだ。

そう考えると、地下鉄サリン事件は、特段特殊な話ではない。むしろ、身近な話だ。アイヒマンも地下鉄サリン事件の実行犯も「信者として、教義を実行しただけ」「真面目に仕事をしていただけ」とさえ言える。

私たちは無意識に悪事に加担してしまう可能性がある。これを、もう一度胸に刻んで生きていきたいと思う。


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