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【他者の苦しみは否定できるのか】4−3.「認識の暴力」に抗して【4.終わるもの、終わらないもの】

 「人間は、認識したいと思っていることをそこに認識する[143]」。しかるに、ひとは、「真の」、「客観的」な世界を認識することはできない。こうした命題はいまや自明のものとして、認識にまつわるわれわれの諸問題の前に鎮座している。つまるところ、人間は諸器官を通してしか外部世界を感知することはできず、そうした情報はまた脳、そして言語を通して存在することになるのであって、このようにひとはさまざまなフィルターを通してしか世界を見ることはできず、そこには必ず何らかの色メガネ=フィルターが存在するのである。「ありのまま」の事実などは存在せず、ひとがものを観察する行為はすべてそれ以前に習得していた知識などに基づく解釈である、という科学哲学において「観察の理論負荷性」と呼ばれる問題もこれに対応した指摘といえるだろう。
 では、ひとがひとに認識されないということは、どのようにして起こるのであろうか。結論から言えば、認識されないというのはつまり、存在が認知されないことであり、感知されないことでもあり、それは結局存在できないということである。「社会感覚」のないひとが「抱えている困難さを周囲に理解してもらえないために」否定され、存在そのものが押し潰されていく様はまさに、存在が認識されていないと言うことができないだろうか。「影」がない「宇宙人」は、「人間」ならざるものなのだ。
 こうした認識と生の問題に関連して、ジュディス・バトラーは以下のように述べている。

認識論的な枠組のなかでは最初から生として想像されないものであるとしたら、その時、これらの生は完全な意味においては生きられることもなく、失われることもないのである。
(……)
わたしたちは、ある枠組みをつうじて、他者の生を失われたものあるいは傷つけられたものとして(失われうるもの、傷つけられうるものとして)感知する、というよりはむしろ感知しそこねてしまうのだが、この枠組みは政治性に満ちている。[144]

「感知しそこね」た生は「生きられること」がなく、そもそも生きていないのと同義のものとして扱われているのだから、それが喪失されても「失われたもの」とは認識されない。
 ひとが、それなりのし方で認識されるということは、ひととして存在する第一歩である。「最初から生として想像されないもの」としてしか存在できなければ、「完全な意味においては生きられること」はできないからだ。けれども、そうだとしたら、「生として想像され」るためにはどうしたらいいのだろうか。バトラーはこう述べる。

認識論的に生を感知できるかどうかは、部分的には、その生が規範に従ってつくられているかどうかによっている。つまり、生に、生としての、あるいは生の一部としての、資格を与えている規範に従っているかどうかに。[145]

この指摘は、われわれがふだん認識している枠組を構成する規範に従わないものは、完全にとは言わないまでもそれなりに取り零されていくということを示唆している。「生としての、あるいは生の一部としての、資格を与えている規範」に従わないものは、生として感知されない。「生きられる」存在として生きる余地を与えられないのだ。そのうえで、改めて、何かを認識する姿勢それ自身を問うてみるということは極めて重要である。たしかに「ありのまま」の姿を認識することは不可能だが、一方で、聞く耳を持たず決めつけるような認識のし方では、歪みきったレンズの向こう側にある存在を、あくまでも歪んだレンズを通したものでしかない「正義」や「善」で以って踏み潰してしまう可能性は否めず、それは暴力的だとしか言いようがない。むろん、誰もが色メガネを通して認識することから逃れられない以上、まったく歪みのない「正しい」認識の方法などないし、どのような認識でも暴力的ではあるのだろう。ただ、意識的にしろ、無意識的にしろ――後者のほうが、格段にたちが悪いのであるが――、その暴力性を無視することは、ときにひとを致死的な空間に追いやるのではないだろうか。「抑圧とは、そこに悪意がない場合になおさら、抑圧者の目には見えない、そういう特異な現象なのだ[146]」。容認しがたい存在を認めない、抑圧というかたちをとった暴力の嵐のなかでは、その嵐をとめようにも、人工的な嵐に曝されているのがあたかも偶然に訪れた暴風雨のなかを歩いているようにしかみなされない。いや、そうとすら気付かれることなく嵐を生き抜くことを強いられるのである。
 「生きづらさ」というのは、これまで論じてきたように、ある意味で現代社会のあり方を反映した痛みである一方で、どこまでも主観的なものだ。ひととひとの内面を比較することは不可能であるし、他人の内面を覗くことはできないばかりでなく、当人が自身の内面を把握しきることもあり得ない――いずれの場合も色メガネの影響を排することはできないからだ。「客観的」に何かを見ることができず、さらには言語や規範など、恣意的選択の不可能性を孕むじつに多くの社会的要素に絡みとられているようなかたちでしか人間は存在できないのに、どうして自分の内面などというものが厳密に把握できよう。把握できるということは、説明可能だということである。認識も理解も説明もできずに把握できているなどということは言えない。けれどもバトラーが的確に指摘するように、

もし私が自分自身を説明しようとし、自分自身を認識可能で理解可能なものにしようとするなら、(……)この語りは、私のものでないもの、あるいは私だけのものでないものによって方向を失ってしまうだろう。[147]

なにをどう説明しようとも、言語を持たなかったり、ありとあらゆる規範を無視したりすることはできない。「私のものでないもの」、「私だけのものでないもの」は絶えず、自分が自分自身を説明しようとする行為につきまとう。「自分自身を認識可能で理解可能なものにしよう」としても、その試みが独立して存在することはなく、むしろ以下で述べられているようにある種の不可能性から逃れることはできない。

私が言説を用いて行う私自身の説明は、この生きた自己を決して十全に表現したり、伝えたりすることができない。私の言葉は、私が言葉を提示すると連れ去られ、私の生の時間と同一でない言説の時間によって中断される。[148]

しかるに、「『私』が自分に説明を、自分自身の出現の条件を含んでいるはずの説明を与えようとするとき、『私』は必然的に社会理論家にならざるをえないのである[149]」。バトラーの言う「自分自身を認識可能で理解可能なもの」として描写する際、借りてきた言語と規範のみでは到底語り得ず、社会理論家の如く前提から問わねばならなくなるのだ。こうしたとき、例えば発達障害などのケースを考えるうえで、そこに「客観的」な物差しを提供するために西洋医学があるのだと言うひとがいるかもしれない。「自分自身を認識可能で理解可能なもの」にするもなにも、診断を受ければそれは「証明」されるのだし、じゅうぶん「認識可能で理解可能なもの」になるのだという指摘である。なるほど、たしかに「病名」があれば、それはある種「客観的」に証明されたことになるのかもしれないし、行政レベルの話では実際に、性同一性障害を理由にジェンダーに合致した名前に変えたくとも「診断書」がなければ改名は行えないなどの例がある。だが、まさにそうした意味においてこそ、科学の名の下に西洋医学は権威として作用しているのだ。これを認識の暴力と言い換えてもいいだろう。難病指定の問題もこれと同じで、(「科学的」に研究が進み)西洋医学的に認められなければ、すなわち「正式」かつ「公式」に「病名」がつかなければ、なんら「病気」とされず、したがって公的な場において必要な助けは、必要ではないということになる。

科学は自分が自分で作った土俵に上がって勝負することをすべての「知」に要求するのだから、必ず「勝つ」。勝って当たり前である。ルールが自身につごうのよいように設定されているのだから。[150]

 科学についてのこうした指摘を換言するなら、西洋医学は「自分が自分で作った土俵に上がって勝負することをすべての『病』に要求」していると言える。「数値」に「異常」が見られなければ「病気」ではないし、「治療」することも叶わない。とはいえ、「病」は困難である。心身に訪れる困難であり、寝れば治るというように嵐が過ぎ去るのを待てばよいものもあれば、「治療」に他者の理解や配慮を必要とするもの――それがなければ日々が成り立たないようなもの――もある。
 けれども、その判断のための認識は本当に可能なものなのだろうか。ひとが「病」であるか否か、が問題なのではない。「ひとが、それなりのし方で認識されるということは、ひととして存在する第一歩である」という意味において、困難、生きづらさを認識することは可能なのだろうか、ということが問題なのだ。究極的な不可能性を孕んだこの問いに立ち向かわなければならないのは、ありとあらゆる「正当性」の認められない人々に存在するなと言えるのか、ということであり、あなたはひとに、死ねと言えるのか、ということである。他者の内面にあるものを認識できないからといってそこに近づくことすら諦めるのは結果的に、暴力を暴力として、開き直った悪意として――ときにそれはある種の不作為として――振るうことに他ならない。たしかにあなたはひとに死ねとは言っていないかもしれない。しかし、明示的にそう言うことはなくとも、認識しないということはそれを暗示的に突き付けているとみなされなければならないのだ。
 ここで、認識の問題が前景化する。同質な「みんな」というフィクションを武器にひとを黙らせることができるのは、そのフィクションがある種の「現実」として作用する、「認識の暴力」があるからだ。通常、「差別」や「偏見」と呼ばれるものは、異質な他者に押し付けられるものである。しかしながら、本当は異質であるはずの他者を同質なものとみなし、それを根拠に同じだけの振る舞いができるはずだとするのは、異質な者に向けられる「差別」や「偏見」と同じように暴力的なのではないか。こうして、本来的には異質――あるいは異質に近い存在――なのにも関わらず同質だとみなされ「みんな」と同じ「普通」だとされる者は、認識されていない。認識されているのは、同じような性質を持ち同じだけの振る舞いができる(はずの)他者という虚像だからである。認識の次元だけであったはずの問題はこうして存在するはずのないフィクションを生み出し、「現実」を支配することで、人々をがんじがらめにしていく。
 すでに述べたように、他者を、ひとを、あらゆる存在を厳密に「正しく」認識することは不可能である。けれども、だからといって、そこに何の疑いを持つこともなく、ただ認識したいものを認識しようとするし方で、「認識したいと思っていることをそこに認識する」などということが許されるわけではないだろう。この世界にあるすべての内実が「客観的」に「証明」されることなどない以上、誰かが何かの困難にあると言うとき、どうにかそれを聴きとろうとする他ないし、そのひとがどのような状態にあるのか、わたし――すなわち、わたしの認識――は少しでもそこに近づくことができているのか、問い続けねばならない。

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[143]物理学者、スティーヴン・ホーキングの言葉。萩原能久「第四講 言葉と政治」『政治哲學Ⅰ』<http://fs1.law.keio.ac.jp/~hagiwara/pph1.html#4th>(最終更新日2014/06/18)。
[144]ジュディス・バトラー『戦争の枠組』、筑摩書房、九頁。
[145]同上、一二頁。
[146]前掲書、「オリエンタリズム」『平和を考えるための100冊+α』、一〇三頁。
[147]ジュディス・バトラー『自分自身を説明すること』、月曜社、六六頁
[148]同上、六五頁。
[149]同上、一六頁。
[150]古賀敬太編、萩原能久「理性」『政治概念の歴史的展開』、晃洋書房、一八五頁。

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