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或る特攻隊員の話(上)

二中を優秀な成績で卒業して彼はお国のために特攻隊に志願した。それを母に告げると母は表情を変えずに「お国のために立派に尽くすのですよ」と言った。
「靖国で会おう」そう言って何人もの仲間が先に死んでいった。
宮崎の飛行場にいた彼は、8月9日の朝に大きなキノコのような形の雲を見た。アメリカの新型爆弾だった。
彼の兄が先に戦死していたので、上官が気遣い彼の出陣予定日は周りの仲間のなかでも遅めの8月16日になっていた。

戦争は8月15日におわった。
玉音放送を聞いたときは、自分が大きな肉の塊にでもなったような気がした。
沖縄県豊見城村の実家に帰ると、父と母が庭先で出迎えてくれた。戦火を生き残びた猛々しいほど赤いでいごの花も、母の嬉しそうな顔も彼には忌々しかった。

そこから2年間、人と話した記憶があまりない。彼は酒を浴びるように飲んだ。泡盛など美味しいと思わない。日本酒でも同じだ。どうせ酔うためだけの酒、味なんてどうでもいい。
どうして自分は生き残ってしまったのか。自分が出陣していれば、何か変えられたのではないか、国民に申し訳ない、天皇陛下に申し訳ない、死んでいった仲間たちに申し訳ない…

人の笑顔を憎んだ。
人の食べている姿を憎んだ。
大声で価値のない内容の会話を延々と続けている人間たちを憎んだ。

戦争に負けたんだぞ。

「次男の朝勇だけでも帰ってきてくれてよかったさぁ」と言って自分を辱しめた近所の者たちを、彼は絶対に許さなかった。

生き残った同窓生たちには会いたくなかった。華々しくお国のために戦地で戦い戻ってきた者たちに強い劣等感を感じていた。自分は、戦わなかった。戦わず生き残ってしまったのだ。

彼は沖縄に帰ってきてからは毎日、憎しみと罪悪感をまずい酒で薄めながら、変わってしまった那覇の街を朝から晩までひたすら歩いていた。
近所の者たちは最近できた路線バスをよく使っていたが、狭い空間に愚かな人々たちと押し込められ彼らの会話を聞くのは耐えられなかった。
父が4人乗りの赤いアメリカ車を買ったようだがそんなものには乗りたくなかった。
彼は自分の脚でひたすら街を歩いていた。
復興はどんどん進んでおり、店がたくさんでき、街は華やいでいて、人々は戦争のことは忘れたように見えなくもない。
しかし戦争惚けしている者たちは沖縄にいくらでもいた。
牧志公設市場の裏のほうに行くと、せわしなく働いてる者たちを横目に、何もせずただ、道端でゴザを敷いて寝ているだけの無精髭の男たちがいる。そよ風が風呂にはずっと入っていない彼らの臭いを運んできて、彼はむせた。
酒を飲みながら賭博に興じている者もいる。腕や足のない者たちもいた。戦争があったことを忘れさせないでくれる彼らの存在に安心感も感じながら、こんなところで恥を晒しているやつらと自分は違う、と思った。
小柄な中年女性が市場に向かって狭い路地を荷車をたくましく引っ張って彼の横を通り過ぎて行った。その中年女の日に焼けた黒糖色の肌が、強い生命力を発しているように見え、思わず彼は目を背けた。
彼女の荷車からムーチー(香り高い月桃の葉に包まれた黒糖餅)が一つ落ちた。彼が拾って渡すとその女性は「あんたにあげるよ」と笑った。甘いものは嫌いだ。
口の中にいつまでも残る甘さだった。鞄に常備している安い泡盛で流し込んだものの、黒糖の甘さは帰宅後も一晩中彼の舌にこびりついていた。

驚くべきことに、彼の両親は、定職につかずただ酒を飲み街をブラブラ歩いているだけの二十歳の息子に対して、何も言わなかった。この両親は戦争前から彼を叱ったことは一度たりともなかったが、戦後はよりいっそう放任主義を強めたらしかった。女中のマサが作る食事には一切手をつけなかったので、いつしか彼の分の食事は出されなくなり、父からもらう小遣いで、街で適当なごはん屋に入り、酒と共に肉や魚を胃に流し込む日々が続いた。食欲も食を楽しむ気持ちもなかった。

母は沖縄県北部の農村出身で、那覇で女学校を卒業したのち産婆をやっていた。戦争から男たちが帰ってきてからはいよいよお産が増え、母が家で横になっているのを見たことがない。夜中でもお産があれば駆けつけるという不規則な生活をしているものの、母は家にいるときですら着物や髷は一糸の乱れもなく、一寸の隙もない。
40代も後半になるのに、昔と全く見た目の変わらない強靭な母に彼は尊敬よりも不気味さを覚えていた。
戦後すぐに父は知人のツテで政治部の新聞記者として働きはじめた。そしてある日突然、洗礼を受けクリスチャンになったと言ってきた。昔は毎朝きっかり旭旗を玄関に掲げていた父が、今は毎朝居間でコーヒーを飲みながら聖書を読んでいる。戦争に負けたうえに、西洋の宗教に毒されてしまったなんて実に嘆かわしい。父に教会に何度か誘われたが彼は「基督者を父に持つことを日本男児として恥ずかしく思います」と素直に伝えると、それから父は何も言ってこなくなった。

戦後の沖縄には、家族を亡くした者たちが身を寄せあって生きている家がたくさんあった。4軒先に住む宮城さん夫妻は戦前は仲睦まじい夫婦だったのだが、ご主人が南方から帰って来て「身寄りのない女性たちを助けたい」と言い出し、街中で知り合った5人の女性やその子どもたちを受け入れて暮らしているらしい。そのなかの何人かとはご主人は男女の関係になっており、色白で聡明だった奥方が、般若のような血の気のない顔で泣き止まない乳児を背負いながら庭仕事をしているのを彼は毎朝散歩に出かけるときに見る。

もちろん、一番許せないのは米軍たちだ。神の国日本を破壊したくさんの日本国民の命を奪い、天皇陛下を冒涜し、のうのうとのさばっている。
醜い赤っ鼻にヤギのような青い目をした大きな男たちは、ジャングルのような色をした軍服にだらしない巨体を包み、下品な大声で笑いながら我が物顔で街を歩いている。
街中で彼らを見るたびに蠢く熱湯のような物を胸のなかに感じ、同時に自分の中で生命力が湧いてくるのもわかった。その生命力を彼は少し嬉しくも思ったので、彼は米兵たちから目を背らさなかった。
彼らが飲食店で便所紙のようにシワシワの1ドル札を出し、釣りは要らないと鷹揚な笑みを浮かべるのを憎々しくおもったし、彼らに白い前歯を見せたあと頭を下げている自分と年の変わらない男子店員に怒りを覚えた。しかしこの憎しみや怒りに不思議な高揚感を覚えている自分もいた。

朝起きて一番最初に考えるのは、生き残った自分が恥ずかしいということ。

酒を飲む。

道行く浅薄な者たちが、特攻隊崩れの自分を嘲っているように感じる。

酒を飲む。

上官に怒られてばかりいるが中学で一番足の速かった自分よりも足の速い加藤、無口だが迷い犬に優しかった渡辺、両親が戦死し年の離れた妹がひとり熊本に疎開しているという藤岡、戦死した兄様の敵をとりたいという吉川…

みんな空に消えていった。

彼らは今の日本を見たらどう思うのだろう。

酒を飲む。

***************

「俺は死ぬんだ、放っておけ」

まだ蒸し暑い秋の朝午前6時、庭の池の灯籠の横で、彼は正座をし、日本刀をいまにも自分の腹に突き刺そうと逡巡していたところを女中のマサに見つかった。
兄の遺品の紺の着物を着ていたのは、特に意味はなかった。

彼より少しだけ歳上のマサは、黒々とした睫毛に縁取られた大きな黒い目を少しも動かさずに静かな声で「止めなさい」と言った。未だに女学生のように髪を三つ編みにしていて、昆布のように太くなった毛束が胸元で上下している。小柄だが気が強いマサに見つかったのは厄介だった。
「朝勇さん、正気ですか」
彼はここ7日ばかり、一滴も酒を飲んでおらず、戦後の2年間で1番正気であった。

マサが軒先に皿ごと落としてしまった紅芋の黒糖煮には、既に黒い蟻が大量にうごめいていた。自分はこのたくましい蟻たちよりも無力な存在なのではないか、と思えた瞬間、彼の日本刀を持つ手に力が入った。

(続く)




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