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JOG(969) 憲法9条改正シナリオ

9条1項の「積極的平和貢献」は日本の伝統的理想、それを実現するため2項「非武装」を改変すべき。


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■1.朝日新聞の世論調査でも「9条改憲賛成派が多数」

 平成28(2016)年9月6日付けの朝日新聞で、憲法改正賛成派が反対派を大きく上回るという興味深い結果が報じられている。

憲法改正への賛否について聞いたところ、「賛成」「どちらかと言えば賛成」の賛成派が42%、「どちらとも言えない」の中立派が33%、「どちらかと言えば反対」「反対」の反対派が25%だった。[1]

 憲法のどの項目を改憲すべきかについては:

 賛成派に、改憲すべき項目を15の選択肢から選んでもらったところ、最も多かったのは「自衛隊または国防軍の保持を明記」で57%。次いで「集団的自衛権の保持を明記」が49%、「緊急事態に関する条項を新設」が43%だった。[1]

 この内容を正確に見出しにするとしたら、「9条改憲賛成派が多数」だろう。そうとは読ませないように「改憲、有権者の関心は9条」という苦心の小見出しをつけている。偏向報道も大変だ。

■2.9条改憲のシナリオ

「自衛隊または国防軍の保持を明記」という多数意見の根拠となりうる書籍と雑誌記事がある。それらの結論をまとめれば、以下の内容となる。

 憲法9条の1項「積極的平和貢献」は、我が国の歴史伝統に沿ったものと解釈すべき。ただし、そのためには平和を乱す不法国家を抑止するための武力が必要であり、これを阻害している2項「非武装」を改変する。これにより、我が国は国際社会の中で「積極的平和貢献」を目指す、名誉ある地位を目指す。

 法律論だけでなく、我が国のあり方も含めた考え方である。以下、その内容を紹介したい。

■3.「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」

 まず、憲法9条の第1項と第2項が実は互いに矛盾した「欠陥条項」である、という長谷川三千子・埼玉大学名誉教授の指摘[2]を紹介しよう。9条1項は以下の以下のとおりである。

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

「国際平和を誠実に希求し」の部分は、前文ではより詳細に語られている。

 われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。・・・
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

 たとえばチャイナの国際法を無視した、フィリピンやベトナム、インドネシアなどへの横暴[a]に対し、わが国だけ平和であれば良い、という「一国平和主義」では、この憲法の規定に適うのか。9条1項が規定しているのは、「国際平和を誠実に希求し」ということであって、自国のみ平和であれば良いということではない。

 自国だけ平和であれば良い、という姿勢は、前文の言う「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて」という一節に明らかに違反する。

 さらに、チベット[b,c]、ウイグル[d]など、チャイナの侵略により、第二次大戦後、世界で唯一植民地にされた国々、あるいは自由を求めて弾圧されているチャイナ人民の不幸を見過ごしては、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位」は目指せない。

 9条1項、および前文の説く国のあり方とは、国際社会の中で、「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しよう」と務める姿なのである。そして、我々は「国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」とまで、言っているのである。

■4.「戦争放棄」は自衛戦争を禁じてはいない

「積極的平和貢献」と言っても、「戦争放棄」を謳っている9条1項の以下の後半部分はどうであろうか。

国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 この項は、1928年に我が国も批准した「不戦条約」を下敷きにしており、その表現もほとんど同一である。(和文原文の片仮名書きを平仮名に、正漢字は当用漢字に改めた)

第一条 締約国は国際紛爭解決の爲戦争に訴ふることを非とし且其の相互関係に於て国家の政策の手段としての戦争を放棄することを其の各自の人民の名に於て厳粛に宣言す

 この条約は、個人に例えれば、言い争いが起こっても、暴力は振るわないようにしましょう、ということだ。だが、無法な相手が殴り掛かってきたら、身を守る権利、すなわち自衛権は正当防衛として認められている、という事は定説になっている。

 この条約を批准する際に、アメリカは自衛権は各主権国家に固有のものであり、いかなる形においても制限されない、と「アメリカ合衆国政府公文」で規定している。 不戦条約の考えを引き継いで、国連憲章第51条でも、次のように規定されている。

この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。

 したがって、9条1項が述べているのは、他国との紛争は平和的に解決しようとし、武力をもって言い分を通そうとはしない、という事であった。ただ武力で無法を通そうとする国家に対しては、個別的、集団的自衛権という「固有の権利」は持っているのである。

 そして、「積極的平和貢献」の実現のためにも、無法国家を抑止し、いざ侵略されて来たら、個別的・集団的自衛権を発動するための武力は必要不可欠なのである。

■5.9条2項は1項に矛盾

 ところが、9条2項が謳う「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とは、この1項や前文の「積極的平和貢献」を真っ向から否定する内容となっている。

 そもそも平和とは力の均衡から成り立つものであって、今、尖閣海域でなんとか平和が成り立っているのは、チャイナの軍事力に匹敵するだけの米軍と自衛隊の戦力があるからである。

 チャイナの南シナ海侵略がより露骨なのは、チャイナ対東南アジア諸国の戦力格差が大きいからだ。9条2項をまともに受け止めて、本当に戦力不保持に徹してしまえば、力の真空地帯を作ってしまい、平和貢献どころか、戦争誘発になってしまう。この点が、1項と2項で矛盾している点である。

出展:http://blog-imgs-73.fc2.com/t/o/r/toriton/i0528_0010.jpg

■6.「9条2項は日本国憲法を破壊する」

 長谷川教授は、さらに「9条2項は日本国憲法を破壊する」と指摘されている。9条2項を文字通り守ったら、日本国憲法の3大原理である基本的人権の尊重、国民主権、平和主義は成り立たなくなってしまう。

 まず「平和主義」については、上述のように、「積極的平和貢献」どころか、力の真空地帯を作って戦争を誘発することから、平和主義は破壊されてしまう。

「基本的人権の保障」と「国民主権」については、チベットやウイグルの現状を見れば、よくわかるだろう。チャイナの独裁政権にもとで、チベットでは信仰や言論の自由は弾圧され[b,c]、ウイグルは核実験場とされた[d]。両国人民の基本的人権は徹底的に踏みにじられている。

「国民主権」とは国民がその国の「主権」を持つということだが、チベットやウイグルのように、そもそも国が外国に主権を奪われた状態では、「国民主権」も成り立ちようがない。それもこれも、チベットやウイグルがチャイナの侵略をはねかえすだけの軍事力がなかったからである。

 したがって、「平和主義」も「基本的人権」も「国民主権」も、軍事力のない国家では維持できない。軍事力を否定する9条2項が日本国憲法を破壊する、というのは、こういう意味である。

■7.9条2項の前提となっていた沖縄の核基地

 憲法全体を破壊する9条2項がなぜ憲法の中に入れられたのか。昭和21(1946)年2月初め、占領軍総司令部(GHQ)民政局が日本国憲法の草案を1週間で作れと命ぜられた際に[e]、マッカーサーが示したのが「マッカーサー・ノート」だった。その第2項は、第9条の原型になっている。

 国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。

「自己の安全を保持するための手段としての戦争をも」の部分は、日本国憲法からは削除された。憲法起草チームのリーダーをつとめたケーディス大佐は「どの国家にも自己保存の権利があるという考え方から削ったのだ」と証言している。[2, 576] 

 実は、マッカーサーには彼なりの戦略構想があった。日本列島の防衛のためには、沖縄に航空戦力を主体とした基地をつくり、そこに最低でも9発の原子爆弾を配備すれば、充分、ソ連の脅威に対抗できる、という考えだった。

 1950(昭和25)年、北朝鮮軍が韓国に攻め込んで朝鮮戦争が始まると、マッカーサーは朝鮮半島に出動した米軍に代わって、日本における防衛・治安維持のために警察予備隊7万5千人の設置を指示した。この政策が9条2項に矛盾しかねない事は頬被りしていた。

 マッカーサーが去ったあと、ソ連やチャイナの代理人として国内左翼が9条2項を金科玉条として「非武装平和」というお花畑思想を国民に植えつけてきたのである。

■8.「平和主義は、日本の国体」

 9条1項の「積極的平和貢献」を生かし、それを阻害する2項の「非武装」を修正するというシナリオに、独自の視点を加えているのが、小川榮太郞氏の論文『戦後七十年ー平和主義を問い直す』[2]である。氏は言う。

そもそも平和主義は、日本の国体です。出雲(いずも)の国譲りの神話では、旧勢力を出雲に封じ込めますが、奴隷状態に置いたり、滅亡させたりしない。徳で慰撫(いぶ)し、鎮魂する。初代神武天皇も、矛(ほこ)を止めるという神の武威を表しています。[3]

 その神武天皇が即位されて、橿原の地に都をつくろうと出された詔(みことのり)で、次のように宣言されている。

人々がみな幸せに仲良くくらせるようにつとめましょう。天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか。なんと、楽しくうれしいことだろうか。[f]

 近代においても、日露戦争開戦に際して明治天皇は「よも(四方)の海みなはら(同胞)からと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」の御製を示されて、なんとか戦争を避けたいと思召めされた。昭和天皇も日米戦争開戦の際に、この御製を示されて、平和的交渉への最後の望みを託された。「八紘一宇」「四海同胞」という「積極的平和貢献」こそ我が国の伝統的理想であった。

 9条1項はこの伝統的理想につながるものと解釈しうる。その実現を阻む2項を改変すれば、日本国憲法は我が国の「根っこ」につながったものとなるだろう。

 改憲とは、「一国平和主義」で無法国家の横暴による他国・他民族の不幸には見て見ぬふりをし、結果的に自国も侵略されてしまう道を行くのか、「積極的平和貢献」で無法国家を抑止して、世界の国々と家族、兄弟として仲良くやっていく世界を目指すかのか、どちらの道を歩んでいくのか、という選択なのである。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

JOG(123) チベット・ホロコースト50年(上)~アデの悲しみ~  
 平穏な生活を送っていたチベット国民に、突如、中共軍が侵略を始めた
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JOG(124) チベット・ホロコースト50年(下)~ダライ・ラマ法王の祈り~
 アデは27年間、収容所に入れられ、故郷の文化も自然も収奪された
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JOG(523) シルクロードに降り注ぐ「死の灰」
 中国に植民地支配されたウイグル人の土地に、核実験の死の灰が降り注ぐ。
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f. JOG(074) 「おおみたから」と「一つ屋根」 神話にこめられた建国の理想を読む。
【リンク工事中】

■参考■
お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 朝日新聞DIGITAL「改憲、有権者の関心は9条」、H28.09.06

2. 長谷川三千子『九条を読もう!』★★★、幻冬舎新書(Kindle版)、H27

3. 小川榮太郎、「戦後七十年ー平和主義を問い直す 日本は大国であることを引き受けよ」『祖国と青年』H2707

■おたより■

■「重武装・中立」か「軽武装・集団的自衛権」しかない(Kanさん)
 
   本号の憲法9条改正は国民を二分するものとなっておりますが、少しずつ世界の実態を知った方たちにより改憲論も増えてきているようです。

 以前夢を見ていた方たちは「非武装・中立」等と唱えておりましたが、そんなものはこの世には有りません。有るのは「重武装・中立」又は「軽武装・集団的自衛権」のどちらか及び「重武装・覇権国(米国・中国のみ)」です。

「重武装・中立」国としてはスイス及びかつてのスェーデンが有りましたスェーデンは重武装及び徴兵によるコストに耐えかね、NATOによる「軽武装・集団的自衛権」を選択しました。 

 現在の日本に選択できるのは「重武装・中立」か「軽武装・集団的自衛権」のどちらかしかない。コストを考えれば「軽武装・集団的自衛権」にならざるを得ないでしょう。

「重武装・中立」は言い換えれば周辺に味方はおらず、周り全てが敵になるかもしれないということ。当然ながら全て敵にならないように外交力を高めるとともに、「その時」に備えて徴兵及び国民全てに訓練を実施させなければならず、その経済的損失や重武装によるコスト負担は増大するその事を判って集団的自衛権に反対する人は居るのだろうか・・・。

■編集長・伊勢雅臣より

 真面目に世界の歴史を学べば、「重武装・中立」又は「軽武装・集団的自衛権」しかないことは明らかでしょう。「非武装・中立」を唱えるのは、お花畑に生きるデュープス(間抜け、騙されやすい人々)か、嘘と知りつつ外国のために説く確信犯でしょう。





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