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JOG(986) 織田信長・豊臣秀吉による天下統一

 天下統一には、武力による全国制覇だけではなく、「安定した近世社会のしくみ」作りが必要だった。


■1.「信長は、朝廷に働きかけて義昭を第15代将軍に」

 東京書籍(東書)版中学歴史教科書では、織田信長を次のように記述している。

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 尾張(愛知県)の小さな戦国大名だった織田信長は、駿河(静岡県)の大名今川義元を桶狭間の戦い(愛知県)で破って、勢力を広げ、足利義昭を援助して京都に上りました。信長は、朝廷に働きかけて義昭を第15代将軍にすることで実権を握りました。しかし、1573年には、敵対するようになった義昭を京都から追放しました。(室町幕府の滅亡)[1, p106]
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 この部分を、育鵬社版では次のように描写している。

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 各地で争いをくり広げる戦国大名の中でも、特に大きな動きを示したのは尾張(愛知県)の織田信長でした。信長は駿河(静岡県)の有力大名今川義元を桶狭間の戦い(愛知県)で打ち破ると、京都に上り、足利義昭を将軍に立てて全国統一をめざしました。しかし、義昭と敵対するようになると、信長は義昭を京都から追放し、室町幕府は滅亡しました(1573年)。[2, p108]
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 ほぼ同様の内容だが、一点大きく違うのは、東書版が「信長は、朝廷に働きかけて義昭を第15代将軍にすることで」としているのに対し、育鵬社版は「京都に上り、足利義昭を将軍に立てて」と、さも自らが将軍を任命したような記述になっている点である。

 将軍とは天皇に任命される征夷大将軍の事であるから、東書版の記述の方が正確である。史実の正確な記述に心掛けている育鵬社版にしては、珍しい記述不十分である。将軍は天皇に任命される、という事を知らない中学生の中には、信長が「京都に上り」と言われても、なぜ京都なのか、分からない生徒もいるだろう。

■2.信長の皇室尊崇

 信長の面白いところは、楽市楽座で従来の商工業者の特権を取り払ったり、平安時代以来の霊場・比叡山延暦寺を焼き討ちにしたり、と伝統にまったく囚われない革命児であったにも関わらず、こと皇室に関しては尊崇の念が揺るがなかった点である。

 もともと織田氏は、越前国丹生(にゅう)郡の神官・斎部(いわべ)氏から出た。信長の父・信秀は天文10(1541)年に伊勢神宮へ造営費用を献じ、12年には朝廷に皇居の修理費4千貫文を献上している。その尊皇精神を受け継ぎ、信長も上洛した永禄12(1569)年に正親町天皇に皇居を造進している。歴史学者・村尾次郎博士は言う。

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 疎開して安全を保つことのできた人々はよいが、皇室には疎開の自由はなく、荒廃に帰した京都御所に不自由な生活を続けられた。その経済難は言語に絶するありさまで、即位の大礼をはじめ、重要な儀式はほとんど定めの時に行うことはできなかった。

皇居は荒れはて、宮垣の築地は崩れ落ちて、紫宸殿の上では子どもが土をこねて遊び、その前庭では町人が茶店を出していたという。後奈良天皇は、こうした中でひっそりと「般若心経」を写し、天文9年に醍醐寺三宝院に贈り、疫病の苦難が除かれることを祈られたのであった。

朝廷をおろそかにしてはならないという考えは、戦国末期にいたってようやく現れはじめる。[3, p287]
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「朝廷をおろそかにしてはならない」という考えを実践したのが、信長である。皇室を中心軸としながら、それ以外はすべて変革の対象にしたのは明治維新と同じである。それがわが国の変革の原理であることは拙著『世界が称賛する 国際派日本人』[a, p252]で述べた。

 皇室を中心として日本国を統合する、という信長のビジョンから見れば、将軍は天皇から任じられた一官位に過ぎない。義昭を一度は将軍に推戴しながらも、ひとたび敵対したら、惜しげもなく追放したのも、この本質を理解していたからだろう。

■3.一向一揆は「戦国乱世に無気味にはいまわるモンスター」

 信長の天下統一の過程を、育鵬社版は次のように記す。

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 信長は、鉄砲を有効に使い、 甲斐(山梨県)の武田勝頼を長篠の戦い(愛知県)で破るなど、敵対する大名を次々とたおしていきました。比叡山延暦寺を焼き討ちしたり、一向一揆をおさえ、 その中心だった石山本願寺(大阪府)を降伏させるなど、敵対する仏教勢力にはきびしい態度でのぞみました。

その一方で、 キリスト教に対しては寛容な態度をとり、貿易をすすめ、新しい世界の知識や文物を取り入れました。[2, p108]
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「敵対する仏教勢力」とは正確な表現である。「敵対しない仏教勢力」は保護しているからだ。安土城下の繁栄のために浄土宗の浄厳院や西光寺を誘致し、日蓮宗の所領を保護したりしている。

 しかし、石山本願寺を頂点とする一向宗は全国に無数の門徒を持ち、富強を誇っていた。石山本願寺の顕如(けんにょ)の時に各地で一向一揆を起こし、加賀の国などは守護を滅ぼして、地侍と百姓が支配する国としていた。

 顕如は武田信玄とは姻戚関係にあり、またその子・教如は朝倉義景の娘と婚約していた。その関係で、一向宗徒も反信長陣営に立った。信長にとって厄介だったのは、一向一揆の軍勢は民衆そのもの、しかも死を極楽浄土と考え、殉教精神に燃えた信者であったことだ。

 一向宗には一神教的な面があり、一揆国となった加賀では天台・真言・禅・法華など他宗には本願寺教団への転向を強要し、また百余りの神社を破壊して、神器・宝物を奪い取った。

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 戦国乱世に無気味にはいまわるモンスターが一向宗であり、これを克服することが、天下人にとっての最大の課題であった。[4, p66]
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 [b]で述べたように、殉教を厭わない一神教徒との平和的妥協は難しい。ヨーロッパではこれが数百万人規模の犠牲者を生んだ宗教戦争となったのだが、その二桁ほど小さいミニ版が、信長の一向宗徒との戦いに現れたのである。

 なお、信長がキリスト教に寛容だったのは初期の頃で、宣教師らの日本を侵略しようとする意図を見抜いてからは態度を改めている。[c,d]

■4.「尊皇の姿を示すこと前例なし」

 信長が明智光秀の謀反で倒れると、皇室を中心とする国家統合のビジョンは、そのまま秀吉に受け継がれた。育鵬社版は次のように記している。東書版も概ね同様の記述である。

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 1583(天正ll)年、秀吉は全国統一の拠点として巨大な大阪城を築き始めました。その後朝廷から関白に任ぜられると、朝廷の権威を後ろだてとして全国の大名に戦いの中止を求めました。これに従わなかった九州の島津氏などを攻めて降伏させ、1590(天正18)年には、関東の北条氏をほろぼし、奥州(東北地方)を平定して、全国統一を果たしました。[2, p109]
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「朝廷の権威を後ろだてとして全国の大名に戦いの中止を求め」たのは「惣無事令(そうぶじれい)」と呼ばれ、秀吉が全国を平定する際の法的な根拠になった。

 薩摩の島津義久が九州北部まで攻め上がると、秀吉は停戦命令を出したが、「島津家は頼朝以来の名門である」として、秀吉のような由緒不確かな人間には従わない。そこで秀吉は後陽成天皇の勅命を受けて出兵した。「官軍」の登場は南北朝以来の事である。

 天正16(1588)年、壮麗な聚楽第が完成すると、後陽成天皇の行幸を迎えた。それも秀吉自らが御所に参内してお迎えにあがり、「尊皇の姿を示すこと前例なし」と言われた。さらに29人の主要な大名に「子々孫々まで皇室に仕え、天皇に忠誠を誓う」という誓書を出させている。これはとりもなおさず、関白・太政大臣である自分に仕えよ、という事でもある。

 信長・秀吉の天下統一の成功の一因は、皇室の権威のもとで国家を統合する、という日本の伝統的な統治パターンに則っていた事であろう。同時に、後奈良天皇が貧窮の中でも「般若心経」の写経を通じて民の安寧を祈られていた大御心を受けて、平和な世を築こうとうとする姿勢に共感した人々も多かったからではないか。

■5.武装農民

 乱世を終わらせるための秀吉の施策が「検地と刀狩り」だが、その狙いを理解するためには、当時の農村の実態を見ておく必要がある。

 戦国時代には貴族や武士が武装農民を巻き込んで戦う私闘が絶えなかった。たとえば文亀元(1501)年、九条家当主の政基(まさとも)は家領だった日根野(ひねの)荘(大阪府泉佐野市)に乗り込こみ、年貢を私していた守護と武士たちを排除しようとした。政基と守護の争いに、武装した農民たちも二派に分かれて、千人以上の戦いが起きている。[5, p53]

 こういう貴族や武士の勢力争い以外にも、農村どうしが土地の縄張りや水源の取り合いで戦うこともあった。横行する盗人も、村人たちで捕まえて処刑した。信長を苦しめた一向宗徒も武装農民が多かった。

 加賀(石川県)の江沼郡は現在でも人口が7万足らずの小さな郡だが、刀狩りをした所、1、073本の刀、1、540本の脇差、160本の槍、700本の小刀が没収されたという。[5, p243]

■6.刀狩りと兵農分離

 こういう社会での「刀狩り」、すなわち農民からの武器の取り上げには、公権力がしっかりと盗人・野盗を取り締まり、村同士の争いなどを公正に仲裁しうる政治が前提となる。秀吉の惣無事令は大名間の争いだけでなく、百姓にいたるまですべての階層で合戦・私闘が禁じられた。その政策の一環としての刀狩りである。

 言わば、刀狩りとは、アメリカの西部劇に出てくるような無法暴力社会から脱して、現代日本のような非武装の民が安心して暮らせる社会を目指した政策だった。

 この点で、東書版では「また、武力による一揆を防ぐため、刀狩を命じて、農民や寺社から刀や弓、やり、鉄砲などの武器を取り上げました」と書くが、これでは権力者が民衆の反抗を防ぐための施策としか読めない。育鵬社版では、より正確に次のように記述している。

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さらに秀吉は、 1588(天正16)年に刀狩令を出し、農民や寺院から鉄砲、 刀、 弓、槍などの武器を取り上げました。これは農民らが武力で争いを解決したり、一揆をおこすことを防ぎ、農業に専念させるためでした。

 こうして、武士と農民の身分は明確に区別され(兵晨分離)、人々が身分に応じた職業により生計を立てる、安定した近世社会のしくみが整い、江戸時代へと受けつがれていきました。[2, p110]
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「身分の区別」というといかにも封建的に響くが、たとえば今日の日本でも、警官は武器を携行できるが、一般国民は武器を持てない。「身分の区別」を「社会的な役割の区別」と考えれば、現代に通ずる面が見える。この結論は東書版でも同様の記述で、それにより「社会は安定しました」と結んでいる。

■7.秀吉の偉大さを物語る「検地」

 農村での争いや役人の不正を減らすためにも、土地の所有権の明確化、年貢の適正化のための米の生産量の設定、さらにはそれを行うための度量衡の統一が必要となる。育鵬社版は次のように説明する。

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 秀吉は、全国の田畑の面積をはかり、土地のよしあしや予想される生産量、 耕作している農民の名前などを調べ、検地帳に記録させました。ものさしやます、土地面積の表し方も統一され、生産量はすべて石高(米の体積)で表されることになりました。これら秀吉が実施した検地を太閤検地といいます。

 これにより、武士や大名は石高で知行(領地)をあたえられ、それにみあった軍役を果たすことが義務づけられました。また、公家や寺社などの荘園領主や有力農民がもっていた複雑な土地の権利は否定され、実際に耕作している農民に田畑の所有権が認められました。[2, p110]
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 戦国の世を終わらせ、平和な社会を築くには、武力で天下をとるだけでは不十分で、こうした検地や刀狩りで、争いの芽を摘んでいく施策が必要だったのである。教科書でも、こういう意義の解説が欲しい所だ。

 村尾次郎博士は、この秀吉の業績を次のように評価している。

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 古来、土地制度の改革や、耕作地、用益地の実態調査およびその測量・登記などは至難のわざとされている。それは人の財産の最も基本的な部分に政治の力を加え、それを公然化することなので、大きな抵抗を覚悟しなければできないからである。その難事を断行したのは秀吉の偉大さを物語る。[3, p297]
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 戦乱の時代から「安定した近世社会」への変革は、国民統合の中心として皇室を戴き、民の安寧を祈る皇室の大御心を受けた信長と秀吉という二人の天才によって実現された。それを江戸幕府が受け継ぎ、260余年もの太平の世を実現したのである。
(文責:伊勢雅臣)


■リンク■

a. 伊勢雅臣『世界が称賛する 国際派日本人』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594075681/japanontheg01-22/

b. JOG(982) 歴史教科書読み比べ(29) ヨーロッパとの出会い
 キリスト教宣教師を尖兵として世界を植民地化しようとする西洋諸国に、日本はいかに対峙したか。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201612article_3.html

c. JOG(497) 冷戦、信長 対 キリシタン(上)~ 信長の危機感
 信者を増やし、キリシタン大名を操る宣教師たちの動きに信長は危機感を抱いた。
【リンク工事中】

d. JOG(498) 冷戦、信長 対 キリシタン(下)~ 信長の反撃
 信長の誇示する軍事力を見て、宣教師たちは日本の植民地化を諦めた。
【リンク工事中】


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1.『新編新しい社会歴史 [平成28年度採用]』★、東京書籍、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4487122325/japanontheg01-22/

2. 伊藤隆・川上和久ほか『新編 新しい日本の歴史』★★★、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4905382475/japanontheg01-22/

3. 村尾次郎『民族の生命の流れ』★★★、日本教文社、S48

4. 井上鋭夫『日本の歴史文庫〈10〉信長と秀吉』★★、講談社、S50

5. 山田邦明『戦国の活力 (全集 日本の歴史 8)』★、小学館、H20
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4096221082/japanontheg01-22/


■おたより

■平和な江戸時代の下地を作った秀吉(kannさん)

 今回の内容も従来、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康それぞれを一人ずつ取り上げるものが多い中、連続した歴史として取り上げており素晴らしいと思います。


 歴史は連続したものと考えれば、織田信長が当初認めていたキリスト教布教も、宣教師のした事やその後ろにいるスペイン・ポルトガルの思惑等が知られるにつれ、懐疑的となり、禁教に至るのも当然です。

 秀吉の惣無事令、刀狩とそれをやり遂げる為の検地、一つ一つが
とても難しい事なのにそれらを連続してやり遂げた豊臣秀吉と
家臣団の能力の高さが素晴らしいです。

 そこまでの下地があったから江戸時代は長く平和な時代となり、それが明治時代の大改革をやり遂げられた下地となったのですね。。。


■編集長・伊勢雅臣より

 信長、秀吉、家康と三代にわたる国家再建は、真っ当な国家観がないと、単なる「天下盗り」の物語になってしまいますね。

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