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医学以外の世界を見ていない自分は視野が狭いのか【思考】

経営を始めとした外の世界を見ている人を、片や医学のことしか見ていない自分と比較して、辛いと感じることがある。
別に医学のことばっか見てるのが悪い、なんて誰も言ってないのにね。


この様に、無意識下に自分の精神をすり減らす経験をしたことがある人は多いのではないだろうか。


「やっておいたほうがよいランキング」を無視しよう。

世間は(狭いよりも)広いに越したことはない、知り合いは(少ないよりも)多いに越したことはない、という考えが自分の中にあるのだろうな、と感じる。
これが自分を辛くするモトになっているのだろう。


「英語が話せたほうが良い」「試験の点数は高いに越したことはない」に並ぶ、やっておいたほうが良いことランキング。
「人脈は広いに越したことはない」「知り合いは多いに越したことはない」


なぜそう思っているのだろうか。

ここにあるものの一つとして「羨望」だろう。
自分が持っていないものを持っている人の事を見て、羨ましい、と感じる。隣の芝生は青いのだ。

では、どうすれば良いのか。

ここで更に無意識を言語化してみる。


「持たざるものには語る権利はない」

例えば「CBT90%を取るための勉強方法」を語るためには、自分が90%以上の点数を獲得しておく必要がある、と考えている。
それはなぜか。

その1つが「それっぽく見える感」である。権威性、と言い換えることも出来る。

つまり、全然点数が取れていない人が語る「90%獲得方法」と、
95%取得者が語る「90%獲得方法」があったとしよう。

どちらのほうが、信頼できそうだろうか?


言っている内容が同じだったとしても、なんだか後者のほうが、信頼度が高そうな気がする。実際にその人はそれで目標を達成した訳だし。

※ N=1であるし、実際にはその言語化された方法を試したから成功したとは限らないのだ。
言語化されていない部分に、その人の成功した秘訣が詰まっている可能性も残っている。

ここまでの話を通して、どうして自分が他人をうらやましがるのかを考えてみる。

つまり、

「持たざるものには語る権利がない」と思い込む

「私は何かを語りたいと思っている。語るためには何かを”持つ”必要がある」と感じる

持っていない自分と比較して、持っている人を羨ましい、と感じるようになる

という流れだ。

では「持たざるものには語る権利がない」という思い込み、これは「正しい」のだろうか。ここでは深くは語らない。

※ ここで正しいに「」を付けたのは、物事の正しさは状況によって変わる、ということを考えてのことである。


恐らく私は、頭の中では理解しているのです。

何かのステータスを所持していようがしていまいが、語る内容が同じであることを。

でも、それを押し通す自信が欠如しているのだと思います。

ステータスは、その欠落した自信を代用してくれる存在なのでしょう。


「他人と比べるな」と言うことは簡単ですが、どうして比べてしまうのでしょうか。
その1つの理由として、「羨望」があるのではないか、というお話でした。



では。

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