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誰にとっての価値なの?②

前回の続き

Richard III: A horse, a horse, my kingdom for a horse.(5.4 Richard III Shakespeare)
リチャード三世:馬だ、馬をよこせ、代わりに俺の王国をくれてやるぞ。(『リチャード三世』シェイクスピア 拙訳)

結局前回は「必要」に触れて最終的な結論に達しなかった。

ただ1つ言えることは「必要」にも種類があって、人として「健康で文化的な最低限の生活」を営むために「必要」なことと、あれが欲しいこれが欲しいっていう際限ない欲望からくる幻想の「必要」が有るということ。

この2つの違いを見極めることが今、求められていると思う。

価値は数値化できない?

そもそも価値は絶対的なものじゃないというのは経済学の基礎だと思う。
(私は経済学に損害を与えられている限りにおいて経済学に関心がある。基本的には興味ない。)

例えば100円のバナナを売る人と買う人がいたとする。この取引では、

売る人はバナナの価値が100円以下だから売る

買う人はバナナの価値が100円以上だから買う

ここに価値の差がある。

お互いの価値にズレがあるから取引が生まれるというのはある意味当然だろう。

今日の引用はその極端な例になる。

リチャード三世は追い込まれて生きるか死ぬかの瀬戸際にいる。その彼にとって、その場から逃げ出せる馬は王国よりも価値を持っていることになるわけだ。

少しでも理解の助けになれば、と思ったが逆に混乱してしまうかもしれない。ま、そんなもんだろう。

要するに、100円のバナナは必ずしも100円の価値があるわけではない。

シルクロードのバザールなんかを考えると良いと思う。「バザール」というのは「値段が決まる場所」という意味らしい。

つまり買い手によって、あるいは買う量によって値段が変わってくる。価値はものすごく流動的になっている。だからこれはいくらだ、という決められた価値がない。


ここで非常に申し訳ないことをしていると白状しよう。

価値=お金

としてしまっていた。

金は天下の回りモノ

お金は確かに数値化しようとする時にすごく便利。でもお金って一体なんなんじゃいっていう問題が残る。

それこそ今は金貨なんかとは違って硬貨自体に相応の価値はないし、紙幣なんてただの紙切れだ。それを国が(あるいは中央銀行か)、担保しているから価値のあるものとして流通しているわけだ。

じゃあお金は物だろうか。

そうではない。(少なくともそうであってはいけないはずだ)

物だと思ってしまうから貯めよう蓄えようと、まるでリスかのように抱え込んでしまう。

金は天下の回り物というじゃないか

(あ、物と言ってしまった。訂正しなければ)

お金は人の手から手へと回ってこそ機能する。だから、ある意味「取引の保留」でしかない。

バナナを売りたい。リンゴが欲しい。そんな人がいたら物々交換すれば良いわけだけど、「今」リンゴが欲しいわけではないとしたら、とりあえずバナナは腐っちゃうから売っておいて、あとでリンゴを手に入れよう。となる。

ここでの取引の保留がお金の正体じゃないかと思う。

まあ、正直経済には全く関心がないのでこの程度にしておく。

もっと、人間(これは畜生に対する考え方ではなく)として文化的に生きるための価値を模索していきたい。

文化的に生きるための価値

ああ、noteを始めてから3日、連続で徒然なるままに書いてきたけれどやっと本題に入れたという気持ちだ。でもこの記事もあと3分の1くらいしか残されていない。

少し文明批判になってしまうかもしれないのでそこはご容赦いただきたい。

日本は暑い。暑すぎる。私は一人暮らしをする貧乏学生なのでできればエアコンをつけたくない。

そんなことを7月の中旬に考えていた。エアコンは私にとって恐れ多い存在だ。エアコン様を使うほどの人間ではない。節約せねば。と考えていた。

ふと、そうめんが食べたい。となった。

別にそうめんが好きな訳でもないけど、本当にふとそう思った。

私は近所のスーパーに駆け込んでそうめんとめんつゆとネギの束を買った。全部で500円くらいだったと思う。

私は帰るや否やそうめんを作った。そうめんを茹でる時間が2分というのも初めて知った。(当然モノによるとは思うし、私が買ったのは一番安いやつだ。高いやつは3秒でできたりするんだろう。知らないけど)

ともかく、うだるような暑さの中、そうめんを食べていて、またふと思った。


「今、最高に日本人してるわあ」


そうめんでお腹が満たされたというのも相まって、一人で感激していた。

そうか。幸せって、こういうことだな。本気でそう思えた。

その時の私にとって、エアコンなんかよりも500円のそうめん(一食に換算したら100円もしないと思う)の方が圧倒的に価値があった。

文化的な最低限度の生活がこれほどまでに幸福だとは。

一人暮らしをしていると、本当に「自分にとって」必要なものが見えてくるような気がする。

誰かが最新のあれこれを持っているとか、ブランドのなになにを持っているとかそんなものはどうでも良い。

自分が素晴らしい夏を生きるために必要なのはそうめんだったのだ。


(今はエアコンに頼りきった生活をしている。堕落した。)


今日はここまで。次は何を書こうかな。

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