反LGBT論 ただの病気だろ?

最近ではLGBTの社会受容が大きく問題になっている。

果ては憲法改正まで検討されている。(日本国憲法第24条の「両性の合意」問題だ)

一度冷静になって、このセクシュアル・マイノリティの問題にちゃんと向き合いたい。

今のLGBT問題はまだ十分に検討されていないと思う。

LGBTの存在は今までの伝統を考えれば異常な事態である。(男娼などもいたが、あくまでもアンダー・グラウンドな世界だろう。)

一方で、少なくともLGBは確実に過去から継続して存在し続けている。

以上の2つの点は似ているようで全く別の問題点を含んでいる。だからこそ大きな紛糾の元になるのだろう。

つまり、LGBTをどういうものであると規定するかの問題と、存在するLGBT当事者をどう扱うかという問題に分けられると思う。


LGBTがどういうものであるかの規定に関しては私はタイトル通りの主張をしたい。ただ、少々過激な口ぶりになってしまったことは謝りたい。基本的にはLGBTに対してはリベラルな考えを持っているので優しい気持ちで読んで欲しい。

LGBTは病気である。

そもそも身体的性は生まれ持ったものであり、いわゆるジェンダーは生まれ持ったものではなく、社会的に構築されるものだと広く知られている。

社会的に構築されるものに過ぎないのだから、人間としてジェンダーに自由があって当然だろうというのが現代のLGBT容認派の考え方の基盤となっている。

一方で、人間は社会的な人間である。社会性を抜き取ってしまった人類はどうなってしまうのだろうか。社会構築された特性と人間の在り方は切っても切れない関係にある。歴史的に常に間違いを犯してきたが、それでも先人が積み上げてきたものはとても大きい。

現代社会において、伝統的社会構造に適応できていないある種の認知障害なのではないだろうか。

決して当事者を貶すつもりはない。

というのも、近頃では個人の性格でさえ類型化されて障害の名前を冠することもあるのだ。

かくいう私もパーソナリティ障害(別名、人格障害。私は人格を否定されているのだ)なのである。パーソナリティ障害というのは、「社会通念から逸脱した行動を幼い時期から安定して発揮すること」である。なんと、私はシンプルに性格が悪い、しかも障害レベルで。

正直そんなことはどうでもいい。なんと言われようが私は私だ。

じゃあなんのための障害認定か。私、ひいては当事者には関係がないのではないだろうか。

むしろ社会の中で人間がどうあるべきかを規定するための線引きになっているのだ。

だからこそ私はLGBTを病気、障害として規定したい。

進化論から見たLGBT

ではなぜLGBTが存在するのだろうか。あらゆる文化圏で一定数存在し続けているのだ。何か、存在意義があったのではないだろうか。

個人の見解としては、一種の自己犠牲的な種族特性ではないかと思っている。

また、自己犠牲的な利他行動がどのような進化の結果なのかは様々な議論があるが、ともかく繁殖をしない(同性愛によって)個体が存在するためには一定の必要性があったからであろう。

例えば、同性愛的な個体は、近親の異性愛のつがいを補助することで、結果として異性愛の間に生まれた子孫の生存可能性が高まっていたということは考えられないだろうか。これはある種の群れの行動原理となろうが、同性愛だからこそ絶対的に仲間の子供に対して補助を行える。

この考え方は一見進化論的に妥当に思われるが、どうやらそうでもなさそうだとの調査結果も出ているらしい。真偽は謎だ。

一説によると、同性愛の近親、とりわけ母方の女性ホルモンが多いという調査結果が出たらしい。それによって子供を産む可能性が他の個体よりも一定数高かったということで、女性ホルモンが多く分泌される種族だから結果として同性愛が生まれるという可能性もあるらしい。

こちらの方がLGBTは障害説をサポートしてくれそうだ。

広い見地でのLGBT

私は結局のところLGBTを容認したって何か変わるとは思えない。

ただ線引きが変わるに過ぎない。

何度も繰り返すことになるが、人間がどうあるべきかという規定を定めていかなければならないのであって、何でもかんでも仲間、仲間と線に引き入れていってはいけない。

例えば、LGBTも結局は1対1の一夫一妻主義という点では共通している。

では多夫多妻主義の人間は容認すべきだろうか。

私は多夫多妻主義に共感するところが多い。またこのことは改めて言及することにしよう。ただ、私も多夫多妻主義が憲法上で保障されるべきではないし、保障されるはずがないと考えている。長い歴史の中で(キリスト教、仏教をはじめとした世界で)モノガミー(一夫一妻主義)の基本を崩すことは、社会構造や宗教世界をも崩しかねない。

それは多くの人がお互いを愛をもって認め合い、幸福に生きるという基本原理を脅かしてしまう。

それではただのアナーキーな革命だ。現在の体制を破壊して0から再構築することになる。それは本望ではない。


結局のけものは必ず出てくるのだ。

では、どこで線を引くのか。LGBTは本当に人間の個性として引き入れていいものだろうか。

身体障害者は障害者である上で人間として共存できている。これは当たり前だ。

このような共存の仕方はできないだろうか。

障害は自分が意識するものではなく、他者が自分をどう見るかだ。

他者が愛をもっていれば障害は簡単に乗り越えられるはずだ。

違いを違いと認めてその上で認めあおうではないか。それが真に寛容になることではないか。

違いを認める寛容な社会へ

LGBTの存在自体は認めていかなければいけない。過去のように蓋をしてないものとしていてはいけない。

一方で、現代社会の結婚観にはそぐわないということも認めなければならない。

これは結婚観を変えていけばいいのだということではない。

過去から形成されてきた結婚観からあぶれる人は多い。その中の1つに過ぎない。


活発な議論をしたいので、当事者の思いや批判の声は是非ともコメントしてほしい。



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