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卒業と友達とのこと


人生で4回目の卒業式を迎えた。

その日は、ジャケットすら脱ぎたくなるほどの暖かい日差しが降り注ぐ春の日だった。とても良い門出の日ということ覚えているのだけれど、式そのものについては改めて思い出すことがなにもない。

ありふれた言葉が並ぶ祝辞を、うとうとしながら耳にする。それが終われば、全く知らない在校生の送辞に、全く知らない卒業生の答辞。歌ったことのない校歌を雰囲気で口にした。そうしているうちに、終わりを迎え、いつのまにか卒業が完了。晴れて卒業生となった。

むしろ記憶に残っているのはその後のことだ。

4年間の日々を締めくくるように写真を取ったこと。エアビーアンドビーで借りた一軒家で、やすい酒を酌み交わしたこと。スマブラの死闘を繰り返したこと。余韻に浸りたくて、脱いでしまったら本当に終わってしまう気がして、卒業式に着ていたスーツをそのまま着ていたこと。朝まで友人たちと過ごしたこと。

最後だから、を言い訳にしていろいろなことを語り合ううちに時間は過ぎていき、気づくと眠りについていた。はしゃいだ疲れと横に誰かがいる安心感のおかげでひどく幸せな気持ちでまぶたを閉じていた。

深い眠りから覚め、みんなとなくなくお別れをし、1人帰路につくと、唐突に寂しさが僕を襲った。絶対に会えないわけではないのに無性に怖くなった。ぶっちゃけ家で泣いた。

そんなしどろもどろな感情が収まった時には、友達の存在の大きさを強く感じるようになった。

しかし友達という大切な存在を実感したと同時に「友達」という関係はなんて曖昧なものなのか、と考えていた。

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友達には明確な契約がない。
基本的に、関係と呼ばれるものには契約がまとわりつき成り立っている。

例えば、人生で初めて構築する人間関係である「家族」。それは血縁や法律でつながっていて、簡単にその関係を壊すことはできない。

夫婦も、例外を除けば役所で法的手続きの書類を書く必要があるし、まだ恋人であったとしても「付き合う」だとかの口約束を結んでいる(と思う)。

しかし友達という関係は、契約を結ばない。

「友達であるならサインしてください」みたいな書類もなければ、「友だちになろう!」(これはたまにあるかも)のような両者を結びつける決まりきったものは存在しない。そんなことをしてしまえば、興が冷めるというものだ。

それに加えて最近のSNSはフォローボタン一つで繋がれるようになったり、メッセージアプリもIDさえ交換してしまえば友だちの欄にくくられたりする。だから「友達」という言葉がよりふやけたものになっている気がすると僕は思う。

それでも友達という関係はたしかに存在し、当事者同士にしか分からない曖昧な何かがそこにあることを僕たちは知っている。

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ではそれはなんなのか、友達とはどこからなのか、という問いは青春と呼ばれた日々の中で10人中1人は考えたことがあると思うのだけれど、大学を卒業した今、その定義について再び考えてみる。

とはいってみたものの考えついた結論は、決まりきった定義なんてものは存在しない、ということ。こじつけるとしたら「人によってそれぞれ違う」ことが定義なのだと思う。

話が合う
一緒に飲みに行ける
秘密を共有した
フィーリング


あるいは一度話したことがあればもう友達!なんて人もいる。

それぞれ自分の中で感じていて、言葉にしなくとも定めている何かがあり、友達と呼んでいるのだ。

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じゃあお前は何をして友達なのかと、自分に問いかけていたら、ふと、耳に入ってきた歌詞があった。

「たしかなものはきっと一つも無いのにな どうせ忘れるくせにな」

マカロニえんぴつの『春の嵐』という曲。
恋人との別れを歌った曲なのだが、なんとなくこの歌詞が僕が思っている友達に近いのかなと思った。

「忘れては  思い出す人たち」

これが僕の考える、友達を友達たらしめるものだ。

正直なところ、常に友達の事を考えているわけではない。目の前のことに必死になったり、自分のやりたいことをしたりして気づかないうちに毎日が過ぎる。

その過ぎていく日々の中で積み重なった過去の事実は、だるま落としのようにところどころ抜け落ちていくものだけれど、自然とそれを拾い集めて目の前に現像するものがある。

それがいわゆる「おもいで」というやつ

不思議と小走りにさせられる西門で聞く9時のチャイム。
内容はわからないけれど出席のためだけにとりあえず出ていた講義。
あちらこちらで騒いでいる中トントンとグラスが2回鳴る音。
体に匂いが染み渡るほど焼いた学園祭の焼き鳥。

部室で笑うみんなの声

こんなささやかなものを、季節の移ろいとともに忘れては、きっとまた思い出す日が来る。過去の事実が思い出されて、それは初めておもいでと呼ばれるのだ。

そして、このおもいでと呼ばれるものの中に存在している人たちを、僕は「友達」と呼びたい。

「友達」という関係に確かなものはきっと無いのだけれども、その曖昧さの中に居るからこそ「友達」なのだと僕は思う。

なんて結論づけた文章の最後に、その友達へ感謝の言葉を添えて、この文章を締めくくりたい。

大切な友人たちへ

みんなに出会わなければ、ここまで楽しい学生生活は送れなかったと思います。

とてもとても楽しい日々でした。
ありがとう。
そして、これからもよろしく。

2019/3/22

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