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『蜜蜂と遠雷』恩田陸著 ー好きになることより、好きでい続けることのほうが難しいー

『蜜蜂と遠雷』を読むと、音楽の可能性が無限大だと思い知る。

ふだん音楽を聞いていると、情景が思い浮かぶことってあると思う。それこそミュージックビデオみたいに、音楽の雰囲気をまとった映像がふんわりと頭のすみをかすめるみたいな。

暗闇を走り抜ける少年。
月の光のもとで物思いに耽る老人。
大草原で手を広げて叫ぶ少女。

様々なイメージを見たこともないのに、まるで記憶の中にあったかのように錯覚させる。
それは音楽が与える一つの魔法のようなものだ。

ただ、『蜜蜂と遠雷』は音楽と、音楽から思い浮かぶ情景を文章で表現する。

読んでいるのに音が聞こえてくる感覚にさせられる。魂が震えるとはよく言うが、はじめて分かった気がした。

恩田陸著『蜜蜂と遠雷』は4人の天才ピアニストが繰り広げる群像劇だ。

かつて天才少女として名を馳せたが、あることがきっかけでピアノを弾くことをやめた栄伝亜夜。
楽器店勤務で所帯を持っている、コンクールの年齢制限ギリギリの28歳、高島明石。
名門音楽院所属の優勝候補、マサル・Cレヴィ・アナトール。
養蜂家の父とともに各地を転々とするピアノを持たない少年、風間塵。

世界的に権威のあるコンクールを舞台に優勝を勝ち取るのは誰なのか、というのがおおまかなあらすじだ。

単行本だと、1ページに上下段でさらに500ページもある圧倒的分量なんだけど、それこそ音楽みたいに自然と入ってくる。ただ淡々と続くわけではなく、静謐さと喧騒さを兼ね備えて全然飽きやしない。

読み進めたいというよりは、流れるように手がページをめくっているから、さらっと読み終わってしまった。

天才たちのお話って、それこそ僕みたいな凡人には別世界で起きているような気持ちにさせられるのだけれど、本作にはたくさんの人物が登場する。

コンクールの審査員、ピアニストを追いかけるテレビのディレクター、高島明石の妻。
一般人として読者側の目線が、絶妙なタイミングで入ってくるので、置いてけぼりになることなく、物語に没頭していける。

何より、高島明石の存在が大きい。

天才4人とは言ったが、高島明石以外は感覚派の天才。神様からピアノの才能を与えられた存在であるのに対し、高島明石だけは、生活者の音楽があると胸に抱え努力する人物なのだ。

だから読んでいる最中、高島明石だけ少し贔屓して見てしまった。中でも、亜夜と対面し言葉を交わすシーンはボロボロと涙がこぼれてしまった。

本作は人間の才能を見事に描いている。
個人的な話になるけれど、最近立て続けに天才がキーワードの小説を読んでいる。
本って運命のようにその時欲しい物語や言葉に出会うから不思議だ。

そんな本を読んで、天才っていうのは、自分の好きを疑うわけもなくやっているから極みにたどり着くっていういのが結論なのだけれど、天才に憧れている僕は、じゃあ自分の好きっていったいなんなんだ、という疑問にたどり着いてしまったわけです。

そんなときにこの本に出会って、ある一節に、これだ!って思わされた。

『世界中にたった一人しかいなくても、野原にピアノが転がっていたら、いつまでも弾き続けていたいくらい好きだなあ』

恩田陸『蜜蜂と遠雷』幻冬舎 2016年 391頁

好きとは他人の比較や目線に関係なく、自分の中で完結するものだ。

自分より他の人のほうが詳しいとか、時間を費やしているとかそういったものではなく、好きが日常としてそこにあり、苦しみすらも好きなものを追い求めるには当たり前だと体に染み込んでいる。

好きになることより、好きでい続けることのほうが難しい。天才たちはその才能も持ち合わせている。

この世界で一人になったとしても、あなたは好きなものを好きでい続けられるのか。
その問いに素直に「はい」と答えられるものが自分の好きなものなのではないだろうか。

好きと天才は相互関係にある。
『蜜蜂と遠雷』を読むと、より一層そのことを強く感じてしまうのである。


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