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映画『窮鼠はチーズの夢を見る』は恋愛の全てだった。


あんな人好きになるんじゃなかった。
でも好きになるしかなかった。

人を好きになる苦しみ。
好きになることで変わってしまう不安や、好きになってはいけない人を好きになってしまうままならなさ。

色気が溢れ出す大倉忠義とどこか可愛らしさが混在する成田凌が演じる『窮鼠はチーズの夢を見る』は人が人を好きになる恋愛の葛藤全てが描かれていました。

恋愛から遠ざかっている人
好きになるってどういうことだっけ?
そう思う人は今作を鑑賞すればきっと自分の恋愛観があぶり出されるはず。
たぶん辛いけど。

原作は水城せとな。
『脳内ポイズンベリー』や『失恋ショコラティエ』など、恋愛における感情を描いた作品が映画化やドラマ化され、それらを見た人も多いはず。

そんな彼女と『世界の中心で、愛をさけぶ』や『ナラタージュ』など、これまた恋愛映画の名手の行定勲監督がタッグを組み、至極の恋愛映画に仕上がっています。

物語は優柔不断で、自分を愛してくれる人に流されてきたサラリーマンの大伴恭一(大倉忠義)と大学の後輩の今ヶ瀬渉(成田凌)が再開するところから始まります。

今ヶ瀬が現れた理由は恭一の身辺調査。探偵をしている彼は恭一の妻から頼まれ、恭一の浮気現場を見つけてしまう。

大学時代から恋心をいだいていた今ヶ瀬は浮気を報告しない代わりに、体の関係を求める。

しかし、浮気とは別の理由で離婚した恭一は一人暮らしを始める。その部屋に今ヶ瀬は転がり込み、共に生活していく中で、少しずつ今ヶ瀬を受け入れていく恭一。

だがそこに昔の恋人、夏生(さとう ほなみ)が現れて、、、

あらすじを見るとん?泥沼ものか?とも思うんだけど(実際泥沼でもあるんだけど)純度100%の恋愛映画です。

見てて息を飲んだのは今ヶ瀬と夏生が対峙するシーン。

互いを牽制し合う皮肉の言い合いは緊張感が溢れ、じっと見守ることしかできません。恋愛の相手を貶めようとする言葉は本当に怖い、、、
そして、夏生は私と今ヶ瀬、どちらを選ぶのかと、攻め寄ります。

私と別の相手どちらを選ぶのか。
実際こんな場面に遭遇してしまったら、動揺して言葉にできるのか僕自身も曖昧な返事で逃げてしまいそう。実際に恭一も迷っちゃう。

ただなんか違和感があるんですよね。

僕が知っているのは異性が二人いてどちらかを選ぶという構図。

男女の恋愛のいざこざとかでよくあるやつみたいな。
実際に体感したわけではないけれど、ほかの映画や小説とか、人の話で聞いたりとかで。

ただ今回は、同性と異性どちらを選ぶのかなんですよね。しかも恋愛として。

そこでやっと思うんです。
あ、男と男の話じゃんって。もちろんそのつもりで見に行ったはずだから、頭にはあります。
けど大倉忠義と成田凌のじゃれあいとか、関係が進んでいく様子とか、自分も体験したことのある恋愛の過程そのままなんですよね。

そして一旦頭を切り替えるんですけど、やっぱりこれは男と女でもよくある話だし、、、ってもう一度戻される。

その結果、あ、この映画同性愛の話だけど、
性別云々じゃないわ、当たり前のようにある
恋愛の話だわってなる。


だからね、ああもう恋愛は男と女の話ではないんだと改めて感じるわけです。
様々なセクシャリティが認められている現代では、もはや恋愛=男女で語られることはナンセンスで性別は恋愛を語る上での一つの形でしかない。

そんなことも、一つの要素として伝えたかったんじゃないかなって思います。

その考えを裏付けするように、男女で語られがちだった恋愛のもつれを描くシーンが多かった。

例えば、昔の恋人の私物を見つけて動揺したり、スマホの覗き見や私服についているファンデーションの痕跡から自分以外の別の相手との関係を気にしたり。

人が恋愛をする中で感じる苦しい思いはもう男女問わずのものなんだ。気になるよね、相手が別の人と関係とか持ってないかって。気になるたびに相手からの印象は悪くなるんだけど、それでも心は嘘をつけない。うん苦しいね。

なによりそう感じるのが成田凌の演技。

男だからそのまま演じてもいいはずなのに、仕草とか声質とかどことなく女性らしさが感じられていちいち可愛いんです。

これはもうナイス配役です。

***

さて、そもそも恋愛とはいったいなんなんですかね。
人が人を思う気持ち。けどそれ以上の思いを抱えて苦しんでしまう恋愛とはどんな構造なのか。

恋愛の作法について語られることはよくあるけれど、恋愛とはそもそもどういったことなのかって考えたことありますか?

好きがどういうことか分からないとか、周りの友達で言う人がいるんですけど、やっぱりこの映画は恋愛の真理を語ってるわけです。

それは作中の今ヶ瀬のこんなセリフ。

”心底惚れるって、すべてにおいて、
その人だけが例外になっちゃう、ってことなんですね
恋をするってその人だけが例外になっちゃうこと”

うん。そうだ。
恋愛とはそういうものだったわ。

たくさん居る人の中で、ある一人だけが自分の感情とか経験とか自分のコントロールできる枠を超えてしまう。

その例外は自分だけでは得ることのできなかった幸福を与えてくれることもあるし、
得る必要もなかった不幸を渡してくることもある。

面倒だからやめてしまえばいいのになんて思うけれど、そんなことができるはずもなく、
人が人を好きになる葛藤は収まることを知らない波のように僕達の心を流していく。
理性では押し切ることのできないそれは、もうとどまらない。

そして例外なのは相手だけではなく自分もだ。
恭一が別の女性の前ではなく、渉の前で見せる表情や行動も、例外だからこそ出てしまう。

同じく渉も言いたくないことまで言ってしまったり、考えれば嫌われるだろうなってことまでしちゃう。


どんなに理性的に振る舞っていようとも、例外の前だけでは、見せたくない自分も無意識に出してしまう醜さもまた例外なんだって。恋愛は人間関係の例外である。しっくりきますね。

う~んそれにしても良かったなあ。

同性愛ではあるけれど、ごくごくありふれた恋愛の話。
恭一と今ヶ瀬の、人と人の恋の話。同性愛だから客観的に見れるかなあなんて思ってたけど、全然主観的になっちゃったね。


見た人はいったい、どんな感情になるのかな。
人によっては恭一の気持ちと今ヶ瀬の気持ちに共感する人別れるとは思うけど、おそらくそれは自分の恋愛に対する全てなのだと思う。

R15指定で過激な描写も多いけど、気になる人はぜひ。


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