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cero - e o


ここ最近、過去作に一度も触れたことのないバンドなのに「これはスゴい」と思ったのが、他ならぬ東京のスリーピースバンド、ceroの最新作である『e o』だった。

噂通り、本作は言語化することが難しい作品だ。個人的に、これほどまでに言語化が不可能に近い作品は岡田拓郎の『Mornig Sun』以来で、しかしceroの『e o』を的確に言語化する上においては、少なくとも自分の中では「ほぼ岡田拓郎」の一言ですべて片付ける事ができる。

もちろん、ceroのメンバーと同じ東京のSSWである岡田拓郎は日本の音楽シーンにおいて距離感が非常に近いインディー系のミュージシャン同士だが、(先述したように)この『e o』は岡田拓郎は岡田拓郎でもジャズに傾倒していた最新作の『Betsu No Jikan』ではなく、2ndアルバムの『Mornig Sun』やEPの『The Beach EP』、特に前者の『Mornig Sun』と地続きで繋がっている(コネクトしている)ようでいて、一方で繋がっていないような作品で、少なくとも音源の体温や揺蕩う波長は同種といった印象を受ける。

その「ほぼ岡田拓郎」を象徴するオープニングナンバーの#1”エピグラフ”からして、岡田拓郎の『Mornig Sun』におけるインディー~ニューエイジズム~アンビエント・ポップ的な佇まい、つまり環境(音楽)として「そこにある音楽」すなわち日常のノスタルジーと非日常の影(シャドウ)から生まれた新たなる影(シャドウ)とでも言うのだろうか。

ネオ・ソウル調の#2”ネメシス”に継ぎ、シンセ・ポップ~インディトロニカを装った#3”タブローズ”、岡田拓郎の『The Beach EP』と共鳴する真夏のビーチに佇むアンビエンス感やスペース・サイケ的なアプローチを以って”ポスト・プログレッシブの調べ”を奏でる#4”海星の海”は、もはや宇多田ヒカルの最新作『BADモード』の系列店として聴かせてしまう懐の広さがある。

少し話は変わるが、声優の青山吉能が今年の三月に発表したソロデビュー作となる『la valigia』の一曲目の”Sunday”は、露骨にシティポップを模した曲だった。何を隠そう、そのシティポップ然とした楽曲をはじめ、フランス語で「スーツケース」を意味する表題や海外(パリ?)への旅行を示唆するアートワークで思い出したのが、日本人の寺本來可がYUKIKAとして韓国でソロデビューを果たしたアルバム『SOUL LADY』に他ならない。というのも、その内容も古き良きシティポップを模範した楽曲を中心に構成されていながらも、中には東京(羽田)からソウル(金浦)へと旅立つYUKIKA自身の芸能生活と、金浦空港に着陸する際のCAの機内アナウンスのサンプリングや郷愁を誘うローファイなサウンドをシンクロさせるという、そのエモい演出に感情を刺激された記憶があるからだ。

活躍する場は違えど、「シティポップ」や「旅行」を示唆する作品と共振する側面を持ち合わせているのがceroの『e o』であり、だからといって「ただのシティポップ」かと聞かれたら、それも少し違う。その「違い」というのは、ざっくりと説明すれば「コロナ禍以前のシティポップか、コロナ禍以降のシティポップか」の違いにある。

例えば、青山吉能とYUKIKAの楽曲が以前までのシティポップ、つまりコロナ禍前の陽に当たるシティポップだと仮定するなら、2020年の初めにリリースされた岡田拓郎の『Mornig Sun』以降のコロナ禍(いつからコロナ禍だっけ?)すなわちディストピアのシティポップ(を示唆する#11”アンゲルス・ノーヴス”)、陽の当たらない日影(シャドウ)の都市の景色を描き出しながら、ある種のユートピア(サンクチュアリ)に導かれる「旅路」をメタする本作の物語性には舌を巻く。

#2”ネメシス”の「空は凪いで 最後の便が発った」を皮切りに、たびたび「旅行」を暗喩するリリックを含め、ドラマや宗教や音楽など様々な分野でトレンド化している「サンクチュアリ」が歌詞に込められた#6”キューポラ”における、(先述したように)シティポップを司るアイコニックな音源と言えるCAの機内アナウンスのサンプリングは本作最大のパンチラインで(ASMR要素も)、それは端的に”コロナ明け”あるいは”コロナ以降”を明確に示唆する音源であり、コロナ禍が明けて自由に海外へと旅できる日常、同時にそれはコロナ以前の日常とは微かに違う影を帯びた非日常の無重力世界への旅路でもある。

冒頭から「フハッ・・・w」っと民族音楽的なアヴァンギャリズムとオリエンタリズムが共存する#5”フハ”、宅録系ならではのローファイなアプローチを垣間見せる#7”イブニング・ニュース”、ファンキーでダンサブルなシティポップの#8”エフ・ディー・エフ”、彼らのポスト・プログレッシブバンドとしての才能が開花するスペース/イーサリアル・ウェイブ調の#9”スリプラ”とサマーナイト・ポップ~ネオ・サイケ由来のATMSフィールドを展開する#10”ソロン”、Grouperさながらのピアノが奏でるアンビエント・ポップの#11”アンゲルス・ノーヴス”は、それこそ都市部に流れるe oの旋律によって街が徐々に朽ち果てていくイメージを脳裏に浮かび上がらせ、しかしそのイメージは東京都で暮らす人間だけが正確に捉えることができるイメージに過ぎず、あくまで他者の想像に過ぎない。その「都市」といえば、他でもない「都市の環境音楽」をテーマに描かれた岡田拓郎とduennによるコラボ作品の『都市計画』を連想させる。

まるでポスト・コロナと化した地球から脱出を図る人類の「宇宙への逃避行」、そんなコテコテのSF映画的な解釈も可能にするフレキシブルな面白さに富んだ作品だ。その現実とSFの狭間を行き来するという意味では、アイドルグループの代代代の最新作『MAYBE PERFECT』における、文明社会が滅んだ後に「東京の女の子、どうした?」の一言だけプログラムされたAI(アンドロイド)だけが活動するポスト・アポカリプス的な世界観とも必然的なシンクロニシティを起こす。そこには「東京の女の子」も「救済者」もいない。

もちろん、これを軽々しく文学的と評すのは少し違うだろうし、とにかく高精度のアレンジやジャズを嗜好したウォーミーなサウンド・プロダクトも含めて、トータルでアート・ポップ(ポスト・プログレッシブ)としてはもとより、端的にポップ・ミュージックとしての完成度が異常過ぎる。改めて、ヒッキーの『BADモード』と双璧をなすレベルにあると。

正直、ここまで日本の夏~の夜~の散歩に合う音源は他にないかもしれないし、むしろ過去作を知らない人にこそ響く音楽かもしれない(でも岡田拓郎の作品を知っておく必要は最低限ある矛盾)。

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