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『義母と娘のブルース』謹賀新年SP 「どっちでも幸せ」

1月2日に、一昨年大感動を巻き起こした『義母と娘のブルース謹賀新年SP』が放送されました。

年末年始にかけて、TBSは名作ドラマを一挙放送していて、「ぎぼむす」も一挙放送していました。気持ちを蘇らせる為にも、まだ削除していないダイジェスト版と最終回を観てから、ドラマSPを観ました。

ネタバレはしないように感想と発見をシェアしたいと思います。


血よりも濃い、家族の絆

この作品は、「家族とは血ではなく絆」というテーマがあると思います。

妻を亡くし、幼い子と父の父子家庭で、その父はスキルス性の胃ガンだった。余命いくばくという中で、娘を任せられる人と結婚して、娘を託しました。良一の思いを知った亜希子は、そんな家庭の中で、娘のみゆきと向き合い、絆を深めていきますが、良一は亡くなります。

高校生になったみゆきと義母の亜希子の関係は、本当の親子のように、それ以上の関係になります。以前のドラマでは、高校生のみゆきに、社会人として働く大人の姿を見せ、それぞれの道を進む、というエンディングでした。

血が繋がった親子だからこそ悩み苦しむことがあり、血が繋がっていないからこそ悩み苦しむことがある。

私の母は養子でした。中学生の時に知ったそうで、その時はとてもショックだったそうです。祖父母は子供ができなかったので、母を引き取った後、子供ができ、妹ができました。それでも母は、実子以上に愛されていたと思ったそうです。だから、血が繋がっていなくても、親子の絆は変わらなかったそうです。

その事実を私は20歳の時に知りましたが、祖母に対して、血が繋がっていないからと、関係が変わることはありませんでした。

「ぎぼむす」の場合、最初から血が繋がっていないことはわかっていますが、だからこそ、悩みも出てきます。


今を生きることが、幸せへの一番の近道

新春SPでは、特にそういった部分をテーマにしていてように感じましたが、もし、みゆきの両親が死んでいなかったら、どうだったのか?

血の繋がっていない義母からしたら、どんなに頑張っても、実の親には勝てないと思ってしまうものです。それは、命の危険を冒してでも子供を産んだのですから。その上で、働きながら、家事をしながら、子育てをする。実の親に勝てるはずがありません。

まぁ、勝った負けたということではありませんが、実の親には敵わない、と思うのは当然のことかもしれません。

しかし、みゆきは、そんな義母に言います。

「なら私、どっちでも幸せだったんだね」

と。

親が生きていた方が幸せだったかもしれませんが、亡くなった今でも、十分に幸せなんだから、どちらであっても幸せなのだと。

以前、「後悔は幻想でしかない」というコラムを配信しました。

人生、「あの時こうだったら」とか、"たられば"を言いがちです。特に後悔したことがある時ほど、"たられば"を持ち出してしまうと思いますが、それは幸せも同じことです。

みゆきの両親が生きていたら、みゆきはもっと幸せだったかもしれません。しかし、後悔が幻想でしかないように、今の方が幸せかもしれません。

どんな過去や未来が幸せなのかなんて、誰にもわかりません。わかるのは、確かな「今」しかありません。その「今」も、理想と比べれば、不幸なものかもしれません。逆に、最悪な不幸な状態と比べれば、辛い「今」は割と幸せなのかもしれません。

要は、捉え方次第です。

みゆきのように、辛い過去があっても、理想の今であったとしても、「どちらでも幸せ」と思えるようで在ることが、幸せな状態だと思うのです。

済んだことを嘆いても仕方ない。手に入らな鋳物を欲しがっても仕方ない。

「今」手にしているもので、きっと人は十分幸せでいられると思います。


自分を幸せにできるのは自分自身

ただ、そう簡単にそんな風に思えないのもわかります。だからこそ、「今」と向き合い、「自分」と向き合い、道中を楽しんでいくことが、幸せでいられるということなんだと、実感しています。

今が不幸だと思っている方もいると思います。私だって、そう思えない時はたくさんありました。でも、道中を楽しみ、"せいをおかげに"していければ、後から、"おかげ"に変えることはいくらでもできます。

自分を救うのは、神でも仏でもない。親でも子でもない。ましてや赤の他人ではなく、私でもありません(笑)

自分を救うことができるのは自分自身以外にいません。そう覚悟を持って生きることが、自分を自由にし、どんなことがあっても幸せでいられるものです。

「どっちでも幸せ」

どころか、

「どうなっても幸せ」

そんな風に生きていくし、コラムを読んでいただいた方に何かが伝わればいいなと思います。

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