シェアハウス・ロック2401中旬投稿分

腸内ダイバーシティ0111

 國澤純さんご自身も前回、前々回紹介した掲載記事の最後で「腸内のダイバーシティ」という言葉を使っておられ、そして、ダイバーシティを高めるため、ヨーグルトの選定では、「安さ基準でスーパーの日替わり特売ヨーグルトを買うほうがいいのかもしれません」と言っておられる。
 ここから、前回の最後に申しあげたように、相当のことがわかってはきたものの、まだまだわからないことが多いことがうかがえる。
 だから、とりあえず「体感」が重要になるわけである。私も、前々回申しあげたように、「新ビオフェルミンS」と「ある乳酸菌」と「エビオス錠」を常用しているのであるが、納豆を食べると2、3日は調子がいいことが「体感」できる。
 ああ、突然だけど大事なことを申しあげておく。乳酸菌、ビフィズス菌等々は、過剰摂取しても害はない。薬じゃないんだから。せいぜい下痢をするくらいである。
 一時期、「善玉菌」「悪玉菌」という言葉を使って、腸内環境の話をしているのをよく耳にした。私は、そんなにすっきり「善玉」「悪玉」などと言えるのかなと疑問だった。昔々の東映映画じゃないんだからさ。
 ここからは冗談ではないが、これは子どものころ、「害鳥」「益鳥」という人間基準の評価が嫌だったことも関係していると思う。スズメは確かに害を与えるが、「益」だっていくらでもある。たかだか人間基準でそんなことを言ってはいけない。
 そんなことを考えているうち、「日和見菌」という言い方が出てきた。日和見菌は、文字通り日和見だが、善玉菌優勢になると善玉菌を助ける働きをし、むしろ日和見菌のほうが腸内環境の改善に寄与するところが大きいことがわかってきたのである。ちなみに、「善玉菌」「日和見菌」「悪玉菌」の割合は、以前お話しした「よく働く働きアリ」「普通に働く働きアリ」「怠ける働きアリ」の割合と同じように、2:6:2程度らしい。なんだか、この数字は黄金律みたいだね。
 このごろでは、私は、「悪玉菌」ですら、「日和見菌」「善玉菌」を賦活する働きがあるのではないだろうかとすら思っている。山勘だが、「悪玉菌」も全部排除してはダメだということになるような気がしている。
 それともうひとつ。
 エビオスはビール酵母のかたまり(それにビタミン、ミネラル類が添加されている)である。つまり、酵母、酵素というのも大きな働きをするのではないかと思い、加えたわけである。
 ここまで来ると、相互関係は爆発的に増え、なにとなにがどう協働して健康に寄与するのか、ほとんどわからなくなってしまうだろうけど、それでも、ひとつひとつ解明されていくのではないかと考えている。このあたりは未開拓地だからね。研究者が殺到することが考えられる。。
 いきなり私ごとというか、些事になるが『シェアハウス・ロック0105』で、毎朝の食事に「去年の暮れからはヨーグルトが加わった」と書いたのは、これによって、リンパ節切除と抗がん剤治療をやらないことにしたおばさんの免疫力を多少なりとも高めようと、私もヨーグルト摂取に付き合っているわけである。「新ビオフェルミンS」と「ある乳酸菌」は、おばさんも常用している。

鳥取の婆や0112

 以前、鳥取の婆やを自称する人から荷物が届き、そのとき、我がシェアハウスでは唯一家にいたおじさんが荷物を受け取ってくれ、これもシェアハウスのメリットだと書いた。
 婆やと言ったが、私より若い。私の妹と同い年である。
 その婆やから、年末に煮豆等々が届き、数日前にマーマレードが届いた。この人とのいきさつは、説明するのが結構大変なので省略し、「鳥取の婆や」で済ませるが、婆やは料理の名人である。煮豆なんかは、私が知っているなかでの最高傑作だ。今回いただいたものも、最高傑作であった。
 我がシェアハウスのおばさんは、その最高傑作を少量ずつ何人かに配り、「どう? おいしいでしょう」と威張っていたのだが、私らの食う分が減るのになあ。我ながらしみったれた言い方だけど、出し惜しみをしたくなるくらいの出来である。
 話は変わるが、私は母の家で、母の介護を足かけ3年やった。食事の支度も、全部私がやった。母の好物は、煮魚、煮豆と、煮物周辺だったので、私なりに努力はした。煮魚はだいぶうまくなったが、煮豆のほうは、最後までだめだった。「煮豆みたいなもの」しかつくれなかった。煮物全般が私には難しいんだろうと思う。不得意分野である。
 婆やの煮豆は、皮がピンとして、まず姿が美しい。味も甘すぎず、豆そのものの味もわかり、しかもその後から隠し味のショウガの香りが来る。「隠し味の香り」などとヘンな言い方と思われるかもしれないけれども、それだけ絶妙ということである。
『聡明な女は料理がうまい』(桐島洋子)という本があるが、この婆やも聡明な人なんだと思う。余談だが、桐島洋子さんの子どもが桐島かれん/ノエル/ローランドである。若い人はお子さんのほうなら知っているかもしれない。
 さて、婆やは、私が一人暮らしだったころから、いろいろと救援食糧を送ってくれたが、鮮烈だったのは、蕗の薹味噌である。これで、私は蕗の薹味噌の味をおぼえた。食べ物に対する形容としては変かもしれないが、清冽と言っていい味だった。
 蕗の薹そのものも送っていただいたことがある。これは、指示に従って、牛肉と一緒にすき焼き風にして食べた。これも、清冽。
 ジャム、マーマレードもその当時から現在まで、ずいぶん送ってもらった。これは、毎朝、焼いたカンパーニュにバターとともに乗せ、いただいている。
 焼いたカンパーニュをオーブントースターから皿に移すときには、バターナイフをグサッと刺して運ぶ。こうするとバターナイフが温まり、その後バターを切るときに楽である。この手口は、平松洋子さんのエッセイでおぼえた。
 平松洋子さんは、こと食に関しては、私が絶大の信頼を置いている人だが、鳥取の婆やも似ているところがある。料理の手際等々も似ているが、外見もどことなく似ている感じがする。
 いただいたジャム、マーマレードがある期間は、それを使った朝食を摂ると、なんだか幸せな気分になる。 

群馬について私が知っている二、三のことなど0113

 昨年10月21日の『シェアハウス・ロック』で、金がなく、暇だけはある老人は、よく市民講座に行くと言い、呑龍上人がテーマの講座に行ったお話をした。
 そのときに、上毛カルタで知っていた、

お 太田金山 子育て呑龍

というのが謎だったので、同一人物かなと思い、この講座に行ったこともお話しした。
 上毛カルタは、昭和22年に完成して以来、群馬県の小学校では、正月に上毛カルタ大会が催され、これは伝統行事になっているという。小学生が郷土を知るのは、とてもいいことだと思うし、それをゲーム化するのも、なかなかのアイディアだと思う。
 こういうカルタは、あちらこちらの都道府県にあってよさそうに思えるが、意外とない。市単位では、八王子市にはあるし、静岡県の島田市にもある。他にもあるに違いないが、県単位というのが、私が知る限りない。県単位ではこういうことには動きにくいメカニズムでもあるのだろうか。
 上毛カルタをつくるにあたっては、まず『上毛新聞』紙上で構想を発表し、かつ題材を公募したという。それを元に、郷土史家や文化人ら18人からなる編纂委員会が現在の形にしたというが、国定忠治、萩原朔太郎、群馬交響楽団に触れていないのが私としては不満である。
 国定忠治は群馬県人(当時は県じゃないけど)で一番有名だと思う。やーさまだから取り上げなかったのかなあ。ただ、国定忠治のことらしい札はある。これは後述。
 萩原朔太郎は、昭和22年時点では既に亡くなっているので、取り上げられる資格は十分に満たしていると思う。なまじ生きてると、人間ってのは、なにをやらかすかわかったもんじゃないからね。油断ができない。もし取り上げた後にヘンなことをやると、編纂委員会の瑕疵になってしまう。
 群響は、もう設立はされていたが、全国区になるのは上毛カルタ完成後の映画『ここに泉あり』(昭和30年)によってである。だから、仕方ないのかもしれないけれども、だけどさあ、地元だぜ。なんとかならなかったものか。
 それとも、芸術方面にはうとい県民性なのか、あるいは、「芸術なんて!」という県民性なのか。よくわからない。
 でも、逆に、義人であったという茂左衛門や、篤農家だったらしい船津傳次平などは、私は上毛カルタでしか知らない。塩原太助は、さすがに名前くらいは知っていたけれども。
 数回連続で上毛カルタ関係のお話をし、5つずつ読み札を紹介していこうと思う。
 まず、今回は再掲だけれども「あ」行から。

あ 浅間のいたづら鬼の押し出し
い 伊香保温泉日本の名湯
う 碓井峠の関所跡
え 縁起だるまの少林山
お 太田金山 子育て呑龍

き 桐生は日本の機どころ0114

 私が小学生のころ、夏休みが終わると、ほとんどの友だちが「田舎」に行ってきた話をした。私は、それがうらやましくて仕方なかった。
 私の母は、そのころ私たちが住んでいたところから南に4Kmほど行ったところの出である。まあ、母の実家であることは間違いないし、そして、当時は十分に田舎ではあったが、でも田舎としてはいまいち迫力に欠けた。歩いて行こうとすれば行ける距離である。
 父は、満州帝国奉天市露国租界というところの生まれだ。当時は行こうとしても行けない。
 それで、夏休みが終わると、友だちから田舎の話を聞かされ、それがうらやましく、家に帰ると、「みんないいなー。田舎があっていいなー」とうわごとのように言っていたのである。
 中学一年のときのことだ。もう外に出してもそれほど迷惑をかけまいと判断したのだろう、母の知り合いで、かつ私の同級生もいるうちの田舎に行けることになった。私にとっては、はじめての田舎である。それが、群馬県の桐生市だった。
 一週間の旅程で、そのうちの一日、そのお世話になった家のさらに実家に行くことになった。田舎の田舎である。
 市街地からだいぶ山に入った農家だった。昼食に、おばあさんがうどんを打ってくれた。えっ、蕎麦じゃないのと驚いたが、この驚きは序の口だった。
 3時ごろになり、おばあさんが、「冷や汁食うか」と言った。友だちは「食べます」と答えた。
 ところが、この冷や汁がすさまじいものだった。
 つくり方を記す。
(1)味噌を水で溶く。出汁などを使ってはいけない。
(2)三つ葉、ネギ、紫蘇等々生で食える野菜を千切りにし、(1)に入れてかき混ぜる。
(3)(2)の結果物を、お冷ごはんに掛ける。
(4)「食え」と言って出す。
 私は、必死で口に運び、必死に嚥下した。こういう食い方だから、すぐに食い終わる。
 それを見て、おばあさんは「うまいか?」と聞いてきた。こっちは、無辜の中学一年生である。「もう、お腹いっぱいです」などという知恵はない。当然、「はい」と答える。
 おばあさんは、「もう一杯食え」と言って、次の一杯をつくり始めた。私は、中学一年生にして、「ああ、絶望というのはこういうことなのか」と知ったのである。
 ここで、冷や汁の名誉のために言っておくと、冷や汁は決してまずいものではない。後年、新宿にある宮崎のアンテナショップで食べた冷や汁はおいしかった。
 ちゃんと出汁をとり、温かいご飯にかかっていて、相当にうまいものだった。
 最後に、おばあさんに遅まきながらお礼と、せっかくつくってくれたのに、ヘンなことを言ってしまったお詫びをする。

か 関東と信越つなぐ高崎市
き 桐生は日本の機どころ
く 草津よいとこ薬の温泉
け 県都前橋、生糸の町
こ 心の燈台内村鑑三

そ そろいの仕度で八木節音頭0115

 八木節は、河内音頭とちょっと似ているところがある。両方とも、日本では比較的少ない語り系の民謡である。英語の歌ではバラッドに相当する。バラードじゃないよ。バラッドである。
 河内音頭には、ギターなど洋楽器もけっこう使われる。一方、八木節は、笛と、太鼓の代用の酒樽というのが伝統的スタイルで、それを大きく出ないという印象があった。
 あるとき、新聞記事で、いとろ囃子連という人たちと、彼らと一緒に踊りをやる人たちが素晴らしいというコラムを読んだ。署名記事だった。85年ころだったと思う。その方のお名前は忘れてしまったが、好意的な記事だった。私は、河内音頭と同じように、八木節ももっと革新的なものになるのではないかと、ずっと思っていたのである。
 いとろ囃子連の追っかけになり、新聞記事などにも注意をはらい、公演には何度も行った。何回目かにはだいぶ仲良くなり、打ち上げ用の一升瓶なども持参した。
 太田市で行われた、いとろ囃子連の公演を聴きに行ったときのことである。
 私はやっと、いとろ囃子連のボスらしき人に、「河内音頭には、ギターとか洋楽器を使うのに、八木節にはなんで使わないんだろうと思って、ずっと待ってました」と言うことができた。「ぼくも待ってたんですよ」という返事が返ってきた。この人、相当の人だなと思った。和楽器屋の二代目か三代目の人だった。伊藤さんといったと思う。
 次の疑問、「なんでいとろ囃子連っていう名前なんですか」も聞けた。伊藤さんは、「もともと、私らの紋はアゲハ蝶でしてね」と言った。
「あっ、わかった!」と言ったら、伊藤さんはビックリした顔をしておられた。
 こんなこと、音楽少年あがりには簡単である。
 音名のAGH(アー、ゲー、ハー)は、和名ではイトロである。簡単、簡単。簡単とは言ったが、これはほとんど音名順(ゲー、アー、ハーが音名順)だからね。すぐわかる。もうちょっと順序が違っていたらわからなかっただろう。
 太田市にお邪魔した少し後で、私は母親の介護で忙しくなり、追っかけはできなくなった。その母が亡くなり、暇になったころに、いとろ囃子連をネットで検索してみた。そのときは、和太鼓グループに再編されていたようだった。
 追っかけをやっていたころのパーカッショニストは、相当な腕っこきで、私はあれ以上のパーカッショニストは、世界中で10人も知らない。
 あの人が指導してるんだとしたら、相当の和太鼓グループになっているに違いない。
 またネットで調べて、今度、行ってみるかな。

さ 三波石と共に名高い冬桜
し しのぶ毛の国二子塚
す 裾野は長し赤城山
せ 仙境尾瀬沼花の原
そ そろいの仕度で八木節音頭

て 天下の義人 茂左衛門0116

 これも、「お 太田金山子育て呑竜」同様よくわからないが、それでも、茂左衛門さんという人がいて、その人が義人であるということは見当がつく。見当がつくとは言ったが、ただ単に読んでいるだけだな、これは。
 以下で、茂左衛門さんに行きつくまでに手間暇かかるけど、ちょっと我慢してね。
 真田昌幸には何人か男子がいて、その一人が真田幸村である。幸村はNHKのドラマでもおなじみになった。
 真田昌幸は時代を読み、もう一人の子ども、信之を徳川側につけ、幸村を大阪側につけた。信之は上田藩の初代藩主になり、一応こっちの系統の真田家は残った。
 ここまでは、『真田太平記』(池波正太郎)による知識である。『真田風雲録』( 福田善之)も名作だが、こちらは戯曲。映画にもなっている。こっちは、「滅びゆく者の美学」というか、敗北者の矜持というか、そういったことがテーマであり、私はいまでも好きである。
 さて、信之から何代目かの真田信利が、我らが茂左衛門さんの時代には、沼田藩主になっていた。これが大変な殿様で、寛文元年(1661年)に領地177か村の検地を行い、3万石の石高を14万4千石にした。5倍増に近い。税金が5倍だよ。これだけでも相当エグいのに、その他にも新税を次々に発明した。
 茂左衛門は沼田領民の窮状を訴えるため、酒井雅楽頭に駕籠訴を試みたが失敗。次に、知恵を絞って、東叡山御用と記した文箱に訴状を入れ、厳重に封をした後これをわざと忘れ、寛永寺貫首輪王寺宮に届けることに成功した。宮経由で訴えは徳川綱吉に伝えられ、幕府が沼田領を調査した結果、訴状の通りであることが判明。天和元年(1681年)に真田信利は山形へ配流された。いい気味である。
 一方、茂左衛門のほうは、訴えた後に他国へ潜伏していたが、幕府の処置で安心し、国に帰ったため、自宅に着く前に捕縛された。沼田領民の代表者が江戸に向かい、助命嘆願を行った結果、茂左衛門の助命が決まり、上使が赦免状を携え沼田領に向かったが、上使到着直前に、磔刑に処せられていたという。
 沼田領民は菩提を弔うため、刑場跡に地蔵尊を建立したが、それがいまに残る茂左衛門地蔵である。
 ただし、この話は、茂左衛門さんに関しては伝承であり、ディテールはあまりあてにならないという。たとえば、時の将軍は綱吉ではなかったという説もある。それでも、大筋のところは正しいのだろう。茂左衛門さんは実在したのだろうし、訴えもしたのだろうが、特に助命、磔刑の経緯があやしい。ドラマチックに過ぎる。それに、徳川幕府は、百姓どもの助命嘆願くらいで磔刑をやめるほどの甘ちゃんではないはずだ。
 今回の話、茂左衛門さんに関しては、Wikipedia等々のにわか勉強であることをお断りしておく。

た 滝は吹き割り片品渓谷
ち 力あわせる190万
つ 鶴舞う形の群馬県
て 天下の義人茂左衛門
と 利根は坂東一の川

ぬ 沼田城下の塩原太助0117

 塩原太助は、上毛カルタでは「太助」であるが、一般には「多助」である。これが私が塩原太助について知っているひとつ目。ふたつ目は、愛馬「青」と別れたこと。これにしても、どういういきさつかはまったく知らない。
 だから、名前しか知らないと言っていい。
 あと、三遊亭圓朝に『塩原多助一代記』があり、これの存在は知っている。明治11年(1878年)の作で、刊行は明治18年(1885年)である。
 また、井上馨邸で、『塩原多助一代記』が圓朝自身によって口演されたことは知っていた。これには、明治天皇も臨席していたことも知っていた。これは、明治24年(1891年)のことだったという。以上が、塩原太助関連で私が知っているすべてである。
 ここからは、Wikipediaによるにわか勉強である。
 寛保3年(1743年)、上野国利根郡新治村下新田(現在の群馬県みなかみ町)の農家、塩原角右衛門の子として誕生。宝暦11年(1761年)、江戸表へ出る。明和4年(1767年)、『角右衛門人別帳』に「男子彦七、江戸南伝馬町味そ屋太郎兵衛方へ酉より八年期奉公」とある。
 後に、神田佐久間町の炭屋山口屋善右衛門方に奉公。勤勉な働きぶりで蓄財に励む。
 天明2年(1782年)、独立。本所相生町二丁目堅川付近に店を構え、木炭の粉に海藻を混ぜ固めた炭団を発明し大成功をおさめる。
 富豪になってからも謙虚さを忘れず。清潔な生活を送り、私財を投じて道路改修や治水事業などを行った。塩原太助が贅沢を戒めた逸話は、『宮川舎漫筆』に記録があるという。
 にわか勉強はここまで。
 まあ、立派ではあるかもしれないけれども、つまんねえ人生だな、悪いけど。道徳教育用に生まれてきたみたいだ。
 この履歴で、姓があるので生家は庄屋だったのではないかとか、満18歳で江戸に出るのはちょっと遅いのではないかとか、炭団に混ぜた海藻は「つなぎ」なのだろうが、それ以前は皆さんどうしていたのだろうかなどと、いくつか調べたいことが出てきた。
 いずれにしても、明治期の刻苦勉励という風潮をバックに登場した人なんだな、塩原くんは。
 なお、私なんぞの駄文にあき足らない人には、前述の『塩原多助一代記』があり、たぶんこれをテキストとしたものが「青空文庫」にあげられていることをお知らせしておくが、これは実のところ相当にエグい。速記本だろうと思う。
 私は、夏目漱石の『坊ちゃん』を小学生のころに読んだ。あれも漢字ばかりで、しかも難しい漢字が多く、さらに「鳥渡」「兎に角」などと書いていて小学生の身にはなかなかエグいものだったが、そのときのエグさを軽々と超えている。私なんぞには、とうてい歯が立たなかった。フツーの古文のほうが、まだ読みやすい。
 言文一致をやろうとしていた二葉亭四迷に、坪内逍遥が「圓朝の人情噺を範にとれ」とアドバイスしたという。でも、逍遥には悪いけど、『塩原多助一代記』と口語には、相当の距離があると思う。。

な 中仙道しのぶ安中杉並木
に 日本で最初の富岡製糸
ぬ 沼田城下の塩原太助
ね ねぎとこんにゃく下仁田名産
の 登る榛名のキャンプ村

ふ 分福茶釜の茂林寺0118

 私は、小学校に入る前に、すでにしてなかなかの読書家であった。とは言っても、ようするに日本昔話、アンデルセン童話等々の、それも大半は絵本である。
 日本昔話では、「桃太郎」「浦島太郎」「一寸法師」「花咲じじい」「金太郎」そして当該の「分福茶釜」等々を読破(ワハハ)した。
「桃太郎」「浦島太郎」「一寸法師」「花咲じじい」にはオチ、もしくは結論があり、それなりに納得もできたが、「金太郎」「分福茶釜」にはオチも結論もなく、なんだか釈然としない思いが残った。
 ネットで拾ってきた「分福茶釜」のストーリーを、以下に紹介する。

 お寺の和尚さんのもとへ毎日やってきていたたぬきがいたが、ぱったりと来なくなった。
 実はたぬきは茶釜になって、古道具屋に売られていたのである。古道具屋で、たぬきは芸をして古道具屋と一緒にお金を稼いだ。
 たぬきは茶釜から元の姿に戻れなくなってしまったが、古道具屋がお寺に納め、和尚さんのもとで大事に扱われることになりましたとさ。

 ねっ、なんだか釈然としないでしょ。
 新島襄は、同志社の創立者である。この人の英語名はJoseph Hardy Neesimaだそうだから、私らは「にいじま」と読んでいるけど、「にーしま」なんだね。「譲」が「Joseph」なのは順当。「Hardy」は、よくわからない。クリスチャンネームだろうか。新島襄は、天保14年生まれである。
 山本夏彦先生によると、大正時代くらいまでは「天保老人」という言葉があったそうだけど、その「天保老人」のひとりである。江戸時代と、明治は、意外と近いというか、あたりまえだけど地続きである。
 上毛かるたを創った人たちには悪いけど、田山花袋が「文豪」というのには、ちょっと抵抗がある。『蒲団』『田舎教師』は読んだけど、自然主義の巨頭といったあたりが順当だろうと思う。文豪は、夏目漱石、森鴎外、幸田露伴、下って谷崎潤一郎、永井荷風、川端康成といったあたりが、どこからも文句が出ないところだと思う。このラインアップで誰かを忘れていたら、その誰かには「ごめん」と申しあげておく。

は 花山公園つつじの名所
ひ 白衣観音慈悲の御手
ふ 分福茶釜の茂林寺
へ 平和の使い新島穣
ほ 誇る文豪田山花袋

ま 繭と生糸は日本一0119

『呪われたシルクロード』(辺見じゅん)という本がある。1975年の刊行である。刊行後、すぐ読んだので、私が26歳のことになる。辺見じゅんは、角川春樹のお姉さんである。
 このシルクロードは、群馬から八王子を経て横浜に至る。これが「本線」である。横浜の反町が、その終点だ。反物を扱ったんで反町なんだろう。山梨から八王子に至る支道、群馬からさらに長野に至る道もあった。
 ところで、なぜ「呪われた」なのか。ひとつ目は、1963年、道了堂(現在の「絹の道」沿い)の堂宇を守っていた老女が殺害される事件が起きたからである。同書には、この老女と村民との関係や、堂宇の所有権をめぐる争いなどが描かれている。
 道了堂は、永泉寺の別院として明治7年に創建、正式名称は大塚山大学寺。案内板には、浅草花川戸から道了尊を勧進したとある。現在道了堂跡を含む丘陵は大塚山公園と呼ばれている。
 ふたつ目は、鑓水商人と呼ばれた豪商が、身代限りか、せいぜい3代目で没落していったからである。
 鑓水は谷戸地で田畑が少なく、土地も痩せており、桑畑がほとんどだった。養蚕地帯である。ここでできた生糸を売ったのが鑓水商人であった。横浜開港前、文政年間にすでに鑓水商人は知られ、この時代は密貿易をしていたようだ。
 横浜開港後は、八王子は織物の街となった。機屋があちこちに生まれ、そこでは農村の娘たちを労働力として雇い、街全体が殷賑をきわめた。同書では、この娘たち、また娘たちの歌った機織り歌にも紙幅が割かれている。
 集落としては狭隘な鑓水であるが、そこに年商千両以上の商人が5人もいたという。そのなかに、狼の五郎吉が通称の大塚五郎吉がいた。五郎吉は生糸や茶の輸出だけでなく、密貿易や高利貸し、八王子の遊郭の経営にまで手を広げていたという。また、オランダ人を顧問にかかえた商人もいたという。 
 五郎吉を始めとして、隆盛をきわめた鑓水商人であったが、経済恐慌のあおりで生糸の暴落に見舞われ、没落していった。この生糸の暴落は、秩父困民党事件の引き金でもあった。
 私が、『呪われたシルクロード』を読んだのはまだ江戸川区にいたころで、まったく土地鑑がなかったのだが、それでも面白く読んだ。八王子に移って真っ先に行ったのが「絹の道資料館」(八王子市鑓水989-2)だった。
 このときは、『呪われたシルクロード』を読んでからほぼ40年経っていたし、『呪われたシルクロード』もどこかへ行ってしまっていたので、固有名詞などはだいぶ忘れていた。その後、『呪われたシルクロード』が手に入り、再読した。この本は、いまこちらでできた友だちの間を回っている。
 私の手元に戻ってきたら、もう一度読んで、それからまた「絹の道資料館」に行ってみようと思っている。
 
ま 繭と生糸は日本一
み 水上、谷川スキーと登山
む 昔を語る多胡の古碑
め 銘仙織り出す伊勢崎市
も 紅葉に映える妙義山

わ 和算の大家関孝和0120

 関孝和は、宋末に発展を遂げた天元術研究から数学の道に足を踏み込み、研鑽のうえ、和算を確立した。『発微算法』(1674年、延宝2年)には、終結式を用いた変数消去の方法が述べられ、行列式に相当する式が現れている。
 また、関孝和は、微分法と積分法の基礎を発見していた。アイザック・ニュートンやゴットフリート・ライプニッツよりも前に微分積分学を創始したとは必ずしも言えないが、時代的に拮抗していたことは事実である。
 冲方丁の『天地明察』は、江戸時代前期の囲碁棋士であり、天文・暦学者の安井算哲(渋川春海)が主人公だが、関孝和も脇役として登場する。
 暦に関する関孝和の功績は、円周率の近似値の算出である。1681年前後に、正131072角形を使って小数第11位まで算出した。
『天地明察』では、算額が物語の装置として登場する。算額は絵馬のようなもので、和算家が問題が解けたことを神仏に感謝し奉納したと言われるが、人々の目に触れる神社仏閣に掲げられるため、問題の発表の場としても機能し、それに対する解答、あるいは設問の発展形なども掲示されたという。SNSみたいなもんだな。
 ここまでで、「無根拠に日本大好き」で、「日本偉いっ!」と思いたい人は、「日本人凄い!」と言いたがるだろうし、そういうトンチキは「こういう下地があったからこそ、明治に西洋から高等数学が導入されてもすぐに理解した」などと世迷い言を言うだろうが(ネットでこの世迷い言を実際に見た)、なーに、偉いのは関孝和であり、その門弟であって、ここでは日本人全般が偉いわけではない。
 八つ当たりかもしれないが、私は『Youはなにしに日本へ』というテレビ番組が嫌いである。
 1997年に行われた調査結果によると、日本全国には975面の算額が現存しているというが、私は3面しか見ておらず、そのどれも、残念ながら私には解けなかった。頑張れば解けそうなのが1面だけあったが、残り2面はどういう問題なのかすらわからなかった。
 ちなみに、優れた業績をあげた関孝和とその門弟だったが、それが一般人にまで伝わらなかったのは家元制度の弊にあったと、私は考えている。

や 耶馬溪しのぐ吾妻峡
ゆ ゆかりは古し貫前神社
よ 世のちり洗う四万温泉
わ 和算の大家関孝和

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