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いつまで公募に出すのか

本稿では、などといつも通り小論文気取りで書き出したいが、自身のこころと頭の整頓のために書き散らそうと考えている。あるいは、同じ公募活動をしている人や、文字を書いている人、文字を読む人、文学と関わる人が少しでもこころ安らぐように。念のため記すが、暗い内容にはならないはずだ。

単刀直入に、「飽きるか辞めざるを得ない状況になるまで」だと思う。何周も考えたが、ここに帰結する。飽きるとは文字通り。辞めざるを得ない状況というのは、あまり想像はつかないが、生活に困窮して公募作を書いている暇すらもないような状況や、家庭を持つなど日常に急激な変化が起きた場合だろうか。また、才能も実力もゼロだと判明し切ってしまった場合も、辞めた方が良い気がする。

 仮にの話だが、年に3本、3年で9作書いて応募し、全てが一次落ちしたら、よほど下手かそもそも何らか規定を読み飛ばしている可能性大だろう。これは他人に言っているのではなく、僕自身に聞かせているのである。実際のところ、「今年4作も出したし、これで箸にも棒にもかからなかったら自分は才能ないから、公募やめよう」などと思った年に限って、一次審査が通るものである。そして二次で落ち、膝から崩れ落ち、これなら一次で落としてくれ、郵送先間違えちゃったかなと思わせてくれ、世界から争いをなくしてくれ、代わりにトイレに行ってくれと思うのである。こんなに落ち込むなら期待しなきゃよかった、草や花に生まれたかった、昔の恋人をもっと大事にすればよかった、早めにトイレットペーパー買っておけばよかったと思うのである。

 公募活動はある種の夢を追いかける行為であるため、それなりの年齢やタイミングが来て、結婚だとかなんだとなったとき、休止はするかもしれない。けれども、あまり公募活動してない自身の図が想像できない。
 今年すでに、「あと何回落ちればええねん」という気持ちに幾度かなったが、結局のところ机に向かってしまうのである。この力というのかやる気というのか、執念があるうちはやめないだろう。

 もうひとつ、大前提の話をしたい。いつまで執筆をやるのか、ということである。むしろこれを考えたい。ここからが本題である。いつまで執筆するのか。「僕が死ぬか、書けなくなるまで」である。
 執筆という行為が体に染み付いているのか、正直趣味と言っていいのかも分からないほどで。僕にとっては、食べ物を食べるが如く、愛する人を抱きしめるが如く、ごく当たり前のことなのである。

 例えばここに全知全能の神が現れて、「一生公募活動ができないか、一生セックスができないか、どちらかを選びなさい。でなければ、あなたの生命活動は本日が最期です」と言われれば、即答で公募活動を捨て、腰を振るだろう。だが、神が「一生執筆ができないか、一生セックスができないか、どちらを選びなさい」と言えば、相当悩む質問だ。これは手強い質問である。苦渋の二択とはこのことである。10時間くらい悩ませてくださいと言って、最後にはセックスを諦めるだろう。その10時間で、最も愛する人のところへ駆けつけて、その人を大切に大切に抱くだろう。

 人生、というと壮大かもしれないが、ともかく書いていない自分というものが、全く想像できないのである。読み好きが始まりであったが、文字を書くこともまた、小さい頃から共にあった。中学生の頃の担任の先生との交換日誌は、皆がだんだん提出しなくなっていく中で僕は毎日書いていたし、3年間、どの先生も「そらの日記が一番面白い」と言ってくれていた。まあ、三学期には僕しか提出していなかったかもしれないが。

 何かというと日記を書いたり手紙を送ったり、ときどき学校で表彰されたり、生徒の前で作文を読まされたりした。だいたい公募民などそんな人ばかりで、初投稿はウキウキで投稿し、「このまま最終選考まで通ってデビューしちゃうかな」などと妄想し、結果を見て海の広さを知るのである。応募する人の中には、才能や素質があって、その上努力もインプットも惜しまず、成長の早い化け物がいくらでもいる世界なので、落選する方が当たり前である。

 ここまで書いておいてこれから公募活動する人に拙いアドバイスであるが、もしあなたが初投稿前後で、試しでなく本気で公募するつもりなら、一作目の結果など待たず、二作目三作目もできるだけ書いて、他の賞に応募しておくといい。僕は公募活動一年目にワクワクで一作しか出さず、簡単に落選して、他の賞に応募しているわけでもなく公募民としては空白の半年を過ごした。もちろん、一作一作受かる気で本腰入れて書いてはいるが、確率的に大学入試より狭い門を見て、一旦冷静になる方が賢いだろう。

 話を戻すが、文字を書くという行為は常に自分のそばにあったし、これからもそうだろう。キャラやお話を考えて、ときに詩を書いて、僕のこころは落ち着いた。文学や執筆は裏切らないし、書いたものが残ってさえいれば、そのときの気持ちを思い出せる。
 恋人と破局して東京に置き去りにされたクリスマス、脱腸して下腹にメスを入れる手術をしたとき、恋人に浮気を疑われてスマホの画面が割れるまでぐちゃぐちゃに取り合った夜、昼休み5分の銀行員時代、物語がいつも僕を支えてくれたし、輪郭を形作ってくれた。
 ちなみにスマホバキバキちゃんはよく僕の耳たぶを噛んでは、
「本当は別の彼女いるんでしょう」
 と言って歯を立てて、もう血が出るほどの力だった。ときに今日こそ噛みちぎられるのではないかと思わされた。それでもいいかなと思った。愛する人に安心を与えられないのなら、この世に生まれた意味はない。

まあおいといて。
 右腕が焼け、左腕が切り落とされても、口や足で書く努力をするだろう。あるいは、信頼できる友人や恋人に頼んで、代筆してもらうかもしれない。名を馳せずとも、世界のどこかで、キーボードに打ったり、大学ノートに書いたり、何かの切れ端にアイデアを書き留めたり、そういう生活をずっとしていくのだろうと思う。
 だから、筆そのものを折ろうと考えたことは一度もない。

公募活動についてはっきりとしたリミットは決めていないが、やる気ある限り、少なくとも今年いっぱいは続ける気でいる。人生の転機とか、年齢的な問題で諦めるよりかは、もう十分やったし限界が知れたと思いながらやめたいものだが、こればかりは分からない。
 プロでも大物でもないので、引退宣言などまずしないだろう。もしも公募をやめたり、このペンネームを捨てるときは、何も言わず、ひっそりと消えていくだろうと思う。それでも、誰に読まれずとも書き続けるのだろう。ときおり、誰にもらったか覚えられる量のファンレターや作品へのお手紙などを読み返しながら。

最後に、僕はもう一次落ち程度ではほとんど落ち込まなくなったが、公募落選で落ち込んでいる人がいたら、助けになるか分からないが言いたいことがある。
「応募した時点であなたは頑張った」

これは慈悲でも優しさや甘さでもない、むしろドン引きの念である。長編公募というのは、賞によってムラがあるが、10万字前後である。短くて8万字、長くて15万字以上のこともある。10万字って、原稿用紙で考えたら250枚である。250枚のお手紙が送られてくるところを想像して欲しい。しかもそれは、一本のストーリーである。僕なら走って逃げる。
 大学生がゼーハー言いながら書いている卒業論文が、長くても2万字である。あちらは書き方が全く違うので単純な比較とはいかないが、好き好んで10万字書くなど、正気ではない。

面白くなかろうと、時系列がおかしかろうと、矛盾だらけであろうと、妄想の垂れ流しであろうとも、一つの話を10万字書けるという人はイカれている。大抵の人は途中で諦める。おめでとう、あなたはイカれています。多数の賞に応募している場合、もっとぶっ飛んでいます。

ここいらで、十二分に自身と執筆が親密なことが体感できたので一旦筆を置く。全ての読書家と物書きが安らかに眠れますように。

おわり

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